激変する世界のマナー事情


元国連事務次長 赤阪 清隆

 最近、世界及び日本におけるマナー事情が激変している。というのも、欧米諸国からスタートして世界に広まった「LGBTQ(セクシュアルマイノリティ)」への配慮、「BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動」、セクシュアル・ハラスメントに対する「Me Too運動」、著名人の過去の言動を告発し、表舞台から引きずり落とす「キャンセル・カルチュア」など、私たちの周りに激流が押し寄せているからだ。長引くコロナ禍の影響で、人々の閉塞感が深まり、寛容度が低下しているのかもしれない。

 女子大に講義に行っても、「わあ!みんなキュートで可愛いね!」とか、「今日は皆さん美人ばっかり!」なんていうことは、もはやご法度になった。日本航空は機内のアナウンスで「レイデイズ・アンド・ジェントルメン」というのを廃止して、「グッドモーニング、エブリワン」などの表現に変えた。アメリカの幼稚園では、「ハロー、ボーイズ・アンド・ガールズ」というのも「ハロー、エブリワン」などに代えるところも現れている。

 日本では、昨年行われたオリンピック・パラリンピックの関係者の発言が不適切と言うので、首になる人が続出した。森喜朗組織委員会会長の「女性が入った理事会は時間がかかる」などの発言がもとでの辞任、開会式の演出を統括する佐々木宏氏が出演者の女性の容姿を豚に例えようとして問題になり辞任、開閉会式のショー・ディレクターの小林賢太郎氏がホロコーストをコントに使った過去の発言で解任と事件が続いた。また、ツイッターなどネット上での誹謗中傷書き込みがあまりにひどく、侮辱罪を厳罰化しようとの法制審議会の最近の答申も報じられている。

 恐ろしい時代が来たなと思うのは、人工知能(AI)の普及に伴って「データの時代」が到来しつつあることを最近ひしひしと感じるからだ。これからは、私たちのありとあらゆる言動が、すべてデータとして蓄積され、即座に再現可能となってしまう。そうすると、あらゆる人の小学校時代からのいじめや暴言、差別的発言や暴力などが、すべて再生可能となって、現在の私たちの目の前に赤裸々に暴露されることが可能となる。これまでは、「ぼく、そんなこと言ったかなあ?昔のことでもう覚えていないよ、あはは」で済まされたことが、もはや済まされなくなってしまうのだ。特に政治家や著名人は、よほどの聖人君子か聖人淑女でない限り、夜も安心して眠れない時代になるだろう。証拠データをそろえた敵対者が、「あなたは30年前にこんなひどいことを言ったから許せない」と彼らを表舞台から引きずりおろすキャンセル・カルチュアの犠牲になる危険性が増すからだ。

 翻って、日本人は、聖徳太子の時代にさかのぼって礼儀を大事にしてきたし、戦国、江戸時代に日本を訪れた異国人の多くも、日本人は礼儀正しいとほめそやした。現在でも、日本人が礼儀正しいのは自他ともに認めるところだが、その日本人の伝統的な礼儀、マナーが、世の中のグローバル化とともにかなりの修正を迫られている。例えば、レセプションなどでの長いスピーチや乾杯音頭、騒がしい選挙カーや右翼街宣車、ホテルや旅館の堅苦しいルール、女性の地位の低さ、女性の化粧美への過度の関心と広告、おもてなしの押しつけ、外国人に閉鎖的な日本文化や芸能など、周りをよく見渡してみると、確かに日本だけで通用している「ガラパゴス」状況がたくさん目につく。
  
 マナーの基準をどこに置くかによって、見方は変わるだろう。私たちは、西欧やアメリカのマナーを国際基準ととらえがちだが、世界には互いに異なるマナーがたくさんあり、「郷に入っては郷に従え」のルールが一番良いのだという考えもありうる。しかし、鎖国時代ならいざ知らず、これだけ世界とつながりを深めた日本だから、新しくても筋が通っていて皆が納得できるようなマナーは受け入れざるを得ない。「筋が通っている」というのは、例えば、世界人権宣言とか、国際的な法やルールに合致しているということだ。だから、LGBTQや各種ハラスメント、BLMなどにも適切に対応をする必要があり、そうしないと世界中からの大きな批判にさらされることになる。

 劇変するマナー事情を目の当たりにして、私たち個人はどう対応したらいいのだろうか。監視カメラがどこにでも四六時中見張っており、「データの時代」が到来しているとなると、「物言えば唇寒し秋の風」とばかりに、沈黙と隠遁を決め込むのが一番安全なのかもしれない。しかし、よく考えてみれば、新しいマナーといえども、日本だけに限定しないで、歴史の荒波を乗り越えて築きあげられてきた世界のルールや常識で考えれば、人種や女性の差別、性的マイノリティーや障害者への偏見、ホロコーストの侮辱などがマナー違反というのは当たり前だ。

 新渡戸稲造は、彼の著作「武士道」の中で、礼儀とは、人が泣いているときにはともに泣き、人が喜んでいるときはともに喜ぶことと言っているが、このような他人への優しい思いやりがあれば、少々マナー違反はあろうとも、世界の人々の共感を得ることは可能だろう。要は、こざかしい作法ではなく、人の心の持ち方次第であろう。

(本稿は日本英語交流連盟のホームページへの寄稿文を若干修正のうえ、転載したものです。英文でご覧になりたい方は以下のサイトをご覧ください:https://www.kasumigasekikai.jp/)