端倪すべからざるハンガリー

元駐ハンガリー大使 稲川照芳

1.読者にとっては旧聞に属することかもしれないが、私にとってはつい昨日のことのように鮮明に思い出される光景がある。それは1956年のハンガリー革命の英雄ナジ・イムレが刑場の露と消えた処刑場の光景である。離任を1か月後に控え、革命50周年の直前の2006年10月初め、私は知人を介して、ナジが処刑されたブタペスト郊外の刑務所をナジの最後を見届けた人物の案内で訪れることができた。ナジ・イムレは1956年10月23日に起きた民衆の蜂起直後に首相となり、やがて彼はハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退の意向を明らかにした。これに対し、ソ連(今のロシア)は軍事介入を決断しソ連から軍をハンガリーに進めた。ソ連軍は、11月4日に在ブタペストのユーゴスラビア大使館に入ったナジが22日に同大使館を出るなり、彼を捕らえ、ルーマニアに連行し、やがてハンガリーで死刑を執行した。1958年6月のことであった。ナジの後継者としてソ連が投入した人物はカーダールであった。しかし、数千人の死者を出し21万人のハンガリー人が国外に脱出したハンガリー人の反乱はカーダールも無視できなかった。もちろん、ナジの指導者としての資質についてはさまざまな意見がある。それでも彼の唱えたハンガリーの独立の精神はその後のハンガリーに貫かれ、カーダールは細心の注意を払い、ソ連の意に反しないよう可能な枠内で経済、国民生活の改善を図った(例:1968年導入の新経済メカニズム等)。私は1970年半ばに当時留学していたドイツの大学のドイツ人とハンガリー人の友人をバラトン湖畔の別荘に訪ね、そこに数日滞在し、さらにブタペストを訪れた。それらの場所で見た市場の品数は決して豊かとは言えないにしてもその当時の東ベルリンに比べてもはるかに豊富であった。また、バラトン湖畔に滞在中のある夕べ、ハンガリー人の友人が催したパーティーにバラトン湖畔周辺で休暇を過ごしていた数名の東ドイツ人も加わり、最初は固い表情であった東西のドイツ人もやがて和気あいあいとなり、古いドイツの歌を皆で唄い、まるでドイツが統一されたかのようであった。その他、1981年の春に、当時チェコスロバキアのプラハに在勤していた私は出張でブタペストに行き市場を見てプラハに比べてはるかに豊かであったことに印象付けられた。カーダールの時代は1988年まで続いたが、それも時をほぼ同じくするように翌年オーストリアとの国境の鉄条網が切って落とされた。

 その後の展開についてはご存知の通りで、1989年8月には、パン・ヨーロピアン・ピクニックと称して、ハンガリーの有志たちが国境の町ショプロンで国境を開き、折から周りにたくさんいた東ドイツ人たちを西側に行かせ、そして9月には、ハンガリー政府は公式にハンガリーに来た東ドイツ人を西ドイツに行かせることを西ドイツ政府に約束した。「ベルリンの壁」崩壊の始まりであった。私は当時ウィーンに在勤していたが、89年の秋、大勢のハンガリー人がウィーンに押し寄せて買い物をするので、ウィーンのデパートではハンガリー語の通訳を多く必要とした。

2.私が大使としてハンガリーに在勤した3年間(2003年11月~2006年11月)、各国大使が招集される重要行事が年に3回あった。その一つは、3月15日、オーストリアからの独立・革命記念日(1848年3月15日)を想起するため、革命が勃発したペスト側にある国民博物館の前の石段で演じられる寸劇を見るために大使が集められる。二つ目は、8月20日午前、国会正面の石段に立ち、大統領が参加してハンガリーの国旗掲揚の儀式が軍楽隊の国歌演奏の中で行われるのを見守る建国記念日の行事。三つ目は、10月23日、英雄広場の隣にある革命記念碑の前に参集することであった。三つの行事のうち、二つ目はどこの国にも形は違ってもある建国記念行事であるが、他の二つは特異なものであった。三つ目は、戦後の世界にとって歴史的な意味を持つものであり、一つ目は、ハンガリーの歴史にとり十分深い意味を持ったものであろう。この二つに共通するものは、ハンガリーの独立・自主への熱い願いを示したものであろう。三つ目については既に簡単に触れたが、一つ目について少し説明しておきたい。

3.ハンガリーが未だオーストリアの一部であった頃の18世紀の後半、モーツァルトがウィーンで活躍していた頃から、ハンガリー出身の貴族達はハプスブルク家の支配するオーストリアに不満を抱いていた。それが段々高じて不満は一般市民、青年層にも広がりついに1848年の3月13日、コシュートをはじめとするポジョニ(現在のブラチスラヴァ)のハンガリー国会議員の一団がウィーンに最後通牒をつきつけるために行進していったが、15日にはペストにある国民劇場前の広場で詩人ペテフィの詩に鼓舞された青年・市民がハンガリーの独立・自主を叫び、これを発端として反オーストリア革命となった。この革命はいったんは成功するかに見えたが1849年8月にオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフの要請を受けたロシア軍の前にハンガリーは降伏した。しかし、その後1866年、オーストリアがプラハ近郊のケーニッヒ・グレーツでプロシャに敗北し、プロシャ・ビスマルク主導のドイツ連邦から駆逐された。オーストリアは将来の中欧での大国としてハプスブルク主導のオーストリア帝国が生きぬくべく、帝国内の一大勢力たるハンガリーと妥協した。ハンガリー内にはあくまでもハンガリーの独立を主張する政治勢力があったものの、ハンガリーはオーストリアなしには生存できないとするデアークやアンドラーシ等の現実的な政治家が勝利してここに妥協が成立し、1867年6月にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立した。これが第一次世界大戦まで続いた。ここで一言付け加えておきたい。確かにハンガリー側ではデアークやアンドラーシのような人々がハンガリーのより独立した利益を確保しつつオーストリア帝国内にとどまり中欧で生きぬく道としてハプスブルク王朝と妥協したが、そのプロセスではオーストリア皇后エリザベート(シシー)ー彼女は皇太后に反発してかハンガリーを好みしばしばハンガリーに滞在しハンガリー語も習熟していたーの果たした役割を無視してはならない。彼女はデアークの考えを夫君の皇帝フランツ・ヨゼフに伝え、「妥協」への決意を促したと言われる。

4.今日、ニュースによると、ブタペストで中国(中華人民共和国)の大学がその姉妹大学を設立しようとしており、それに対しハンガリー市民が多数反対していると云う。その反対論の一つは、背後に「一帯一路」政策の中にハンガリーを取り込んでいこうという中国の意図があるのではないか、ということのようだ。私個人は、歴史を見る限り端倪すべからざるハンガリー人の独立・自主の精神はそんなにたやすいものではない、と思っている。この問題についても、歴史を紐解きつつ、注視していきたい。