余談雑談(第85回)日本語の言文不一致

元駐タイ大使 恩田 宗

 日本語は書き言葉と話し言葉との差がまだ大きくものを書くとき不便に思うことがある。寄稿文などは「デアル調」で書くと少し威張った感じがしないかと気になる。といって「デスマス調」にすると丁寧にはなるが間延びして緊張感に欠ける。「ダ調」では簡潔にはなるが断定的に過ぎぶっきらぼうで形式張ったものには使えない。

 人称代名詞もしっくり合うものがなくて困る。日本語では誰が誰にと逐一いわなくても分らせることができるので人称代名詞は使わずにすむことが多い。そうはいかない場合は謙遜気味の「私(わたくし)」でも若返った感じの「僕」でもなく不遜な口調の「俺」でもない無色中立の一人称がないかと思うことが多い。又、「君(きみ)」ではなれなれしく「あなた」では改まり過ぎる場合は英語の「ユー」に当たるものが欲しい。メールの冒頭で「君(くん)」や「さん」ではくだけ過ぎ「様」や「殿」では距離があり過ぎる時はどう呼びかけるべきか迷う。

 福沢諭吉の口述筆記の「福翁自伝」はデスマス調だか「学問のすすめ」「文明論の概略」などの主著はナリ・アリ・ベシである。明治時代は新聞も文末の言葉は同様で無暗に漢語を並べた文語である。公文書はカタカナ混じりの漢文読み下し調だった。ダ・デス・マス・デアルは古くからある言葉で明治中期に小説家達(二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉他)が使用して広め今に残ったものである。漱石も明治38~9年「吾輩は猫デアル」を書いた。「日本語の歴史」の著者山口仲美は主観的に断言したければダを、語りかけたい時はデスマスを、客観的に叙述する時はデアルを使い感じにより混ぜて使ってもいいのではないかと言いっているが混用はよほど上手にやらないと全体の調子がとれなくなる。

 維新の頃は日本語という共通語はなかった。話し言葉は地域により異なり薩長の士官の命令が東北出身の農民兵に理解できなくて困ったという話が残っている。書き言葉は漢文系と雅文系の二つあり全国共通だったが知識層に限られていた。早急に話し言葉を統一し書き言葉をそれと一致させ日本帝国の国語を作る必要があった。話し言葉は東京山の手の言葉とすることで識者の意見は早くに一致していた。しかしそれで全ての国定教科書を書いたのは明治の末で東京語を標準語と公示したのは大正二年である。言文一致には更に長い時間がかかった。主要新聞の記事が口語体になったのは大正10~11年で官庁の文章が文語文でなくなったのはあの大戦争に負けた後である。
 
 平安時代の平仮名文も言文一致とは言えないらしい。日本語は西欧諸国の言語に比べ数百年も遅れて言文一致への努力を始めたのである。当分は不便を我慢し受け継いだ言葉を各人それぞれの感覚で使いこなし磨いていく努力を続けるしかない。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。