「密約」問題(三)

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元駐米大使  栗山 尚一

 今回は、残りの三事案のうち、朝鮮半島有事と事前協議及び沖縄への核兵器の再持ち込みについて考察し、三つ目の沖縄返還時の原状回復費の肩代わり問題は、次回に譲る。

 朝鮮半島有事と事前協議に関する「密約」

 安保条約と一体をなす岸・ハーター交換公文(正式には、条約第六条の実施に関する交換公文)に基づき、戦闘作戦行動発進のための基地の使用(日本防衛に対処する場合を除く)は事前協議の対象と定められている。(同様に事前協議の対象とされている、核兵器の持ち込みに関しては、日米間に重大な解釈の相違が生じたことは、拙稿(一)及び(二)で詳しく論じた通りである。)
 ところが、この事前協議制度に関する交渉の過程で、米側から難問が提起された。朝鮮半島における不安定な情勢を背景に、米側は、将来北朝鮮により停戦協定が破られ、朝鮮半島有事が再発した場合、在韓米軍(国連軍でもある)支援のために、即刻日本の基地から戦闘作戦行動を起こさなくてはならない緊急事態が生じることも予想されるので、そのための手当をしておく必要があると申し入れてきたのである。要するに、このような緊急事態下の戦闘作戦行動の発進は事前協議の対象外とすることを日米間で合意しておきたい、ということである。
 東郷調書 によれば、当初日本側は、米側の要求をそのまま受け入れることはできないとして、事前協議の例外は認めないとの原則を崩さずに、何とか交換公文の表現上の工夫で妥協の余地がないかと折衝に努めた。しかし、この問題を重視した米側は譲らず、最終的に、新条約に基づき設置が予定されている安全保障協議委員会 の議事録(minutes)形式で、米側の要求に沿った不公表文書を作成し、これに藤山外務大臣とマッカーサー駐日大使がイニシャルすることで決着をみたのである。これが「朝鮮議事録」(Korea Minutes)と呼ばれている文書であるが、今回「密約」問題で調査の対象となった四事案のうちで、私見では唯一「密約」に該当するものである。
 米国が、緊急時における事前協議の免除にこだわった背景には、日本政府に対する不信感があったように思われる。まず第一に、日本側が、安保改訂交渉の当初から、事前協議を専ら米軍の行動を制約するための仕組み(いわゆる「歯止め」)と考えていたことは、米側もつとに承知していたから、事前協議に対する日本政府の肯定的回答は容易に得られないと予想していたであろう。また、米側は、日本政府の政策決定には時間がかかることも知っていたから、緊急事態であっても、総理大臣の迅速な返事は期待できそうもない、と考えていたであろう。そうであれば、米側が、朝鮮半島有事となれば、時間的余裕の有無に拘わらず、事前協議を省略したいと考えたとしても不思議ではない。
 沖縄返還交渉が本格化したのは69年6月の愛知外務大臣の訪米からであるが、私も、同年8月から中島条約課長(当時)の下で、11月に予定されている佐藤総理の訪米の際に発出される共同声明の準備作業に参画する形で、返還交渉に携わることになった。日本側が目指したのは、核抜き・本土並みによる返還の基本方針に米側の同意を取り付け、その旨を共同声明に明記することであった。しかし、そのためには、米側の最大の関心事である、返還後の在沖縄米軍基地の極東有事の際の使用態様(自由使用に限りなく近い態様を求める米側に対し、日本側はできる限り制約された使用)について、双方の立場の接点を見出さなくてはならなかった。
 この問題は、基本的には日本側の立場を米側が受け入れる形で交渉がまとまった。具体的には、共同声明の中で総理大臣が、極東(韓国、台湾地域)の安全なくして日本の安全は維持できないとの認識を述べ、「日本政府のかかる認識に照らせば、(本土並み)による沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げになるようなものではないとの見解を表明」し、大統領がこれに同意する旨が述べられた。さらに、先に「朝鮮議事録」に関連して述べた、事前協議に対する米側の不信感を取り除くために、ナショナル・プレス・クラブでの総理演説に、韓国に対する武力攻撃に対処する必要が生じた場合には、事前協議があれば、「前向きに、かつ速やかに態度を決定する」との一方的声明を盛り込んだのである。すなわち、朝鮮半島有事であっても、事前協議でイエスと言うことを予め法的に約束することはできないが、限りなくそれに近い政治的なコミットメントは与えましょう、というのが日本政府がとった立場であり、米国政府も、この政治的コミットメントを信頼して、本土並み返還に同意したのである。
 私は、条約課で安保条約を担当するようになって、朝鮮議事録の存在と経緯を知った。そして、この文書は、単に政治的に問題がある(有事に際し、米国は、時間的余裕があっても事前協議なしで行動する可能性がある)ばかりでなく、法的にも疑義がある(国会の承認を得た交換公文の行政府限りでの部分的修正)と考えるようになった。そこで、共同声明が合意されれば、同議事録は実質的意味を失うので廃棄すべきことを上司に意見具申し、その方向で米側と交渉するよう北米局に申し入れたのである。しかし、その後総理訪米が間近に迫った頃に、北米局から、米側が同議事録の存続にこだわっているので、これ以上わが方が廃棄に固執しないことを了承して欲しいとの要請があり、条約局としては不本意ではあったが、廃棄を諦めざるを得なかった 。
 それでは、朝鮮議事録は、今日ではどのような意味を持っているのであろうか。そもそも、同議事録の正当性は、1950年に朝鮮戦争が勃発したときに、国連統一司令部を設置し、その下で韓国防衛のために参戦した米軍等の加盟国の軍隊に「国連軍」の名称の使用を認めた安保理決議に依拠しているのである。しかし、例えば94年に、北朝鮮の核開発を巡って朝鮮半島の軍事的緊急が一気に高まった時のことを考えてみよう。もし当時北朝鮮が暴発し、米国が韓国防衛のために武力を行使しなくてはならない事態になったとすれば、その武力行使の正当性を40年以上も昔の安保理決議に求めることは(現在も国連統一司令部は存続していると言っても)、いかにも説得力に欠けると見られよう。その場合、米国は、新たな安保理決議がなくとも、米韓条約に基づく自衛権の行使で武力行使の正当性を説明できると判断するであろう。そうなれば、朝鮮議事録の有用性は失われ、米国は、事前協議で戦闘作戦行動のための基地使用につき、日本政府の許諾を求めることになる。これが、同議事録の今日的意味についての私の結論であるが、この結論が妥当とされるためには、69年の日米共同声明と佐藤総理の演説に基づく日本政府の政治的コミットメントが維持されなくてはならない 。

 核再持ち込みに関する「密約」

 「核抜き」は、言うまでもなく、「本土並み」と並んで、佐藤政権が実現した沖縄返還の二本柱の一つであった。私は、朝鮮議事録問題の考察で述べたとおり、当時条約課の事務官として69年の日米共同声明の起草作業に加わったのであるが、核抜きに関する合意を盛り込んだ同声明の第八項は、私が起案したものであり、後に東郷大使から「わが方条約局苦心の作」(東郷文彦「日米外交三十年」)とのお誉めの言葉を頂いた。
 この事案の最大の問題は、「核抜き」(沖縄からの核兵器の撤去)自体よりも、返還後に生じうる有事に際し再持ち込みができる余地を確保したい、との米側(特に軍部)の固い立場にいかに対応するかということであった。実際に米側は、69年5月のNSC(国家安全保障会議)の決定により、交渉の最終段階で日本の撤去要求に応じることを内々決めていたのである。(但し、そこには、緊急時の核兵器の貯蔵と通過権の確保という条件が付いていた。)日本側は、当時そのことを知る術もなかったのであるが、後に、振り返ってみると、ニクソン政権は、すでに中国政策の転換を考え、戦略的価値が乏しくなっていた中距離ミサイルの沖縄からの撤去を、中国向けのシグナルと日本への譲歩という、一石二鳥に使おうと考えたのではないかと思われる。
 最終的に合意された共同声明第八項の全文は次のとおりである。
 総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。(傍線筆者)
若干の注釈を加えると、まず国民感情を背景とする「日本政府の政策」とは、佐藤総理が68年1月の国会での施政方針演説で表明した非核三原則を意味するのであるが、同原則の「持ち込ませず」の内容(平時・有事の別、寄港問題)には触れていないことが重要である(本稿(一)で述べた「暗黙の合意」参照)。核兵器の撤去が明記されていないのは、NCND政策に基づき、米国は、沖縄への核配備を確認できないとしたためである。「条約局の苦心の作」は傍線部分である。
 「本土並み」とは、返還後の沖縄には、本土と同様に事前協議制度が適用になるということであるから、沖縄への核兵器の再持ち込みについては、米国は、事前協議により日本政府の許諾を求めなくてはならない。しかし、このことは、米国は、安保体制上緊要性があると判断すれば、再持ち込みのための事前協議を提起できるということでもある。これが「事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく」の意味である。したがって、この文案は、当然のことを書いたと言えるが、見方を変えれば、これは、非核三原則は「核持ち込み」の絶対的禁止(答えは100%ノーであるから、事前協議をする意味がない)ではないことを間接的に示すことにより、米国の立場に大きく歩み寄ったものなのである。
 この案は、9月の愛知外務大臣訪米の際に米側に提示されたのであるが、先方は、核は大統領の専権事項であるとして、最後まで同案に対する態度を明らかにしなかった。そのために、本省で留守番役を務めていた私は、11月19日の第一回首脳会談後、総理に同行していた中島条約課長から、第八項がわが方案通りで合意されたことを知らされ、正直ホッとしたことを覚えている。
 ところが、その後佐藤総理が京都産業大学教授(当時)の若泉敬氏をいわゆる密使としてワシントンに派遣し、外交チャンネルの交渉と併行して、核問題についてキッシンジャー特別補佐官と交渉させたという事実が浮かび上がり、そのことを根拠に「密約」説が生まれた。当時外務省は、若泉氏のこうした動きについて一切知らされることはなかったが、最近まで私は、この若泉・キッシンジャーの裏チャンネルの交渉を通じ、何らかの実質的意味がある合意が得られた、というようなことはあり得ないと思っていた。なぜならば、一方の当事者のキッシンジャー氏が79年に出版した回想録(White House Years)の中で、若泉氏(ヨシダというコードネームを用いていたとされている)とのやり取りを詳述しているのであるが、そこで合意され、「ヨシダ」が佐藤総理の了承を得たとされている案は、まさしく共同声明八項そのものだからである。
 若泉氏が、生前の94年に著した「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」において、キッシンジャー氏との間で極秘の合意議事録案を作成し、11月19日の首脳会談に際し、別室で両首脳がこれに署名したとの経緯が書かれているのを読んでも、私は、依然としてその信憑性に強い疑問を抱いていた。したがって、昨年末、佐藤家により当該議事録が保管されていたことが明らかになったときには、大きな衝撃を受けた。
 この合意議事録は、「極めて重大な緊急事態」に際しての沖縄への核兵器の再持ち込みと通過(トランジット)に関する事前協議に対する日本政府の「好意的回答を期待する」との大統領の発言に対し、総理大臣が「事前協議が行われた場合には遅滞なくそれらの要件 を満たすであろう」と答えたとしている。これは、事前協議の結果を予断していると言う意味で、そのような合意はしないとの政府の方針とは基本的に異なり、法的にも問題がある(朝鮮議事録についての拙論参照)ことは明らかである。佐藤総理がどのような認識の下で秘密合意議事録に署名したかは謎である。しかし、同総理が当該議事録を私蔵し、外務大臣はもちろんのこと、後継総理にも引き継がなかったことを見ると、少なくとも同総理自身も、この文書の正当性に納得していなかったのではないかと思われる。
 秘密合意議事録が沖縄の「核抜き」返還にどれほど役立ったかは、米側の関連記録がないので、知ることができない 。しかし、キッシンジャー氏が自らの回想録で述べているように、「核兵器の持ち込みというような重要な決定は、昔のコミュニケの文言ではなく、そのときの状況いかんによる 」と考えていたのであれば、秘密合意議事録がなくとも、共同声明第八項で米側内部(特に軍部)を説得するには十分だったのではなかろうか。
 沖縄返還の実現に政治生命を賭けていた佐藤総理が密使を使ったこと自体は、必ずしも批判されるべきことではないが、その裏には、外交当局に対する強い不信があったことは、遺憾ながら疑いようがない 。その結果、表裏二つのチャンネルを通じた交渉相互間の整合性が失われ、戦後外交の重要な節目であった沖縄返還交渉に、二元外交という深刻なゆがみを残した。有識者委員会の報告書がこの点を指摘しなかったことは残念である。  (続く)

 i東郷安保課長(当時)の調書(六月号掲載の本稿(一)参照)。
ii 日本側外務大臣と防衛庁長官、米側駐日大使と太平洋軍司令官により構成。現在は、米側も国務、国防両長官に格上げされ、日米対等な構成、2+2と呼ばれる。
iii 朝鮮議事録廃棄問題をめぐる日米交渉については、有識者委員会報告書(54~55頁)に詳述されているので、参照されたい。
iv 新聞報道によれば、岡田外務大臣は、6月15日の記者会見において、朝鮮半島有事に際して事前協議があった場合には、「適切かつ迅速に対応する」と米政府に伝えた由である。佐藤総理のコミットメントを事実上再確認したものであろう。(2010年6月16日読売新聞朝刊)
v 「それらの要件」とは、秘密合意議事録後段記載の核兵器貯蔵施設の維持をも指していると思われるが、これは専ら米側内部の基地管理の問題であり、日米合意には馴染まないように思われる。なお、同議事録全文は、有識者委員会報告書(73~75頁)に収録されている
vi 米側が同議事録をどのように保管してきたかは、同議事録が米国政府により公開されていないので分からない。また、同政府が、この文書の法的、政治的性格をどのように認識してきたかも不明である。(但し、6月16日の新聞報道(読売新聞朝刊)によれば、岡田外務大臣が前日の記者会見で、同議事録は「今は有効ではない」と米側と確認したとのことであるが、委細は不明である。)
vii Henry Kissinger, “White House Years” 334頁
viii 当時佐藤総理が外務省事務当局を信頼していなかったことは、同総理の政務秘書官を務めた楠田実氏が日記に書き残した次の事例からも明らかである(「楠田実日記」162~163頁参照)。すなわち、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港問題(1968年1月)への対応に当たり、同空母は核兵器を搭載していないとの軍事評論家久住忠男氏の情報を信用し、同情報の信憑性について外務省、防衛庁に確認しようともしなかった。また、同時期の非核三原則の表明に際しては、専ら若泉氏の助言に頼り、外務省の意見を徴することはなかった。いずれの場合も、もし同総理が外務省の意見を求めていたならば、NCND政策と矛盾する久住氏の情報は信頼できず、非核三原則の「持ち込ませず」は、その定義いかんでは、事前協議制度と両立しないことを理解したはずである。(なお、本稿(一)、(二)で取り上げた「東郷メモ」の欄外の記録によれば、佐藤総理が同メモを閲読したのは68年2月5日であるから、非核三原則の国会での表明前に外務省が協議に与っていれば、当然同メモのジョンソン・牛場・東郷会談の争点を知り得たであろう。)

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