読書のセンチメンタル・ジャーニー

元駐ハンガリー大使 松本和朗

 コロナ・パンデミックの影響で外出を控え、時間的余裕が出てきたので、わが家の書斎に僅かに残っていた本を再読してみることとした。そこで発見したことは、①ほとんど読んでいない本が多かったこと、②一応読むことは読んだが、内容を理解できていない本が少なからずあったこと、③こんな素晴らしい本を再読できて良かったと思う何冊かを確認できたことである。また、今までに読んだ本が気になって読書ノートなどを再チェックし、自分の読書歴も少し振り返ることができた。以下は、書斎に残った本の再読を契機に、これまでの読書で印象に残っていることを書き綴ったものである。

1、ドイツ統一を予測できなかったトラウマ
 外務省に入ってはじめての在外勤務がドイツで、その後もドイツ語圏勤務が10年以上に及んだ。自分の生きている間にドイツが統一することはありえないと考えていたが、歴史は動き、1989年にベルリンの壁が崩壊、1990年にはドイツ統一が実現した。ベルリンの壁が崩壊したときは、ミャンマー大使館に勤務し、一気に進んでいったドイツ統一への動きをただ見守るだけであった。ドイツ統一時は、フランクフルト総領事館に勤務していた。
 ドイツ統一交渉の真相を知りたかったので、当時出版されていた本をできるだけ読み、その中では、多くの専門家が予測できなかったからこそ、歴史が動いたというヴィクター・セベスチェン「東欧革命、ソ連帝国の崩壊」(白水社 2009年)が一番参考になった。著者は「ソ連帝国の崩壊は、まったく予想外のことだった。常識的には、ソ連は長い時間を経て緩慢に、苦しみながら衰退していく過程にあり、中東欧の衛星諸国がソ連の軌道を離脱するにはなお多くの歳月、おそらく数十年はかかると見られていた。」と述べている。
 さらに、昨年邦訳の出たウィリアム・ト-ブマン「ゴルバチョフ:その人生と時代」上下巻(白水社2019年、原書は2018年発行)は、トーブマンが10年の歳月をかけてゴルバチェフの「謎」に挑戦した力作である。この本を読んで、ゴルバチョフが周囲の反対を押し切ってドイツ統一を認めたこと、ソ連側の望む経済支援を西側から取り付けられなかったことなどを確認できた。著者は、ゴルバチョフの人間像として、用心深く慎重、かつ、所作穏やかで如才ない、説得に長ける、驍舌であるとしつつ、妻との長い散歩を好み、交響曲やオペラを愛好し、民謡も歌うと記している。体制の中での改革を志向して、ときに改革派、ときに保守派に傾く稀有の政治家であり、戦術家と評価する一方、政敵エリツィンとの関係を瓶の中の二匹のサソリに譬え、エリツィンを早い段階でモスクワの政治の舞台から放逐しなかったことに疑問を呈している。 

2、ドイツ統一の日とフランクフルト書籍市「日本年」の開催
 1990年10月2日、フランクフルトでは夜遅くまで各家庭でも統一を祝って騒いでいた。ドイツでは夜マンション内で大きな物音を立てると、たちまち、隣人から抗議が来るし、警察に訴えられたりする。流石この日だけは例外で、ドイツ人は大いに騒いでこの歴史的瞬間を味わっていた。
 10月3日は統一式典が首都ボンのほか各地で開催され、フランクフルトではパウル教会で統一記念式典が行われた。翌日の10月4日、日本の出版界が総力を挙げて取り組んだフランクフルト書籍市「日本年」が開幕した。大江健三郎とギュンター・グラスとの文学対談では、ギュンター・グラスがドイツ統一を嘆き、「アウシュヴィッツがあるかぎり統一などありえない」と切り出し、大江健三郎は、「日本もきわめて危険だ」、「日本人は自分たちの罪を直視したことがない」と応じた。現在、イアン・ブルマ「戦争の記憶」(TBSブリタニカ 1994年)を再読中であるが、彼もこの文学対談を傍聴していた1人である。

3、ヨーロッパ、ドイツの戦後史
 トニー・ジャット「ヨーロッパ戦後史」上下巻(みすず書房 2008年)を読んで、ヨーロッパの森を見る眼、木を見る眼を学ぶことができた。ジャット教授は、「歴史は変わるものであり、つねに、現代の視点からかかわっていく必要がある」と述べ、さらに、「ヒトラーの死から60年、彼がもたらした諸成果は歴史になりつつある。ヨーロッパの戦後は長く続いたけれども、それが最終的な結末を迎えつつある。・・・ヨーロッパの過去が引きつづきヨーロッパの現在に訓戒の意味と道徳的目的を備えさせると言うのであれば、次々と生まれる世代に新たに教えてやらなければならない。」と論じている。
 高橋通敏「国際政治とヨーロッパ―西ドイツを中心としてー」(弘生書林 1982年)では、著者は、西独のコンラート・アデナウアー政権からヴィリー・ブラント政権に至るまでを扱い、「1972年の両ドイツ間の「基本関係に関する条約」が署名され、二つのドイツ国家の存在が認められ、ここに統一は成らず、両ドイツの境界は国境となって恒久化されるに至った」と述べている。 
 ティモシー・ガートン・アッシュ「ヨーロッパに架ける橋、東西冷戦とドイツ外交」上下巻(みすず書房 2008年)では、著者は、「歴史家がただ一つ自信をもって予測できるのは、この世は驚きに満ちていることだ」と断りつつ、統一ドイツの将来について「ドイツは『ふつうの/ヨーロッパの/国民国家』になった段階で歩みを止めようとするのか、それとも歴史的にかならずしもふつうでない『ステート=ネーション』型の国家をめざすのかという疑問に答えを出す必要がある」と論じている。
 なお、坂井榮八郎「ドイツ史10講」(岩波書店 2003年)は、岩波新書の英独仏3国の10講シリーズの中で一番評判が良かったものであり、ドイツ史の大きな流れを理解できる好著である。
 また、戦後、永世中立国として独立をかちえたオーストリアの経緯については、邦訳はないが、Fritz Molden のDie Österreicher oder Die Macht der Geschichte(Langen-Müller, München 1986、原題を直訳すれば、「オーストリア人あるいは歴史の力」)がある。また、著名なジャーナリスト、コラムニストである韓国通の黒田勝弘は、「韓国はどこへ「その国の形」の変質と行方」(海流社 2016年)の中で、分断された朝鮮半島と、分断されなかったオーストリアの違いを分かりやすく説明している。

4、あの戦争について
 あの戦争についての内外の文献は膨大なリストになる。ここでは手元に残っている日本側外交当局者の本を何冊かとりあげることとしたい。(1) 法眼晋作「外交の真髄を求めて―第二次世界大戦の時代」(原書房1986年)では、著者は、序文で、①ヒトラーが、日本の対米戦争開始ともになぜ自ら対米戦争に突入したか、②東郷外相が、なぜ対米戦争の調停をソ連に依頼したのかの2点は充分に了解出来ていないとしつつ、自分なりの考えを述べている。また、電信専門の官補時代に最もショックを受けた南京事件について、歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるべきであると述べ、日本側の証言(石射猪太郎「外交官の一生」305頁以下、徳川義親自伝「最後の殿様」172頁以下、松本重治回想録245頁以下、1964年9月25日の三笠宮殿下の講話)を引用している。個人的エピソードとして、ロシア大使館勤務時代の1945年5月中旬、佐藤尚武大使に対し、この戦争は負けるに決まっている、ぜひ大使から本省に明確な意見具申をお願いしたいと述べたところ、大使は「それは出来ません。これだけ大きな戦争の決心をしておいて、戦局が思うに任せぬのでやめるなどとは、もうせた義理ではありません。もっと徹底的に戦う必要があります。」と毅然として答えられ、返す言葉がなかったという話や、三国同盟推進の松岡外交自体を厳しく批判する立場ではあるものの、1941年3月の松岡洋右外相の独伊訪問に随行し人間的にも近い関係にあったことから、辞任した松岡外相が家族と御殿場に赴くとき東京駅までひとりで見送り、大臣から品川駅まで同乗を求められたという話なども書かれている。東条英樹内閣の出現については、木戸幸一内府による東条推挙は大きな誤りであって、戦争への弾みをつけたと指摘している。
 なお、最後の≪付記≫には、「“悲劇の外相”東郷茂徳とその時代」」と題するNHK第二放送のインタビュー談が掲載されている。

(2)東郷茂徳「時代の一面」(中公文庫 1989年)
 本書は、巣鴨拘置所に拘禁中の東郷外相が病気で亡くなる半年前から筆をとって2ヵ月で書き下したものであり、その半分ぐらいは、2度の外相時代の日米交渉やポツダム宣言受諾の経緯が記されている。
 近衛文麿特使派遣の件で佐藤尚武大使がモロトフ外相との会見を求めたのに会見できなかったことについて、ソ連側が、「我が大使との面談を避け、かつその回答を遅延せんとするは甚だ奇異なりとの感を受けたが、「ヤルタ」会談の結果独逸の屈服後既に三ヵ月を経過しているので、日本に対し既に開戦の決意を為して大使との会見及び近衛公の入国を肯じえなかったとまでは、想像し得なかったのは甚だ迂闊の次第であった」と述べている。
 1945年8月9日の御前会議の経緯については、概略次のように記されている。
 「ポツダム宣言を受諾するも、同宣言には天皇の国法上の地位を変更する要求を含まざるものと了解する外相案と、国体問題以外の三条件をも提出する阿南惟幾陸相案が対立し、意見の一致に至らなかった。鈴木貫太郎総理が甚だ恐謹に堪えぬがご聖断を仰ぎたいと発言、外相と共同で陛下に上奏、陛下より、外務大臣の意見に賛成であるとの御沙汰を拝した。二時半ごろ会議は終了したので、三時から閣議が開催され、全員挙げて原案に賛成決定した。」

(3)佐藤尚武「回顧80年」(時事通信社 1963年)
 佐藤大使は外務省在籍30年をけじめとして1935年広田弘毅外相宛て私信で、その後、有田一郎外相宛てにも辞任を申し入れていったん認められたが、1937年、林銑十郎総理の懇請により外務大臣に就任する。内閣総辞職のため3ヵ月で辞任、広田外相に引き継ぐとともに、湯浅倉平内府に日支和平を献策するなど中国問題の解決に努力する。東条内閣のとき、東郷外相に求められ再び外交顧問となり、その後、1945年3月に駐ソ連大使として慌ただしく赴任する。モスクワでは、7月20日、国体護持以外の条件は容認して戦争終結を図れとの東郷外相宛て意見具申をする。8月8日午後6時、モロトフ外相と会見し、日本に対するソ連政府の宣戦布告(「ソ連政府は明日八月九日より、日本と戦争状態にあるべき旨宣す」)を受け、その後、抑留生活に入る。

(4)村田良平「村田良平回想録」上下巻(ミネルヴァ書房 2008年)
 村田大使は、あの戦争について次のように総括している。
①1941年12月に米、英、蘭を主要な敵として、開始した大東亜戦争自体は、「侵略戦争」ではない。ただし米国への開戦通告が遅れたこと、英国には通告を行わなかったことは大きい汚点であり失態である。また、戦争を始めた以上、状況我に非なる時の降伏という可能性を真にギリギリまで考えなかったことは異常であり無責任すぎる。
②1941年7月の南部仏印への進駐で日米戦争はほぼ不可避となったが、このことを当時しっかり認識していた陸軍指導者はおどろくほど少なかった。なお、その前の1939年8月のドイツとソ連との不可侵条約締結というヒトラーの明白な裏切り行為に際し、親独政策から転換を計れなかったこと、終戦直前までソ連への全く根拠なき信頼から、仲介を期待したことは、共に日本外交のおどろくべき失態であり、外務省、陸海軍省の責任には弁護の余地は全くない。

5、文学の世界に触れる
 最初のアジア勤務のバングラデシュで偶然読んだジョ―ジ・オーウェル「ビルマの日々」(音羽書房1980年)は、自分の文学に対する目を開かせてくれた。植民地時代のビルマで現地の警察官として勤務した体験をもとに書かれた彼の最初の小説である(二度目のアジア勤務はビルマであった)。
 はじめて大使として勤務したギリシャでは、前任の城内康光大使(元警察庁長官)の企画、実行された日希修好100周年諸行事が1997年より3年間両国で開催され、1999年3月には常陸宮殿下・華子妃殿下がギリシャを公式訪問された。同年10月開催されたラフカディオ・ハーン国際シンポジウムに参加された平川祏弘名誉教授よりご著書「小泉八雲 西欧からの脱出」(講談社 1994年)をいただき、ラフカディオ・ハーンに少し関心をもつようになった。藤縄謙三の「ギリシャ文化と日本文化」(平凡社、1994年)は、ギリシャ勤務後に読んだものであるが、もし、ギリシャ勤務をしていなかったら、この本を恐らく読まなかったのでないかと思っている。今、西洋古典学の大家によるこの日希比較文化論を再読しながら、心が癒される気持ちになっている。
 最後の勤務地ハンガリーでは、2002年7月、天皇陛下・皇后陛下をお迎えし、大使として最も名誉ある仕事をさせていただいた。マードル大統領夫人が美智子皇后陛下に英訳本2冊(フェレンツ・モルナール「パール街の少年たち」ゲーザ・ガールドニ「エゲルの星たち」)を贈られた。いずれもハンガリーで広く愛読されている本で自分もとりよせて読むことにした。後者はオスマントルコ軍と戦って善戦したエゲル城の勇士たちの物語である。
 退官後の大阪学院大学勤務時に、トルストイの「戦争と平和」、ソルジェニ一ツィンの「収容所群島」の長編をようやく読むことができた。また、オーストリアの作家、トーマス・ベルンハルト「消去」(みすず書房 2004年)も読むことができた。オーストリアでの評判は良くなかったと聞くが、彼の代表作であるこの小説は精神性のない俗物的なもの、カトリック的なもの、国民社会主義的なものすべてを書き記すことで消去しようとする主人公が長々と独白する形式で書かれている。

6、絵画鑑賞
 書棚には美術展や絵画集が結構残されている。おそらく視覚から入ってくるものは、記憶からすぐに消えてしまうので手元に残しておいたのであろう。仕事の合間に息抜きとして絵画を見るのが自分の楽しみの一つであった。
 上野照夫「インドの美術」(中央公論美術出版1964年)を再読して、「人間の真実を語ろうとするインド美術は、内面的な共鳴を求めている気持ちを満たしてくれる」という著者の言葉に惹かれる。昔のインドでは美術館なども冷房もなく、各地の遺跡訪問も難行苦行であったと想像されるが、この本は、丹念な現地調査に基づく労作である。
 また、二度勤務したウィーンを含め、ヨーロッパ勤務のとき、多くの西洋絵画を見る機会があった。ヒュー・トレヴァー=ローパー「ハプズブルク家と芸術家たち」(朝日新聞社 1995年)からは、「芸術と文化は歴史の証人である」ことを教えられた。著者は、自分の苦手のE.H.カー「歴史とは何か」(岩波新書1962年)にも登場する歴史家である。また、東山魁夷「馬車よ、ゆっくり走れ ドイツ・オーストリア紀行」(新潮社 1971年)は、第二の故郷を旅した画伯の旅行記である。この本の最後「旅の終わりに」のところで、「この二人(ゲーテのファウストとモーツアルトのドンジョヴァンニのこと)に共通の点は、どちらも憑かれた人間であり、デモーニッシュである。・・・絵画の世界でも、ドイツ美術はデモ―ニッシュな作品がかなり多い。」と述べ、画伯はグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画に強い衝撃を受けている。さらに、「この旅で、自然との調和という点において、ドイツ、オーストリアでの旅の方が、はるかに私に慰めと、やすらぎを与えてくれた」との感慨を述べている。(令和2年7月6日記)