「密約」問題(二)

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元駐米大使  栗山 尚一

私は、1974年の春に条約局での勤務を終えて、在米大使館に赴任したのであるが、この事前協議に関する「暗黙の合意」がいつまで持つか、薄氷を踏む思いであった。
 ワシントンに着任して間もなく、私は、信頼できる旧知の米国政府職員某に、絶対にソースを明かさないとの約束の下に、「安保改訂交渉の過程で、核搭載艦、航空機の寄港、飛来を事前協議の対象とすべきかという問題について、日米間で話し合われた記録が存在するか調べてくれないか」と頼んだ。しばらくしてから彼がくれた返事は、該当する交渉記録は見当たらなかった、というものであった。このことから、私は二つの結論を得た。一つは、安保改訂に際し、この問題に関する「密約」(不公表の政府間合意)は存在しないという事実であり、今一つは、その結果生じた日米間の解釈の相違については、米側にも一半の責任があるということである。
 しかし、当然のことながら、密約の不存在だけでは、真相が解明され、問題解決の緒が見つかったことにはならない。
 そもそも、岸総理は、新安保条約の下で事前協議制度を導入することにより、「核兵器の持ち込み」問題をいかに処理しようと考えていたのであろうか。私は、「平時はノー、有事は別」というのが同総理の基本的考えであったと思っている。すなわち、平時の持ち込みは認めないが、日本の安全に重大な脅威が生じた状況の下では、別の判断があり得るということである。同総理の考えを示す確証がある訳ではない。しかし、これは、国の安全を与る最高責任者としては当然もたなくてはならない常識であり、すぐれて現実主義の政治家であった同総理が、「持ち込みは常にノー」という絶対反核(核の抑止力否定)の考えを持っていたとは考えられない。また、「平時、有事を問わず常にノー」というのでは、事前協議は制度として成り立たないことは、同総理も理解していたと思われる。
 それでは、「平時はノー」という場合に、岸総理は、核搭載艦の一時寄港もその対象に含まれるべきと考えていたのであろうか。常識的に考えれば、同総理が、外務省あるいは防衛庁の事務当局からの説明を受けずに、当時の米国の核戦略(戦術核の配備態勢とNCND政策)についての必要な知識を有していたとは思えない。他方、説明を受けていれば、平時においても横須賀や佐世保に随時出入りする米海軍の艦船に「平時はノー」の原則を適用することには無理があると理解したであろう。現実に同総理が、一時寄港も事前協議の対象とする方針で米側と交渉すべしと外務省に指示した証拠はない。逆に同総理は、後年(81年)朝日新聞とのインタビューで、「日米安保条約の改訂交渉の時には、核装備の艦船や飛行機による寄港、通過の問題は(日米間の)話になっていない。核を持ち込んで基地を作る(場合には、事前協議が必要になる)というような、大所高所からの議論だった」と述べているのである(有識者委員会報告書35頁、脚注44)。
 交渉の争点となることが予想されるような重要な問題に関する必要な情報を総理、外務大臣に提供し、交渉方針についての指示を求めることは、事務当局の当然の責任である。ところが、不思議なことに、この一時寄港の問題については、これを事前協議の対象にしようとすれば米国のNCND政策と真っ向から対立することが明らかであるにも拘わらず、外務省がそのような問題意識を持って政治レベルの判断を求めた形跡がない。前稿で取り上げた交渉経緯に関する東郷調書は、この問題に触れておらず、68年の東郷局長のメモも、「総ての持ち込みは事前協議の対象であるとの立場」をとったとしながらも、「総ての持ち込み」が何を意味するかは不明であり、一時寄港については、「特に議論した記録も記憶もない」と述べているのみなのである。
 ここから先は、推量するよりない。可能性としては、三つのことが考えられる。一つは、外務省スタッフの軍事知識の欠如である。しかし、50年代後半から始まった戦術核兵器の軍艦、航空機への配備と、これと密接な関係にあるNCND政策は、とくに専門知識を必要としない公知の事実であったから、外務省の交渉担当チームがこうした米国の核戦略に気づかなかったとは考えにくい。
 第二の可能性は、日本側(政治レベルを含む)が、日米の立場の相違を認識しつつも、交渉がまとまらなくなることを恐れて、敢えて曖昧な形で問題を詰めなかったというものである。これは、有識者委員会の結論でもある。しかし、この推論には、二つの点で無理なところがある。まず第一に、核の持ち込みというような、重要かつ機微な交渉上の争点について、意図的に問題を未解決なままに放置しておくことには高度の政治的リスクを伴う。したがって、政府部内において、政治レベル(総理、外務大臣)と事務レベルの間で、万一の場合の危機管理や後の政権への引き継ぎを含め、きちんと意思統一を図っておかなくてはならない。第二に、このような問題の処理は、当然日本側だけでは完結しないから、交渉相手の米側にも問題意識を共有してもらい、その協力を得る必要がある。ところが、日米間はもちろん、政府部内においても、そのための話し合いが行われたことを示す記録が見当たらないのである。
 そこで、第三の可能性として、次のようなシナリオが浮かび上がる。すなわち、日本側の事務レベル(外務省)は、「総ての持ち込み」(東郷メモ)に核搭載艦、航空機の立ち寄りを含めることに米側が同意する余地がないことを当初から認識していたから、敢えて交渉においてこの問題を提起せず、また、そのような対処方針について、政治レベルの了承を取り付ける必要もないと考えた、というものである。私は、これがこの「密約」問題の真相なのではないかと推察する。このように考えると、前稿で触れたように、外務省が準備していた、一時立ち寄りの船舶、航空機も事前同意の対象とする案をなぜ米側に提示しなかったのかとの疑問が解けるし、また、この問題が日米交渉の具体的争点にならなかった理由も分かる。
 しかし、この仮設が正しいとすれば、なぜ政府は、安保国会以後一貫して、核搭載艦の寄港も事前協議の対象になる(事前協議がない以上、核の持ち込みはない)との国会答弁を続けたのであろうか。この疑問に対する私の答えは、国民の強い反核感情を背にした野党の厳しい攻勢に譲らざるを得ないと考えた政府・与党と、これを支えざるを得なかった外務省事務当局の合作ということである。そして、実体と異なる虚構の国内説明を続けていくうちに、軌道修正が政治的に不可能になったのである。その典型的な例は、核搭載艦の領海通過の問題である。当初政府は、国際法の無害通航権を理由に、領海通過は事前協議の対象外としていたが、野党の追及に遭い、68年(佐藤政権)の政府統一見解により、通過も事前協議の対象とされるようになった。
 それにしても不可解なのは、この間の米側の対応である。NCND政策は、米国(特に米海軍)にとって、たとえ同盟国の要求であっても譲ることができない、グローバルな核戦略の重要な柱である 。それにも拘わらず米側は、安保改訂交渉において、NCND政策と事前協議制度とをいかに両立させるかについて、日本側と詰めることをしなかった。そして条約成立後も、日本政府の国内説明を知りつつ、前稿で述べたとおり、63年の大平・ライシャワー会談まで、それを問題視することがなく、その後も、68年の牛場(東郷)・ジョンソンの機中会談までの五年間、日米の解釈の違いを事実上黙認していたのである。私にとっては、これは未だに解けない謎である。
 「暗黙の合意」にとっての最初の危機は、私がワシントンに赴任してから半年後の74年9月に発生した。米海軍のラロック退役少将(当時国際情報センター所長)が、議会の公聴会において、核搭載艦が外国の港に入る際に、予め核兵器を降ろすことはないと証言したことが日本で大きく報道されたのである。事態を重視した外務省は、木村外務大臣の了解を得て、松永条約局長(当時)が中心となり、核搭載艦の一時寄港と領海通過を事前協議の対象外とする方向で従来の国内説明を実質的に修正することを考えた。11月のフォード大統領訪日の際の日米首脳会談の機会に、田中総理から問題提起を行い、大統領の理解を得た上で、新たな「イントロダクション」の定義について米側と話し合おうというのが、外務省が描いたシナリオであった。しかし、このシナリオは、田中内閣がロッキード事件が原因で12月に退陣に追い込まれ、陽の目を見ることはなかった。(この間の経緯は、有識者委員会の報告書の中で明らかにされている。)私は、当時ワシントンで、この問題に関する安川大使と米側(ハビブ国務次官補)との非公式な話し合いのために、同大使のお手伝いをしたことを覚えている。
 第二の、そしてより深刻な危機が、81年5月にやってきた。ライシャワー元駐日大使が、毎日新聞の古森記者とのインタビューで、核搭載艦の寄港は事前協議の対象である「イントロダクション」に当たらず、これについては、日米間に口頭了解が存在すると語ったことが大々的に報じられたのである。元駐日大使の発言には、ラロック証言とは比較にならない重さがあった。世論調査では、国民の80%が核兵器の持ち込みはないとの政府の説明を信用していない、との数字が出た。私(当時条約局審議官)は、強い危機感を覚えた。安保体制そのものの信頼性が失われようとしてると思われたからである。事態を放置すべきではないと考えた私は、解決策の試案(一定の条件の下に寄港、通過を事前協議の対象外とするもので、対米交渉、国内説明等についての案を含む)を起草し、条約、北米局長と事務次官に諮った 。しかし、理由はともあれ、長年に亘る国内説明を変えることに伴う大きな政治的リスクに政権が耐えうる状況ではないとの判断で、この試案は凍結ということになった。ライシャワー発言の直前に、日米同盟は軍事を含まないとの鈴木総理(当時)の問題発言に端を発し、伊東外務大臣と高島外務次官が辞任するという事態が生じていた。こうした不安定な政情では、現状維持以外に選択肢なし、との判断はやむを得ないことであった。
 こうして、日米の不透明で脆弱な「暗黙の合意」はさらに10年、冷戦が終わるまで続く。しかし、ブッシュ(父)政権によるポスト冷戦の核戦略の見直しの結果、91年9月に、平時においては、戦略核システム(SLBM潜水艦と戦略爆撃機)以外の艦艇、航空機に核兵器を搭載しないことが決定され、「トランジット」問題は、有事の場合を除き、事実上解消されたのである。それでも、有事に際し、非核三原則と「核の傘」の矛盾をどうするかという課題が残る。「平時はノー、有事は別」というのが岸総理の考えであったとの推量が正しいとすれば、私は、今一度この安保改訂時の原点に戻るべきではないかと思う。因みに、「国家の危急存亡の事態においては、最終的には、政府の責任において(事前協議に際し)諾否の判断をすべきことは当然である」というのが、私が81年の試案で提示したこの問題に対する答えである。
 最後に付記したいことがある。
 内外の情勢が大きく変わるまでは、「現状の立場を続けるの他なし」とした68年の東郷メモは、その後北米局長の手元に保管され、新任の総理、外務大臣に次官がその内容を説明することになっていた。私も、この申し送りに従い、89年8月に、中山外務大臣と海部総理に説明し、現状維持につき了承を得た。その際、説明内容の要点をメモ書きにして東郷メモに添付した(今回東郷メモと共に公表)。その結論として、「双方の立場につき互いに詰めないとの立場を了解。但し『密約』はなし」と書き留めた。最近亡くなられた村田元次官が、昨年複数の報道機関とのインタビューで、この問題に関する秘密の了解を記録した和文の一枚紙を、次官交代時に私に引き継いだと述べ、これが密約の存在を示す有力な証言と報じられたが、真相は、私のメモの通りである。
 安保改訂以来の核持ち込み問題の経緯を振り返ってみると、政府は「国民に真実を知らせなかった」との批判を甘受しなくてはならない。政治レベルは、実体と矛盾した国内説明を正す決断をなし得ず、事務レベルは、対米交渉に際して、政治レベルに適切な助言を行わず、その後は、信憑性がない国会答弁の積み重ねをもたらした責任は免れない(私もその一人である)。しかし、視点を変え、安保改訂の過程で、日米双方がより透明性がある形でこの問題を処理しようとしたら、どうなったであろうか。その場合、事前協議制度の導入を前提とすれば、日本側には米側のNCND政策を尊重する以外の選択肢はあり得なかった。岸総理がそのことを率直に国民に訴えたとしても、当時の世論は、そのような安保条約を受け入れたであろうか。60年の激しい安保反対運動を思い起こすまでもなく、私は疑問を感じざるを得ない。 (続く) 1月中旬頃に掲載予定



 現に米国は、80年代半ばに、核兵器を搭載しないことを明示しない外国艦船の入港を認めないとするニュージーランドのロンギ政権と対立し、遂に86年に、ANZUS条約に基づく米国の防衛義務を一方的に撤回した。