インド官僚制度に思うこと

前駐インド大使 榎 泰邦

はじめに
 今回のインド在勤を通じいくつかインドを羨ましいと思うことがあった。1960年代の高度成長時代の日本を彷彿とさせる経済活力と横溢する将来への楽観主義もその一つであったが、ちょうど日本で官僚バッシングが時代風潮とも言うべき時期に当っていただけに、国を支えているとの強烈な自意識とそれを可能にする制度的枠組みを持つインド官僚制度に対しては心から羨ましく感じた。
そもそも、官僚に強大な権限が与えられるのは、絶対王政下での「国王の勅任官」を除けば、昔から植民地統治と社会主義統制経済下と相場が決まっている。インドは、英国植民地時代とネルー政権後の社会主義政策と双方とも経験するなかで、ICSとIAS(インド高等文官)制度を育ててきた。その意味では、インド官僚制度は歴史的所産であって、経済自由化の進展とともに変革を余儀なくされる運命にあるとも考えられる。天皇の官吏および戦後統制経済下で大きな権限を与えられた日本の官僚制度が変革を迫られたのと同じ道をいずれは歩まざるを得ないとの見方もあり得よう。
しかし、私にはそう簡単に決めつけられないのではないかとの思いがある。インドは、古代インド・マウリア朝の名宰相カウティリアが書き残したと言われる「アルトシャストラ」(実利論/君主論)の国である。この国家統治論は、「国家経営の要諦は、法秩序の維持と十分な行政機構にあり」から始まる。因みに、カウティリアはチャナキャプリとも呼ばれ、現在、日本大使館も所在するニューデリーの大使館地区の名称として残っている。5千年という長い歴史の中で数多くの王朝の興亡を経験し、16~17世紀には明、オスマントルコとともにユーラシア大陸を三分したムガール帝国興隆の歴史を通し、また英国植民地統治の経験から、インドには「国家統治には、優秀な官僚制度という背骨が必要不可欠である」との確固たる政治哲学が根付いているように観察される。そうであるならば、我が国の官僚制度を考える上でも、時代の要請に応じて変革を試みることは当然としても、インドの歴史の知恵に学ぶところもあるのではないか。
こうした思いから、私がインド官僚制度の如何なる点に興味を持ち、また羨ましさを感じたかについて主観を交えて書いてみることにした。従って、本稿はインド官僚制度の詳細な解説を意図したものではない。この点は、拙著「インドの時代」(出帆新社)をご参照頂ければ幸いである。

1.社会的敬意と高い期待
インドで名刺交換をすると、肩書きの代わりに単に「IAS」と刷り込んだ名刺に出会うことが多い。IASはIndian Administrative Serviceの略であり、「インド高等文官」とでも訳せばよいであろうか。この肩書きは、時として、IFS(Indian Foreign Service、外交職)であったり、IPS(Indian Police Service、警察職)であったりする。会社社長といってもピンからキリまであるし、政治家も次の選挙で落選するかもしれない。それに対し、IASは、全国統一ブランドであり、かつ、一度IASに採用されれば、一生使用できる肩書きとなる。その意味で、IASはインドでもっともブランド力の高い肩書きであり、IASブランドに対する社会的敬意と期待には極めて高いものある。
それでは、かかる高いブランド力の背景には何があるのであろうか。私は、インド植民地官僚制度以来の歴史的伝統、及び超エリート選抜制度としてのIAS制度に対する社会的信頼度、の2つであると観察している。
先ず、英国植民地官僚制度(ICS、Indian Civil Service)であるが、ここでは制度そのものの解説は省く(ご興味のある方には、講談社選書、本田毅彦著「インド植民地官僚~大英帝国の超エリートたち」をお奨めする)。インド亜大陸のほぼ全域を統治した例は、歴史上、アショカ大王のマウリア朝、ムガール帝国そして大英帝国の3度しかない。英国は、現在のビルマ、パキスタンを含む広大なインド亜大陸を、1千人の官僚群と1万の陸軍で統治した。インド副王を勤め、後に外相になったカーゾン卿は、「我々は、インドを支配する限り常に世界最大の強国たりうる。もし、インドを失えば、残った植民地は何の価値もなくなり、英国はたちどころに三流の小国に転落する。」と述べた。このインドを統治するために、英国は優秀で野心に溢れる人材を投入した。そして、人材選抜のために用意されたのが、ICS制度であった。ICS制度の導入は1855年であるが、英国本国で有力者推薦による情実人事がまかり通っていた時代に、一切の情実人事を排し、試験結果によってのみ選抜した。試験合格者は、採用後10年、30歳前半で県知事として地方行政の一切を委ねられ、更には州総督への道も開かれていた。給与面でも恵まれ、インド政庁の局長レベルで、現在価で年収2~3千万円を支給され、25年間勤務すれば700万円相当の年金が保証されていた。当初は、英国人に受験資格が限定されていたが(合格者の80%がオックスフォードないしケンブリッジ大学出身)、次第にインド人にも開放され、インド独立前夜にはインド人がICS構成の半分を占めるにまで至っていた。
1947年の独立後、新政府として如何なる官僚制度を設計するかが重要課題となった。種々の経緯を経て、新政府は、基本的にICS制度を継承しつつIAS制度として発足することに決定した。但し、ICSと異なり、(イ)IAS文官は中央政府と地方政府の双方に奉仕する「二重任務」とする、(ロ)そのため、採用後、IAS文官には退官まで一貫して担当する州を特定し、中央政府と担当州勤務とを往復させる、(ハ)中央政府と地方政府による制度の共同管理体制を敷き、中央が一元的人事権を有する一方で、地方は給与などの経費を負担する、等の制度設計を行った。「二重任務」という形で、変革は行われたが、インド官僚制度にはICS以来の1世紀半に亘る歴史の裏付けがあり、この伝統が現在のIAS制度に対する評価を支えている。

次に、超エリート選抜メカニズムとしてのIAS制度に対する信頼度がある。伝統だけでは、風化するだけである。制度として機能しているとの実績の裏付けが必要である。インド高等文官に採用されるためには、高等文官試験(CSE、Civil Service Examination)という共通試験に合格する必要がある。CSE試験合格者は、毎年、概ね400~500人であり、1番からビリまで成績順位が発表される。2006年度はこの試験に38万人が応募した(実際の受験者数は20万人)。CSE合格後に用意されているのは、税関、国税庁、国鉄採用など28職種に細分化されている。このうち、中央省庁幹部用に用意されているのがIASで、これに外務IFS、警察IPSを加えた3職種が御三家としてもっとも権威があり、上位合格者のみが採用される。毎年、IASが90人前後、IFSとIPSが各10名前後、御三家合わせて110名前後と狭き門である。即ち、御三家に限れば、受験申し込み者総数38万人から100名余のみが採用される訳で、実に競争率4千倍近い厳しい選抜となる。因みに、我が国の国家公務員第一種試験の場合は、概ね14倍前後の競争率になっている(2010年度は、申込者総数26,888人に対し、合格者数1,314名と20倍の競争率)。
過去の試験例題を見ると、足切りの一次試験では「ランゲルハンス島の所在地いかん」(答;「膵臓」)、と言った奇問の類があるかと思うと、「プロゴルファーのビジェイ・シンの出身国は?」(答;フィジー)などの一般常識までまことに幅広い。但し、本試験で実際に点差がつく論文試験では、受験者の思考能力と論理構成力が評価の対象となる。例えば、数年前の例では「最近のSAARC首脳会議については、何の成果も生まなかったとの評価がある一方で、画期的な成果を挙げたとの評価もある。それぞれの評価について解説せよ。」が出題された。そうかと思うと、「インド/パキスタン分割は不可避であったと考えるか。また、本問題に対するマハトマ・ガンディー、ネルーおよびマウラナ・アザドの立場について論ぜよ。」との出題もあった。
最終関門の面接試験では、高等文官としての適正が評価される。加えて、30歳未満との年齢制限が課され、かつ受験回数も4回までと制限されているので、苦節10年型の受験生が入り込む余地は無い。結果として、優秀な頭脳と幅広い常識、バランスのとれた判断力を有する人材が選抜されることになる。また、採用後も若くして州政府で要職につき、リーダーシップと調整力が厳しく問われることとなる。一定年齢までは、中央と地方とをほぼ均等に往復するが、ふるいにかけられる中で、中央政府での出世組と地方政府滞留組とに分かれてくる。

2.政・官間での明確な役割分担
 インドは世界最大の民主主義国家、とはよく引用される言葉である。歴代米国大統領の訪印では必ずこの言葉がスピーチに入る。独立以来、一度もクーデタ騒ぎがなく、選挙による民主的手続きを経て政権交代が行われてきた。2004年総選挙で、よもやの大敗北を喫したBJP党のバジパイ党首は、「BJPは負けたが、インド民主主義は大勝利した。」との名言を吐いて下野した。従って、「政治」が政策決定に責任を持つとの原則が確立している。そもそもインドの独立達成そのものが「政治」の勝利であり、独立後の「国のかたち」を決したのも「ネルー政治」であった。実際、言葉達者との特性もあるが、自らの識見と力量でダボス会議や国際会議で中心的役割を果たす政治家リーダーも少なくない。
 その一方で、行政の執行は官僚に全面的に委ねるとの原則が確たるものとなっている。もとより、政治家と官僚との接点は明確に線を引けるものではなく、実際の政・官の関係は現場に身をおく者にしか分からない。しかし、大使としてインド政府と接する限りにおいて、インドの官僚は実に自信に溢れ、かつ明確な責任意識をもって職務を遂行していることが看取された。任国によっては閣僚クラスと直接やり取りしないと相手国の判断を確認できない場合も多い。インドにおいては、儀礼上の理由から閣僚を表敬することはあっても、こと実務に関する限り次官、局長レベルの高官との遣り取りで全てことが足りた。2004年5月総選挙を経て、BJPからコングレス党へと政権交代する前日、懇意にしていた首相経済顧問(財務次官経験者)を訪問し、これまでの協力に感謝するとともに新政権への対応ぶりにつきアドバイスを求めたことがある。経済顧問は、政権は変わっても自分の席に座るものは、同じ思考方法と論理(the same language)で与えられた課題に答えを出すので何ら心配するには及ばない、と述べていた。首相経済顧問ポストは歴代、原則、財務次官が就任している(但し、経済政策通のマンモハン・シン首相は経済顧問を任命せず)。政権は代わっても、官僚として担うべき責務は、官僚としての論理で淡々と遂行していく、との気概を感じ取った次第である。
 こうしたインド官僚の確固たる職務権限を担保しているのが、憲法による公務員の地位保障である。即ち、インド憲法第309条~第312条で、高等文官の地位につき、(イ)大統領によって任命される、(ロ)大統領の意思に反しない限りその職を保持し、任命権者たる大統領以外から罷免または解任されることがない、(ハ)問責の理由を告げられ、その問責に関して弁明する機会が与えられた調査の後でなければ、罷免、解任または降任されることはない、等々が規定されている。平易に言えば、刑事訴追によって有罪となる等特別の事情による場合を除き、ひとたび高等文官として採用された以上、罷免、解任、降任されることはない、ということである。即ち、大統領でない限り、首相、閣僚、州首席大臣といえども、高等文官を解任できない。インド大統領は原則として政治的権限は行使しない立場にあるから、インド高等文官は、身分保持に関する限り政治からは完全に独立していることを意味する。
 ここで、インド官僚制度が少数精鋭主義を取り、一人一人の高等文官の職務権限が広いことに付言しておきたい。中央省庁幹部候補生数につき、日印を比較すれば、わが国の国家公務員第一種試験合格者数が毎年1,500人前後(2010年度は1,314人に減少)であるのに対し、インドのIAS、IFS、IPS御三家採用数は100名余である。圧倒的に少ない官僚数で国家行政を支えているわけである。インド政府各省庁の規模につき、単純に公務員数だけで捉えると間違えを犯すこととなる。例えば、インド外務省であるが、職員数3,340人と、わが外務省の20年前の規模に相当する。しかし、この大部分は、お茶くみ、案内係、秘書であり、実務に携わる外交旅券保持者に限れば、本省、在外合わせ約1,000人でしかない。本省に限れば、全体1,400人のうち、外務省プロパー250人、他省庁出向者150人の僅か400人となる。こうした少数精鋭で全インド外交を支えているので一人当たりの責任と権限がそれだけ大きくなる。インド外務省の対日外交ラインとなると、東アジア局長、北東アジア課長、日本担当の3人しかいないので、偶々この3人のいずれもが不在となると、訓令の執行すらできなくなる。外務省以外の省庁では、概して全職員数に占める高等文官数のシェアは更に低くなる。大部屋主義をとるわが国の行政は、どうしてもグループで職務と責任を分担するとの意識が勝る。これに対し、インドの高等文官は一人一人がそれぞれの職責を担い、国家行政に全責任を負うとの意識が強い。

3.十分な経済的保障(手厚い年金)
 インド公務員の給与水準は、公務員給与審議会という独立機関の諮問によって閣議決定されるが、2009年、同審議会は高等文官給与を概ね3倍に引き上げる勧告を提出した。さすがに、国民の間でも関心の的となったが、政府は、同年3月勧告をそのまま受け入れる閣議決定を下した。これにより、例えば、各省次官クラスの給与は月額2.6~3万ルピーから8~9万ルピーへと引き上げられた(1ルピーは約2円)。
 本来、インド官僚制度の設計にあったては、高等文官が安心して公務に専念できるように、身分保障とともに安定した経済的保障を確保するとの原則が前提になっていた。しかるに、経済的保障の方は、予算措置を伴うだけにそう簡単には運ばない。民間経済の発展が停滞していた1980年代までは、経済界の給与水準も低く相対的に高等文官給与も見劣りしなかったが、90年代に入り自由化政策の下で経済発展が急速に進むとIT企業などを中心にして民間給与水準が大幅に引き上げられていく。特に、2000年以降はこの傾向が著しく、高給による優秀な人材の引き抜きが活発化してきた。しかるに、財政緊縮下で給与改善が遅れていたことから、当時、高等文官の給与水準は低く抑えられたままで、局長レベルで月額2万ルピー(約4万円)前後、次官クラスで3万ルピー(約6万円)でしかなかった。高等文官には、公務員宿舎提供、専用車の提供など給与以外の特典が与えられてはいるが、20年の職歴を経て漸く局長職に就いて、IT企業の初任給と同じレベルと言うのでは志気にも影響してくる。現に、優秀な人材が官から民に流れ、以前ほど優れた人材がIASに集まらなくなるとの傾向が出てきていた。今回の措置は、かかる傾向への危機感の表れであり、また、高等文官制度を護るとの政府の強い意志の表明であろう。
 確かに、必要ならば一挙に3倍もの給与引き上げ措置を採るとのインド政府決定は、特筆に値する。しかし、考えようによっては、わが国の人事院勧告と同様の制度があれば、毎年調整すべきであった給与水準見直しを、過去手が付けられなかったために一挙に調整を図っただけとも言いうる。むしろ、私が率直に羨ましいと思うのは、高等文官に対する手厚い年金制度である。現役時代には年金制度には関心を寄せる時間的余裕もなかったが、いざ、退官してみると、現役最終給与の5分の1程度という年金額の低さに唖然とし、せめて現役時代給与の半額は欲しいと思うのは私だけではなかろう。
 インド高等文官が退官後、60歳から受領する年金額は「現役最終ポスト給与額の50%」となっている。ご注意頂きたいのは、現役最終給与ではなく「現役最終ポスト給与」となっていることである。この心は、退官後、最終ポスト給与が引き上げられれば、年金もそれにスライドして引き上げられる、との点にある。今回のように現役の給与が3倍に引き上げられれば、年金も自動的に3倍に引き上げられる。引き下げも同様ではあるが、高度成長期のインドで給与引き下げは考えられない。日本からみれば、50%という水準は羨ましい限りであるが、国際的にみれば、何ら驚くには値しない。ブラジルの高等文官は、最終給与の100%の年金が保証されているし、フランスのENA出身官僚も75%前後が保障されていると聞いたことがある。
 現役時代給与の50%が保障されれば、多くの場合、退官後、無理して職を求める必要もなかろう。実際、インドでは天下りという慣行はない。もとより、需要・供給の関係で、人材を求める要請に応じ民間に新たな活躍の場を求めるケースも多いが、これはあくまでも個別的現象であり、官側が組織的にOBを民間に押し込むものではない。それでは、多くの退官者はどうして時間を過ごしているのであろうか。インドの平均寿命が63歳と低いのは、農村での高い幼児死亡率を算入するからであって、都市の富裕層の寿命は長い。菜食主義者で、毎日ヨガで体調を整えていれば、長生きをしようと言うものである。首都デリーには、60歳での退官後も、気力、知力、体力が十分な元局長、元次官がうじゃうじゃしている。多くは、シンクタンク入りしたり、仲間内で勉強会を組織しては、大学教授、ジャーナリスト等とともに巨大な知的コミュニティーを形成している。特に、外務省出身者や軍将官退役者に多い。かくして、ニューデリーは世界でも有数の知的交流の場となっており、特に、外交、安保関係のセミナー、シンポジウムとなると論客が次から次へと繰り出してくる。こうした知的コミュニティーは、政府に対する提言とりまとめ等を通じ天下のご意見番をもって任じるとともに、重要な人材プールを形成し、政権交代があるたびに、首相顧問や計画委員会委員など新政権のブレーンとして人材を提供している。

終わりに
 独立直後から1970年代、80年代と基本的にインドは統制経済体制下に置かれ、企業の設立、事業範囲の拡大、必要物資の輸入、原料の確保、輸出、等々経済活動の殆ど全てに政府の許認可を必要としていた。当然、許認可を司る官僚が絶大なる権限を行使し、こうした体制はLicense Raj(許認可統治)と称されていた。1991年から導入した経済自由化が進展するとともに、許認可行政の範囲は次から次へと縮小されてきた。わが国官僚制度と同じ道を、20年ほどのタイムラグで辿りつつあるとも考えられる。
 しかし、変革期を辿りつつも、この国では優秀な官僚制度の維持が国家統治に不可欠との基本思想が広く共有されていると考えられる。イラク戦争後の米国による占領政策の失敗は、軍とバース党という2つの統治機構を完全に除去したため国家統治の骨格が崩壊してしまったことにある、というのが定説である。インドの場合には、IASに代表される官僚制度と文民統制の徹底した軍の存在、この2つが国家の背骨を形成している。民主主義体制下、総選挙によって政権という頭の部分が入れ替わっても、背骨が支えているから国家の形が維持され、脊髄を通る神経系統が正常に機能する。
 戦後60年を経て、わが国の国のかたちにつき大いに論じ、疲労を起こしている諸制度に改革を加えることは確かに必要である。しかし、国家が国家として存続していく以上、どうしても護るべき枠組みと背骨という中枢器官への人材確保は不可欠である。政治判断を司るべき頭脳部分が十分機能を果たさず、加えて背骨部分に骨粗鬆症状況が進行し、脊髄損傷が生じているのであれば、植物人間化が不可避となる。わが国も、優秀な官僚制度の維持は国家統治に不可欠である、との原点に立ち戻って新たな制度設計に取り組む必要があるのではないか。