<帰国大使は語る> 世界に広がる人的ネットワークを持つ国・レバノン


前駐レバノン大使 大久保 武

 2019年11月から2022年12月まで駐レバノン大使を務めて最近帰国した大久保武大使は、インタビューに応え、レバノンの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。

―レバノンはどんな国ですか。その魅力は何ですか。

 レバノンは、東部地中海沿岸地方(レバント)に位置する、総人口が約530万人、面積が日本の岐阜県程度と小さな国ですが、その国のサイズを遥かに超えた、長い歴史と豊かな文化、宗教的・民族的な多様性、そして海外への移民を通じ世界的に広がるレバノン人ネットワークの存在など魅力の尽きない国です。レバノンにおける古代文明の足跡は7000年以上も前に遡り、特に、レバノンは、フェニキア人の海洋貿易の拠点として3000年の長きに亘り栄えました。フェニキア人は紀元前11世紀にアルファベットの起源となるフェニキア文字を考案したことでも知られています。近代に入ってからレバノンは、その地政学的な重要性や、キリスト教コミュニティの存在から、欧米列強の介入を招き、16世紀にはオスマン帝国の支配下に、そしてオスマン帝国の崩壊後はフランスの委任統治下に置かれました。1943年に独立を果たしたレバノンでは、イスラム教やキリスト教など主要な宗派に政治的な権限を割り当てた独自の宗派主義に基づく権力分配システムが導入・確立され、独立当初は政治的・経済的安定を享受していましたが、様々な政治集団や宗派間の派閥抗争が引き金となり勃発したレバノン内戦(1975〜1990)により国土が荒廃するという悲劇に見舞われました。この長期間続いた内戦は海外への大規模な離散移民(ディアスポラ)を生み出し、先に書きました、国のサイズを遥かに超えたレバノン人の世界的な人的広がりが、欧米は勿論のこと中南米や豪州、そしてアフリカにも及び、現地で強い影響力を有するレバノン人移民コミュニティを作り上げています。このレバノン人移民コミュニティは、移民先の国々の政財界は勿論のこと、言論界、法曹界、芸能界、そして芸術やスポーツ、服飾デザインの分野でも著名人を多々輩出しています。このように、国のサイズを遥かに超えたボーダーレスでのレバノン人の多士済々ぶりは、レバノンの有する魅力の中でも最たるものだと思います。

―在任中に経験された大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。

 私のレバノン在勤の3年間は、反政府民衆蜂起、経済破綻(債務不履行)、ベイルート港の大爆発、経済危機、コロナ危機、エネルギー危機、シリア難民問題など、危機に次ぐ危機に見舞われた時期でした。その間、レバノンは高中所得国から低中所得国へと転落し、世銀は、レバノンの経済危機を19世紀半ば以降人類が経験した経済危機の中でワースト3に入るとして警鐘を鳴らしました。その急速な転落ぶりと危機のマグニチュードは、失敗国家への「Free Fall」と形容されるごときでした。危機に際しても宗派・派閥主義の呪縛から逃れられず、何も決められない政治に対し国民はこぞって怒りや失望を露わにしました。また、ベイルート港の大爆発では、幸運にも、館員や家族を含む邦人は全員無事でしたが、大使館や大使公邸、館員住居も物的被害を受けました。爆発の爪痕は、事件から2年以上経った今でも、ベイルート市内の随所に残っています。事件の原因究明については、ここでも宗派主義が頭をもたげ、遅々として進んでおらず、将来に禍根を残すこととなりました。

(写真)ベイルート港大爆発後の周辺市街(カメール・ライエス氏撮影)

  さらに、他の特筆すべき事件としては、私がレバノンに赴任して間も無く、カルロス・ゴーン被告人のレバノンへの逃亡という前代未聞の事態が発生し、二国間関係に一時緊張が走ったことたが挙げられます。日本だけではなく国際的にも注目された事件であり、ベイルートに突如現れ、メディアを通じて対日批判を繰り返すゴーン被告は、レバノンに対する日本の国民感情を刺激したことは言うまでもありません。他方で、この事件は、現地でも大きく報じられ、レバノンの国内世論には、ゴーン被告人に同情する向きもあったことから、二国間関係の維持・発展の文脈において非常に微妙な舵取りを要しました。私は、レバノン政府要路への協力要請だけではなく、対アラブ広報を念頭に置き汎アラブメディアを通じたアラビア語での情報発信にも腐心し、事態の収拾に努めました。

―レバノンと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。

 私の在任期間のほぼ前半は、主にコロナ禍やレバノンの政情不安(正式な内閣の長期不在など)により、二国間関係の大きな進展には足枷が嵌められた状況でしたが、2021年9月にミカーティ首相を首班とする新内閣が産声をあげたのを奇貨として、長年の目標であった「日本・レバノン技術協力協定」への署名に漕ぎ着けることができました。これにより、レバノンにおけるJICA事務所の開設、JICA専門家の派遣やレバノン人研修員の受け入れなど、我が国ならではのきめの細かい支援事業が実施できる体制が整ったことになります。折しも、レバノンは未曾有の経済・エネルギー危機に見舞われており、キャパシティ・ビルディングを行おうにも、公的機関はスタッフに給料さえ払えないという有様ですが、このような状況であるからこそ、人道的な観点からも、ニーズの把握を的確に行い、本協定を梃子に電力・水道・保健・教育分野に焦点を当てたタイムリーな支援を実施していくことが肝要と考えます。また、両国間民間部門の関係については、レバノンが経済危機下にあることから低調ですが、レバノンは、元来親日国であり、日本の最新技術に対する信奉者も多いことから、政治・経済が安定した暁には、日本・レバノン間の民間部門同士の交流が進むことが期待されます。特に、慢性的な電力不足に悩むレバノンでは新規発電所の建設が急務とされており、同分野での日本企業の進出についてはレバノンの各界から期待感が表明されています。

―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

 私の在任中、コロナ禍に見舞われた間、自ずと人的交流や広報文化活動は低調とならざるを得ませんでしたが、その一方で、主に経済協力にかかる問題意識としては、①未曾有の経済・エネルギー危機に見舞われるレバノンにドナーとしての日本がタイムリーに支援の手を差し伸べることができるか、②ベイルート港の大爆発により大きな被害を出した家屋・建物や公共施設の復旧に、日本が災害復興の経験を生かし、効果的に取り組むことができるか、の2点がありました。先述の通り、未曾有の経済危機下にあるレバノンでは、エネルギー危機、特に電力不足が日々深刻化し、ベイルート市内で日に数時間程度しか電力が供給されないという状況が継続する中、国民のフラストレーションや政府に対する非難の声は高まる一方でした。人道上の理由もさることながら、国民の政府に対する不満の高まりがややもすれば 治安の悪化にも繋がりかねないとの視点に立ち、日本としては、再生可能エネルギー、特に太陽光発電パネルの設置を通じた電力危機への対応に力を入れました。ターゲットとしたのは、医療や教育施設です。特に、ベイルート市内にある公立の拠点病院であるラフィーク・ハリーリ大学病院に日本が設置した太陽光発電パネルは、同病院の電力需要の約20%をカバーするものとして高く評価されました。

(写真)日本の協力で設置された太陽光発電パネル

 これに加えて、主に人道上の観点から重視したプロジェクトは、ベイルート港の大爆発により被災した建物や公共施設の修復です。私の在任中の2020年8月、ベイルート北部の港湾地区にある倉庫内で長年放置されていた約2750トンの硝酸アンモニウムに引火、大爆発を起こし、200人以上の死者、7000人を超す負傷者を出すとともに、6000以上の建造物が損壊しました。これを受け、日本は人道支援物資の空輸を直ちに行うとともに、被災地区にあり被害を受けた歴史的建造物の修復プロジェクトに着手しました。国際機関経由で日本のNGOも関与する形でタイムリー且つ効率的に実施された本プロジェクトは、大きな反響を呼び、私の離任直前に、日本の支援の恩恵を受け自宅が再建されたことに感謝したいとして、15歳の高校生ラミー君が私を公邸に訪れ、自作の絵(サムライとレバノン人の祖先と言われる古代フェニキア人の戦士が手を繋ぐもの)を贈呈してくれたことは、感動的でした。この他、日本は、ベイルート港の大爆発により大きな被害を受けた、同港の農業省動植物検疫センターや保健省中央薬品倉庫の再建も手掛け、日本の災害復興から多くのことを学びたいという声が多くのレバノン人から聞こえてきました。

(写真)高校生ラミー君の自作の絵の贈呈

 これと同時に、SNSを活用し、日本の人道支援や復興支援に焦点を当てた広報にも努めました。SNSによる広報の有効性については今更述べる必要はありませんが、私はSNS、特にツイッターを駆使し、パブリック・ディプロマシーに注力しました。在任中の2年間で、1,400本以上のメッセージをパーソナルタッチを織り込みつつアラビア語で発信し、特に、国際機関経由での開発・人道支援や草の根無償資金協力プロジェクトについては、エネルギー危機下にあるレバノン人の窮状に焦点を当てつつ、きめの細かい情報発信に努めた結果、太陽光発電関連プロジェクトは日本のお家芸であるといったある種のブランド・イメージを確立できました。加えて、日本のテクノロジー、歴史、自然、風物、時事問題などにフォーカスした広報もパーソナル・タッチを含ませつつSNSを通じて行ったところ、大きな反響を得て、対日関心層の掘り起こしに貢献できたと自負しています(2年間でフォロワー数は3.5万人に増え、レバノンのG7大使の中でトップとなりました)。

―在外勤務を通じて強く感じられたことはありますか。

 私は、シリア、リビア、イスラエル、サウジアラビア、エジプト、パレスチナ、そしてレバノンと約四半世紀に亘る中東勤務を通じて対中東・アラブ外交に携わってきました。その間、シリアでの国家元首の交代劇や、イスラエル・パレスチナでの第二次インティファーダ(民衆蜂起)、またエジプトでは「アラブの春」を、さらにレバノンでも「サウラ(革命)」(反政府民衆蜂起)や未曾有の経済危機を目の当たりにし、時としてその渦中に身を投じることで、アラブに対する理解を深めるとともに、歴史の生き証人になれたことは、アラビスト外交官として幸運だったと思います。加えて、本省や在米大などの勤務を通じて、第一次、第二次湾岸戦争や中東問題のコアである中東和平プロセス(パレスチナ問題)に関わることもできました。その経験を通じて体感したのは、日本の対中東外交の多様化と増大する役割でした。第一次オイルショック後、日本の中東外交は、「油乞い外交」と揶揄された時期もありましたが、今や中東でコツコツと積み重ねてきた経済協力や人的交流が花を咲かせ、中東諸国の人づくり、国づくりへの貢献という点では、主要国の中でも確固とした地位を築いていると確信します。小泉内閣当時に日本が先駆けとして着手し現在に至るパレスチナにおける「ジェリコ農産加工団地」はその好例でしょう。日本が、相対立し合うイスラエルとパレスチナの双方から得た信頼を梃子として、パレスチナの独立後の将来と地域の安定を見据え、パレスチナの地場産業育成のために工業団地を建設するというその息の長い取り組みは、他のドナーの追随を許さないものとして、地域的、国際的な注目を集めています。まさに日本ならではの中東和平への貢献です。

 これまで中東地域は、湾岸戦争やアラブの春、そしてシリアやイエメンの内戦に代表される様に戦乱とは縁が切れない世界でしたが、近年ではアラブ湾岸産油国の経済的な繁栄と政治的な役割の増大、指導者の世代交代を受けた社会の変容、また、アラブの仇敵であるイスラエルと一部アラブ諸国との関係正常化や米の対中東関与の相対的な低下等を受け、地域のランドスケープが変容しつつあります。このような状況にあっても、日本にとって中東地域は、エネルギー安全保障上のみならず、若年層比率の高い 3.5 億人の人口を有する有望な市場として、その重要性は不変であるところ、今こそ、日本がこれまで地域で築き上げてきた多くのアセットを梃子とした、地域・国際プレイヤーへのきめの細かいアプローチや情報収集が求められているのではないかと考えます。(了)