独立60周年・外交関係樹立50周年:南太平洋の島国サモアから


駐サモア大使 千田恵介

1.ポリネシアのゆりかご・サモア

 みなさんは、「サモア」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。年輩の方だと、1962年にNHKのみんなのうたで放送された「サモア島のうた」を記憶されている方もいるかもしれません。ちなみに、私は十分年輩ですが、サモア赴任が決まるまでこの歌は知りませんでした。また、この歌のメロディーはサモア民謡とされていますが、現在、サモアでは全く知られていません。若い方々は、ラグビーが頭に浮かぶかもしれません。前回のワールドカップで、日本とサモアは対戦しましたが、縁があるのか、今年のフランス・ワールドカップでも日本とサモアが対戦することになっています。

 

(写真1)サバイイ島の夕日

 現在、太平洋諸国は、自由で開かれたインド太平洋(FOIP:Free and Open Indo−Pacific)の重要な一角を占める地域として世界中から注目を浴びています。太平洋諸国は、民族や歴史的経緯から、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3地域に大きく分けられます。ミクロネシアは、日本に一番近い地域で、主に太平洋の赤道から北側に位置する国々からなり、このうち、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦まで、日本が委任統治していた我が国にもなじみの深い地域です。高校の国語の教科書などで誰もが読んだことのある李陵、山月記などの作者・中島敦は、死の直前までこれら統治地域を管轄する南洋庁に勤務しており、そのときの様子は全集に掲載されている日記や書簡でうかがい知ることができます。メラネシアは、赤道から南側でオーストラリアの北東の海域に位置するパプアニューギニア、ソロモン諸島、バヌアツ、フィジーからなっています。

 もう一つの地域がポリネシアですが、この地域は、ニュージーランド、ハワイ、イースター島を結んだポリネシアン・トライアングルという広大な三角形の中に主に位置する地域です。つまり、ニュージーランドのマオリ、ハワイの先住民、イースター島の先住民もポリネシア人なのです(仏領のタヒチなどもそうです)。ポリネシアの島々で独立国家をなしているのは、ニュージーランドを除けば、サモア、トンガ、ニウエ、ツバル、クック諸島の5つですが、これらのうち、最も古くから人類が居住していて、国土の面積も大きいのがサモアです(サモアはウポル島とサバイイ島という2つの島がその面積のほとんどを占めていますが、このうちウポル島は沖縄本島より少し小さい程度、サバイイ島は沖縄本島と屋久島を合わせた程度の大きさです)。ポリネシア人の祖先は、約3000年前にサモア、トンガ付近に到達し、1000年ほどこの地域にとどまった後に再び移動を開始して、広大なポリネシアン・トライアングルに広がっていったと考えられています。1000年間の停滞の原因は明らかにはなっていませんが、ディズニー映画の「モアナと伝説の海」は、この点をひとつのモチーフにしています。このような経緯から、サモアはポリネシアの古い文化が残っている地域として、「ポリネシアのゆりかご」と呼ばれています。

2.欧米による植民地化

 サモア諸島が初めて欧米の航海者によって認められたのは18世紀の後半ですが、欧米人が本格的にサモア諸島に居住を始めたのは、1830年にジョン・ウィリアムズ(サモア語ではヨアネ・ウィリアム)に率いられたロンドン宣教師団がサモア諸島の西端かつ最大の島サバイイ島に上陸してからでした。その後、サモア諸島では、英、米、独の3か国がサモア人同士の内紛に乗じて勢力を拡大しようと激しく争いました。19世紀末、この地に居を構え、1894年にこの地で没したロバート・ルイス・スティーブンソン(宝島、ジキル博士とハイド氏などの作者)は、当時の様子を日記や新聞投稿などにより生々しく記録しています。また、前出の中島敦は、小説「光と風と夢」(文庫版の全集に掲載されています)の中で、サモアでのスティーブンソンの様子をいきいきと描いていますので、興味のある方はご一読ください。なお、スティーブンソンの住居跡は、現在博物館として保存されており、本人は現在も首都・アピア市内のバエア山山頂に埋葬されています。博物館から40分ほどで登れますので、足に自信がある方は、スニーカーを履き、飲料水を十分用意して、必ず複数人でチャレンジしてみてください。

 

(写真2)バエア山(右端の山)

 結局、1899年のベルリン会議で、現在のサモア独立国に属する地域はドイツが、現在の米領サモアに属する地域は米国が統治し、英国は世界の他地域での権益と引き替えにサモアでの権益は求めないという合意が成立しました。第一次世界大戦のドイツ敗戦でドイツ統治地域はニュージーランドが統治することとなり、その後、1962年に西サモアとして独立しましたが(1997年にサモア独立国と名称変更)、サモア諸島東部は、現在でも米国による統治が続いています。

3.コロナ禍のもとでの赴任

 私がサモアに着任したのは、2021年12月でした。当時、サモアにはコロナの市中感染はありませんでしたが、サモア入国には厳重な水際対策が取られていて、私も3週間の隔離措置を受け、クリスマス、新年とも隔離施設で過ごしました。その後、3月に初めての市中感染者が出ましたが、国境閉鎖の間に国民のほとんどが予防接種を受けていたため、それほどの混乱はなく、2022年8月には国境が完全に開放されました。それからは徐々に観光客も戻り、サモアはだんだんと活気を取り戻してきています。ただ、国内での雇用機会が少ない間に、多くのサモア人がニュージーランド、オーストラリアに出稼ぎに出てしまい、ホテル、レストラン等の観光業界は、人手不足に悩まされています。

4.サモア内政・政治危機

 サモアでは、2021年4月まで、トゥイラエパ前首相率いる人権擁護党が20年以上にわたり政権を掌握してきました。しかし、同月の総選挙で、与党人権擁護党と野党FAST党が51議席のうちそれぞれ25席を獲得し、その後無所属の1名がFAST党に加わりました。ところがトゥイラエパ前首相はこの選挙結果による政権交代を拒否し、政権就任式が行われる国会議事堂をロックアウトする措置に出ました。これに対抗して、フィアメ・ナオミ・マタアファ現首相などが率いるFAST党は、国会議事堂の前に大テントを建て、その中で就任式を強行し、政権を発足させました。これに対して旧政権側は、テントでの就任式は無効だと裁判所に提訴しましたが、裁判所はこれを有効と判断し、どうにか政権交代が成立しました。その後、議員の死亡・辞職などに伴う補選の結果、FAST党は安定多数を獲得し、私が着任した2021年12月の段階では、新政権の基盤は一応しっかりしたものになっていました。20年以上ぶりの政権交代でしたが、現首相のフィアメ氏は、旧政権下で教育相、副首相などを歴任しており、父親がサモア初代首相という名家の出身でもあり、政権運営に不安を抱く国民はほとんどないようです。

(写真3)独立60周年記念60タラ紙幣
(表にフィアメ現首相、裏にそのお父さんの初代首相)

5.サモア社会の特徴

 サモアは1962年までニュージーランドに統治されていたこともあり、同国と密接な関係を保っています。サモア人の多くは非常に流ちょうな英語を話し、中産階級以上の国民は、ニュージーランド又はオーストラリアの大学を出ている人が大半です。法制度もニュージーランドの制度をそのまま継受しており、少なくとも金融、民商事などの分野では基本的にコモンローの制度で運用されています。

 一方で、村落や家族間などでは、昔からの伝統的な制度が維持されています。サモア社会では、それぞれの村落が、昔から伝わる称号(マタイと呼ばれます)をいくつか有しており、その村落の維持発展に尽くした人がその称号を受け継ぐ仕組みになっています。つまり、必ずしも世襲ではありません。そして、村落内部のことは、マタイ称号を有している人たちの会合で決定されます。村のどこにどの家族が住むか、村に水道を引くかどうか、村の土地をリゾート施設に貸すか否かなどあらゆることがこの会合で決定されます。村の名誉を害した家族を追放することもできます。そして、称号の獲得や、村の土地などについて争いがあれば、通常の裁判所ではなく、土地・称号裁判所という特別な裁判所で裁判が行われます。フィアメ・ナオミ・マタアファ現首相は、サモアの初代首相フィアメ・マタアファ・ファウムイナ・ムリヌウ2世の娘ですが、お父さんが亡くなったとき、まだ20歳に達しておらず、また当時は男性優位の考え方が支配的な時代で、親族の反対等もあって由緒あるマタイ称号であるファウムイナを引き継ぐことが裁判所から認められませんでした。その後、もう一つの由緒あるマタイ称号であるフィアメを引き継ごうと裁判所に訴え、やはり伝統的な裁判官から厳しい尋問を受けたものの、どうにかフィアメを引き継ぐことができたと、先日のレセプションで首相自ら述懐しておられました。なお、マタイ称号は1人で複数保持することができ、トゥイラエパ前首相は、その自伝によると、8つのマタイ称号を持っているようです。

 宗教の面では、他の太平洋諸国と同じく、国民のほとんどが敬虔なキリスト教徒で、国中に立派な教会があります。国家行事も含め、すべての行事は牧師・司祭による説教で始められますし、日曜はみなさん教会に行くので、ほとんどの施設・商店は閉まっています。サモア訪問を考えている方は、この点に留意し、日曜はホテルなどのプール、ビーチでゆっくりされるよう計画してください。

(写真4)ウポル島東岸の村の教会

6.日本とサモア・より深いキズナを目指して

 2022年は、サモア独立60周年に当たる年でした。通常、独立記念式典をはじめとする行事は6月1日に集中して行われるのですが、2022年6月は依然としてコロナによる国境閉鎖期間中でしたので、政府は海外で働いているサモア国民が独立関連行事に参加できるよう、独立60周年行事を1年間にわたって行うことを決定しました。本稿を書いているのは2023年5月中旬ですが、5月一杯は独立60周年関連行事が行われますので、現在でもいろいろと招待状が私のところに届いている状況です(きょうも、60周年記念の60タラ紙幣発行記念のレセプションの招待状が来ました)。

 また、2022年は国際協力機構(JICA)によるJICA海外協力隊のサモア派遣の50周年でもありました。JICAのボランティアは、過去50年間、600名以上が、教育、スポーツ、文化、農業、漁業など多くの分野でサモアを訪れており、サモアの地域社会に根を張った活動を通して、日本・サモアの友好関係の発展に重要な役割を果たしていただきました。

(写真5)JICAボランティアを大使館に迎えて

 そして、2023年は、日本・サモア外交関係樹立50周年の年です。この50年の間、日本は、アピア港の岸壁整備、太平洋気候変動センター(PCCC)の建設、アピア市中心部にあるヴァイシガノ橋の架け替え、米領サモアとの間で運航される貨客船の供与などの大型の支援から、各地小中高等学校の教室・講堂の整備、被害者支援施設の建設、村落の上水道整備など、地域に密着した草の根支援までいろいろな支援を行ってきました。今後も、2021年の第9回太平洋・島サミットで当時の菅総理大臣が発表された「太平洋のキズナ政策」の下、サモアの国民に感謝されるような協力を行っていきたいと考えています。