「密約」問題(一)

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元駐米大使  栗山 尚一

はじめに

 去る3月9日、いわゆる「密約」問題に関する外務省の調査チームの報告書及びその内容を検証した有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)の報告書が公表された。両報告書の対象とされたのは、具体的に次の四事案である。
1.安保条約改訂時(1960年)の、核持ち込みに関する「密約」
2.安保条約改訂時(1960年)の、朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」
3.沖縄返還時(1972年)の、有事の際の核持ち込みに関する「密約」
4.沖縄返還時(1972年)の、原状回復補償費の肩代わりに関する「密約」
これら四つの事案は、いずれも従来から米国政府の公開文書や元政府高官の発言等を根拠に「密約」(日本政府の公式の説明と異なる日米間の不公表の合意あるいは了解)の存在が論じられてきたものである。
 私は、60年の安保改訂時には、当時の経済協力部(後に局に昇格)に勤務していたので、改訂交渉には傍観者であった。しかし、後に条約局(現在の国際法局)で安保条約関係の仕事を担当するようになってからは、様々な形でこの四事案に関与するようになり、その間、色々と考えたり悩んだりした。フラストレーションが溜まり、余り良い思い出が残らない経験であった。


 今回の外務省と有識者委員会の調査、検証の結果、多くの文書が公開され、かなりの程度まで「密約」問題の実体が明らかになった。事実関係の多くは、私がすでに承知していたものであるが、中には、佐藤栄作総理の遺族が保管されていた、同総理とニクソン大統領が署名した極秘文書(返還後の沖縄への核兵器の再持ち込みを許容する趣旨)のように、私が全くその存在を知らなかったものもある。各事案についての有識者委員会の評価は、概ね私も同意できる内容であるが、部分的には、私の理解と異なるところもある。


 私は、有識者委員会の要請に応え、約三時間に亘って四事案について私が知り、理解していることを説明した。本稿は、その内容を中心に「密約」問題に関する私自身の評価と若干の所感をとりまとめたものである。読者のご参考になれば幸いである。

核持ち込みに関する「密約」


 私は、1968年から条約局で安保条約担当官となった機会に、60年安保改訂の歴史を勉強し、69年からは、沖縄返還交渉に参画したが、その間に、核兵器の持ち込みに関する政府の国内説明(国会答弁)に強い疑問を抱くようになった。すなわち、政府の公式の立場は、「核兵器を搭載した米軍艦の寄港、領海通過は核兵器の持ち込みに該当するので、安保条約に基づく事前協議の対象となり、事前協議があれば、非核三原則に基づきノーと言う」というものであった。(因みに、この立場は今日も変わっていない。)
 それでは、米国は、この日本政府の立場を受け入れていたのであろうか。米国の核戦略は、1950年代後半に、核弾頭の小型化と、それに伴う戦術核の張ったにより大きく変化した。すなわち、米国は、陸海空三軍に多種多様の戦術核を配備すると共に、そのような核兵器の具体的所在(特定の艦船、航空機の核搭載の有無を含む)については、「肯定も否定もしない」(neither confirm nor deny)、英語の頭文字をとったNCND政策が確立される。(こうした米国の核政策の歴史については、有識者委員会の報告書においても触れられている。)NCND政策の目的の一つは抑止力の維持であるが、今ひとつは、海軍の機動力の確保である。核装備艦が特定されると、その寄港、通過を拒否する国が続出し、艦隊の運用が著しく制約されることになりかねない。したがって、NCND政策は、平時、有事を問わず、グローバルに維持される必要があるのである。このことから一見して明らかなように、米国が事前協議制度に同意するためには、その前提として、核搭載艦の寄港、通過を同協議の対象外としなくてはならない。(同じことは、核搭載機の一時的飛来にも当てはまる。)米国が、安保改訂に際し、核兵器の持ち込みを、NCND政策の例外として、事前協議の対象とすることに同意したのはそのような協議を必要とする事態が稀にしか生じない、と想定していたと考えるのが自然である。そして、そうした事態とは、陸上への核兵器の配備を意味すると思われる。
 寄港、通過を事前協議の対象とするとの日本政府の立場には、基本的な矛盾があった。すなわち、一方では安保改訂の最も重要な目的として、米国の明確な対日防衛コミットメントを求めながら、他方で米国の日本防衛能力の中核である海軍(第七艦隊)の行動に重大な制約を課そうというのである。これでは、米国の核を含む軍事的傘の下に入ることを選択したにも拘わらず、その傘に大きな穴をあけようとするに等しい。この矛盾は、佐藤栄作総理が、68年冒頭に国会での施政方針演説で非核三原則を宣言したことにより、一層深まった。(非核三原則は、事前に外務省が協議に与ることなく、一方的な官邸主導で総理演説に盛り込まれたものである。)
 私は、このような安保体制の基本に係わる問題についての日米の立場の食い違いがどうして生じたのかを知りたいと考えた。そこで六年に及んだ条約局在職中(68~74年)、安保改訂交渉当時の書類を調べたり、交渉に携わった経験がある先輩、上司の記憶を確認したりした。その結果、二つの重要な事実が判明した。
 一つは、58年から60年にかけての安保改訂交渉の過程で、核搭載艦の寄港通過を事前協議の対象とすべきか否かについて、日米間で話し合われたことを示す記録が日本側(外務省)に存在しないのみならず、この問題に関する政府の対米交渉方針が書かれた文書も見当たらないことである。(交渉開始前の段階で、外務省が「臨時に国内に入る」船舶、航空機も事前同意の対象とする案を準備していた記録があるが、同案は結局交渉では使用されなかった。)
 今一つは、新安保条約発効後の60年代における、この問題に対する米側の対応である。今回の「密約」問題に関する外務省の調査チームの報告書と共に公表された文書の中で、東郷北米局長(当時)が書き残した、昭和43年(1968年)1月27日付けの極秘メモがある。その内容は、前日に、返還前の小笠原視察途上の機中で交わされたジョンソン駐日大使と牛場外務次官、東郷局長との間の会話を記録したものであるが、その中で、ジョンソン大使は、核搭載艦の寄港が核の「持ち込み」に該当しないというのが米国政府の了解であり、この点については、五年前の63年に当時のライシャワー駐日大使から大平外務大臣に指摘した経緯がある旨述べている。(この大平・ライシャワー会談は、米大使公邸での朝食形式で行われ、同席者がなく、日本側に記録が残っていない。)その際に、ジョンソン大使が米側解釈の根拠として言及したのが、藤山外務大臣とマッカーサー大使がイニシアルした60年1月6日付けの「討議の記録」(Record of Discussion)と呼ばれる文書である。
 この文書は、以前から米側では公開されており、日本の研究者や報道関係者等の間では、核持ち込みの密約の根拠とされてきた。同文書は、事前協議制度を定めた交換公文の解釈について、四項目の了解事項を記録したものである。四項目(2項のA~D)のうち、核兵器の持ち込みに直接関連があるのはA項であり、同項は、交換公文にいう「装備における重要な変更」とは、「中距離ミサイル及び同兵器のための基地の建設を含む、日本国への核兵器の持ち込み(イントロダクション)を意味する」 と規定している。これは、政府がいわゆる「藤山・マッカーサー口頭了解」の一項目として明らかにしており、口頭が実は文書化されていたということを別にすれば、新しい内容のものではない。問題とされていたのは、C項である。同項には、配置における重要な変更の場合を除き、米軍機の飛来、軍艦の領海、港への進入に際し適用される現行の手続きは、事前協議の影響を受けると解してはならない旨の規定があり、これが、米側(ジョンソン大使等)により、核搭載艦、航空機の一時的立ち寄り(transit)は事前協議の対象にならないとの日米間の了解の根拠とされ、また、日本の研究者等によっても、密約の存在を示す文書であると論じられた。
 しかし、この「討議の記録」の規定をもって日米間の了解とみなすことには、幾つかの疑問点がある。まず第一は、規定の表現が曖昧で、意味がはっきりしないことである。この点は、有識者委員会も指摘しており、私も最初に条約局で「討議の記録」を読んだときには、C項は、事前協議の対象となる「配備における重要な変更」(師団規模以上の米軍の日本への新たな配備)に該当しない規模の米軍の配備、通過に伴う入港手続き等を定めたものかと想像しながら、なぜこうした規定が必要なのか、と不思議に思ったものである。疑問点の第二は、安保改訂交渉の過程で、米側がC項の意味を日本側に説明した形跡(交渉記録)が存在しないことである。そして第三の疑問点は、日本側交渉担当者の間で、C項が核搭載艦の寄港と関連がある規定と認識した者がいなかったということである。外務省事務当局の中で改訂交渉において中心的役割を担った東郷安全保障課長(当時)が作成した、60年6月付けの交渉経緯をまとめた極秘調書(今回公開)が存在し、その中で同課長は、「討議の記録」の交渉内容を記録しているが、この問題については、「米軍の日本出入の手続きには変更なきこと」で合意したと簡単に触れているのみなのである。
  東郷課長は、八年後の68年に北米局長としてジョンソン大使とのやりとりを記録したメモを残す(  頁参照)。その中で同局長は、安保改訂交渉を通じ、「我方は総ての『持ち込み』(introduction)は事前協議の対象であるとの立場をとり、艦船航空機の『一時的立ち寄り』について特に議論した記録も記憶もない」とし、さらに、ジョンソン大使が指摘した「討議の記録」の問題の規定については、「日本側交渉当事者は、(中略)『一時的立ち寄り』に関するものとは思っていなかったのが実情である」と述べ、最後に、今後の対応についての同局長自身の意見を次のように記している。
「本件は日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至ったものである。差当たり、日本周辺における外的情勢、或は国内における核問題の認識に大きな変動ある如き条件が生ずる迄、現在の立場を続けるの他なしと思われる」
この東郷メモは、当時の三木外務大臣と佐藤総理にも回覧された旨欄外に記録されており、両者の了承を得たものであろう。
 この牛場・ジョンソン会談は、核持ち込みに関する「密約」問題では、重要な節目になった出来事である。すなわち、同会談以後米側は、「現在の立場を続けるの他なし」との東郷局長の結論を事実上受け入れざるを得ないことを認め、その結果として、日米間に次のような「暗黙の合意」が成立したのである。
日本側は、(1)核搭載艦の寄港、通過は事前協議の対象であるとの従来の国内説明を維持する(航空機も同様)が、(2)このことについて、米国政府の確認は求めない。
米側は、(1)事前協議の義務は遵守する、(2)NCND政策は維持する。
 有識者委員会の報告書は、この「暗黙の合意」をもって「広義の密約 」であるとし、そのような「広義の密約」は、「安保改訂時に姿をあらわし、その後1960年代に固まった」と述べている。しかし、私は、そもそも、安保改訂交渉時を含め、68年に米側が日本政府の国内説明の修正を求めることを諦めるまでは、日米間には、いかなる意味での合意も了解も存在しなかったと考えている。      「密約」問題(二)へ続く

i 「広義の密約」とは、余り聞き馴れない概念であるが、有識者委員会は、これを「明確な文書による合意でなく、暗黙のうちに存在する合意や了解であるが、やはり、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つもの」と定義している。いずれにせよ、これは当事者を拘束する国際約束ではない。