(コロナ特集)「頂上(ピーク)はまだか」(アルゼンチンのコロナウイルス)


駐アルゼンチン大使 中前隆博

 6月12日付の米TIME誌は新型コロナウイルスへの対応が優良と評価する11カ国を挙げる記事を掲載しましたが、アルゼンチンもその一つにかぞえられました。中南米が感染の中心地と言われ始めた頃のことで、そういう中でアルゼンチンの感染のペースが比較的遅いことに対する評価ですが、国内でまだ決着がついていないとの意識が強く、国際的に評価されたことも、当地ではどちらかと言えばちょっと驚きをもって受け止められたようです。

 アルゼンチンでの新型コロナウイルス感染は比較的遅く、3月3日に最初の感染者が確認されました。政府はこれに対して早めの対策に打って出て、3月19日には全国一斉の強制隔離措置(ロックダウン)を発表し、翌日から実施されました。当初は、食品店や薬局など一部を除き全ての店舗、事業所の一時閉鎖を伴う厳しいものでした。この命令は感染のピークを先延ばしにするという正道にのっとったものですが、その結果これまで爆発的な感染に見舞われることなく、感染カーブの平坦化に成功しています。一方で、その結果当初4月末から5月と言われていた感染のピークがいつまでたっても来ないという副次効果に見舞われています。当初3週間の期限で発令されたもののその後8回の延長を重ねて120日を超えるに至り、当地では世界最長のロックダウンだと言われています。延長の度に少しずつ外出規制や店舗の営業も緩和されたのですが、感染拡大局面での規制の緩和になったので6月下旬には一日の新規感染者が三千人に迫る勢いで増加し、再び規制を厳しくするなど一進一退の状況です。本稿執筆時点の7月中旬には概ね三千人から四千人のペースで推移しています。

(グラフ)アルゼンチンにおける新型コロナウイルス新規感染者数の推移(アルゼンチン保健省発表値)

 この感染症は、もともと1~2月のバカンスに出掛けた人達が欧州から持ち帰った「金持ち病」とされていましたが、5月頃になってこれが大都市近郊の低所得者居住地で広がってきたことも感染加速の原因の一つです。外出禁止を受けた途端に生活の糧を失う人々、家庭では一つの部屋に密集した生活を余儀なくされる人々の間では、感染の速度も上がります。当局が感染者の出た地区を丸々封鎖するなど厳しい対策も取られていますが、これら生活基盤の脆弱な人々の対策も課題です。

 この間、国民は概ね辛抱強く規制を遵守し、政府に協力してきました。店舗は休業を守り、街路や商店の人出も大幅に減りました。外出時にマスク着用の指示が出た当初は、その有効性について若干の議論はあったものの、いまではその是非を問う声は聞かれずマスクの着用は常識となりました。また、国外のニュースにみられるような、規制を無視してビーチやフィエスタに大勢の人が繰り出すというような光景も見えません(もっともいまは真冬ですが)。何かにつけて政府与野党が激しく政治的に対立しがちなアルゼンチンですが、世論調査を見る限り政府による一連の感染症対策に限ってはまだ国民の広い支持があるようです。

 しかし4か月にわたる強制隔離の中、経済の停滞に対する懸念や、外出禁止の疲れも手伝って、何とか現状を変えてほしいという声が高まってきたのも自然の成り行きでしょう。また、かつて大規模な感染が伝えられた欧州で、徐々に社会活動が再開されている様子が報道されるに伴って、長い外出禁止を耐えてきた市民の忍耐にじわじわと限界感が拡がりつつあります。

 フェルナンデス大統領は、「経済は活動を再開すれば回復が可能だが、失われた命は取り返しがつかない」と繰り返し国民に訴え、強制隔離措置の延長に理解を求めてきました。
この、「強制隔離継続か、規制緩和か」の議論は、「保健か経済か」という二者択一のいささか理念対立の色を帯びて論争が交わされてきています。

 ちょっとこの国らしいと思われるエピソードをいくつか拾ってみましょう。

夜の公園を走る「ランナーズ」(Infobae, Nicolás Stulberg撮影)

 一時、大きな論争となったのが、「ランナーズ」と英語で呼ばれる公園をジョギングする人たちです。
6月、長い強制自宅待機に対する市民の疲弊を見た首都ブエノスアイレス市当局が、夜間から明け方に限り市民が自宅周辺でジョギングをすることを許可しました。これに対して、隣接するブエノスアイレス州政府からはそのようなことで感染者が増えると州の住民が迷惑をすると反対し、メディアを舞台にした大論争になってしまいました。

 首都ブエノスアイレス市は連邦特別区として州と同等の行政権限を持ちますが、住民の平均所得は高く、美しく広い公園を含め都市インフラも良好です。そしてこの市長は次期大統領選挙への出馬も期待される現野党のリーダーです。これをぐるりと取り囲むようにしてあるのがブエノスアイレス州で、国内最大の人口と経済を持つ州ですが、首都近郊には低所得者の居住地域が多くあります。この州の知事は現政権与党の若手リーダーで、与党にとってこの地域は最大の票田です。この近郊地域には都市インフラが十分ではなく、また低所得者地域での感染が急速に拡大している最中でしたから、「ランナーズ」で公園が大混雑するといった首都市民の様子は郊外住民の感情からも受け入れにくかったのでしょう。

フェルナンデス大統領(写真中央),ラレタ・ブエノスアイレス市長(写真左),キシロフ・ブエノスアイレス州知事(写真右)による共同記者会見(Infobae, Franco Fafasuli撮影)

 ちなみにブエノスアイレス市とブエノスアイレス州併せて人口は全国民の約46%ですが、累積感染者数は全国の9割以上を占め、感染は首都圏に極度に集中しています。この「ランナーズ」問題は州政府と市庁双方の当局者や与野党政治家を巻き込んで政治色の濃い議論に発展しました。その後州知事と市長が協議してこのジョギング許可が一旦は取り消しになったのですが、今度はこれに首都市民の側や野党勢力から不満が出ます。「感染リスクが低く健康対策にもなることをなぜやめた」というわけです。さらには連邦政府の保健大臣が「『ランナーズ』規制は保健上の根拠はないがイメージの問題である」と発言を行うに及び、これがまた大きな論争を呼ぶようなことも見られました。

 もうひとつ、アルゼンチン人の心配の種になっているのが、サッカーです。いうまでもなくアルゼンチンはサッカーの世界的な強豪国ですが、強制隔離が始まって以来、東京五輪選抜メンバーを除き練習を含めた活動が一切禁止されています。南米のサッカーリーグのうち、今も練習の認められていないのはアルゼンチンとボリビアのみで、このままだと日に日に他国との力の差がついてしまいます。これがいずれ国際試合での屈辱につながるかと思うと、居ても立ってもいられないのがアルゼンチン人の気持ちなのでしょう。政府の保健当局者がこの件についてメディアの厳しい質問攻めに遭い困惑する場面が見られたりするのは、この国らしい光景です。先日、アルゼンチンサッカー協会が、感染予防のための行動規範の案を発表し、保健大臣に練習再開の陳情書を提出しました。その行動規範には、消毒の徹底、集合練習は選手6人までに制限、などに加えて、「マテ茶の回し飲み禁止」が含まれています。

老舗レストランの閉店(Infobae, Franco Fafasuli撮影)

 街の様子で見れば、アルゼンチンは前世紀初頭には世界十指に入る豊かな国であったので、ブエノスアイレスにはその当時に整備した美しい街並みや壮麗な劇場など、古き良き時代の面影を残す風景が見られますが、その中で欠かせないのがカフェです。ところが、強制隔離措置の結果市内のレストランやカフェは一斉に休業を余儀なくされ、4か月にもわたる収入途絶の結果、歴史あるカフェやレストランが廃業に追い込まれるケースが出てきました、一軒また一軒と老舗が看板を降ろす記事が新聞に掲載され、これはさすがに市民の寂寥感を呼んでいるようです。

 長い強制隔離を経て、この国の感染拡大にもようやくピークが近いといわれるようになり、政府は今後の規制緩和の手順について具体的な検討を始めました。ただ、ここにも、緩和によって早期に経済活動の回復を目指したいブエノスアイレス市と、まだ外出規制を続けたい州との間で議論が続いています。
 このように、アルゼンチンの感染症の経験は、いわゆる爆発的な感染拡大や医療崩壊といった悲劇的な事態を招くことなく、長く比較的緩やかなカーブを辿りながら今日に至っています。その意味では、約4500万人の人口を抱え、ブラジルやチリを含め隣国と9400kmほどの国境線で接する国であることも考えると、確かに良好な実績を上げているといえるのかもしれません。
 しかし、この国にとって本当の正念場は経済活動が再開するこれからだという見方には注意が必要です。それは、この長期の活動規制の結果見えてきた経済的影響の大きさであり、またそれからの回復にはアルゼンチン特有の困難が伴うとみられるためです。

 アルゼンチンは、感染症の拡大が始まる前から、すでに足かけ3年にわたる長い経済後退と年率50%を超える高インフレに悩まされてきました。さらにGDPの90%に迫る公的債務を抱え、返済が困難になった政府は債務再編交渉に取り組んでいたところでした。当初3月末を目標に始められた民間債権者との交渉は難航し、7月の今もまだ継続しています。この間、一部の利息返済期限が到来したもののその支払いは行われず、事実上のデフォルトの状態が生じています。
 強制隔離を受けて4月の経済活動指数は対前年同月比26.4%の歴史的な大幅減少を記録しました。政府は賃金労働者や事業者、企業等に対する補助金などで支援を行ってきています。また政府は、6月末までの納税滞納に対する支払い猶予を認める法案を議会に提出しています。これらはそのまま財政赤字になってきます。
 一方で、事実上のデフォルトの中では国外からの資金調達は不可能で、これらの施策によって生ずる財政赤字は結局通貨を発行してまかなうしかありません。今年前半のマネタリーベースは急速に拡大する一方で、基礎生活物資には価格統制を発して価格上昇を抑えています。こうしてとりあえずは経済が動いていない中での流動性を供給しているところですが、経済活動が再開すると、たちまちに通貨の為替下落と高インフレを招くであろうと懸念する論説も増えてきました。

 長い営業の停止でサービス産業を中心に事業者の損失は大きく、また経済が再開しても常に感染症の流行再発を抑えながらの慎重なものとならざるを得ません。大統領は「経済はいずれ回復する」としていますが、その道は平坦ではないでしょう。債務については、民間債権者との交渉に続いて、最大の債権者であるIMFとの債務再編交渉が控えています。最近債務国に対する強い支援の姿勢を見せているIMFですが、それでも今後の財政プログラムが強い制約を伴うことは不可避でしょう。
 政府が今後どのように舵を取っていくのか、また、その中でアルゼンチンが国際経済体制の中でどのように位置づけを図ろうとするのか、これからの2~3年がこの国の将来の姿を決める重要な時期になるのではないかと思われます。