東京オリンピックで思ったこと


全日本柔道連盟特別顧問、元駐デンマーク大使 小川郷太郎

前例なきオリンピック大会

 1年延期された上にコロナの感染状況は収束するどころか開催が近づいたその時を狙うかのように猖獗を極める中で実施された東京オリンピックは、例年以上の酷暑や台風にも襲われ異例ずくめの大会となった。菅首相は当初より「安心安全」の大会を標榜し、一時は東京オリンピック開催によって「人類がコロナに打ち勝った証にしたい」とまで述べて強い決意を示したが、結果的には大部分の競技は無観客での実施となり、各国選手や関係者の行動も「バブル方式」による厳しい管理を余儀なくされた。コロナ禍の中での開催に消極的な国内世論は過半数を超えた時期もあり、大会開催に異議を唱える人々は、オリンピック・パラリンピックは平和で安全な状況の中で行われるべきであるが今はそのような状況にないと主張し、無観客での競技にどれほどの意義があるのかと強い疑念を呈した。
 こうした未曾有の難局の中で17日間の日程を大きな破綻なく終了したのは信じられないほどの幸運な結果であった。大変な重圧の中で大会実現に粉骨砕身した関係者とその裏で選手や運営陣を支える無数のボランティア、医療・衛生関係者、宿泊・食事・輸送等に携わる人々が昼夜を問わず常に献身的に活動した事実を想うとき、我々はこれらすべての人々に深い感謝と敬意の気持ちを表明するばかりである。
 日本オリンピック委員会の山下泰裕会長から、閉会式を終えた直後に実に多くの各国・地域の選手や役員たちが困難な中で開催を実現した日本側に口々に深い感謝の気持ちが表明されたことを聞いた。予想以上に多くの人が感情をこめて言ってくれたそうで、それはオリンピックを夢みて全力を挙げて準備をしてきた選手たちからの出場が実現したことへの強い感謝の念だったようだ。選手の立場もいろいろあるが、不自由な状況でも大多数の参加選手が喜んでくれたことに救われる思いがする。
 
無観客のオリンピック開催の意義

 筆者は全日本柔道連盟の特別顧問を仰せつかっていることから、オリンピックに出場する日本の柔道選手たちを身近に見守ってきた。世界で最高のレベルにある日本の柔道選手にとって、世界選手権で優勝することより各階級に1名しか選ばれない日本のオリンピック代表に選ばれる方が難しいともいわれる状況の中で、何年かにわたりたゆまず奮闘努力してきた選手たちにとって1年延期の辛苦はいかばかりかと察するに余りある。柔道に限らないが、2020年7月を目指して最高の状態に仕上げた心身の強さを、1年後の開催さえ不確定なコロナ禍のなかでもう1年間維持して行くためには強じんな精神力が必要だ。万一2021年も不開催になった場合の選手の挫折感は想像を絶するほどであっただろう。
 筆者はこのような選手たちの気持ちを思い、オリンピックは万難を排して開催すべきとの立場を堅持してきたが、その後ある経験から、たとえ無観客となっても開催には大きな意義があることを確信するようになった。それは昨年12月、全日本柔道連盟が代表選手が決まっていない唯一の階級である66kg級の代表を決めるための阿部一二三と丸山城志郎両選手の一騎打ちの単独の公式試合を実施したときのことである。コロナ対策のため講道館で無観客で行われた異例の対決を私は目を凝らしてテレビ画面を見つめた。実力互角の世界トップの両選手の戦いは延長戦に入っても長く続いた。観客のいない静かな畳の上で、両選手の息づかいや畳を擦る足の音、倒れた時の勢いのある衝撃音が鮮烈に聞こえる。長い試合の中での組み手争いや技の攻防の卓越した技術と両選手の気迫がテレビの大写しの中で実に迫真力をもって伝わってきた。観客の声援の中で距離を置いてみる通常の観戦とは違う思いがけない効果を感じた。その直後に全柔連は4月から延期されていた全日本柔道選手権と女子の選手権である皇后杯を相次いで実施した。このときも講道館で無観客での実施であったが、阿部・丸山決戦と同様の感慨を覚えた。オリンピックが無観客となったとしても、世界の最高レベルの選手たちの素晴らしいパーフォーマンスとその競い合いはテレビやYouTubeを通じて関心をもつ世界中の人々が仔細に観戦できるであろう、試合後の各国選手間の交歓や友情もテレビに映し出されるであろう。だから、この形でもオリンピックの価値は十分発揮できるであろうと確信するようになった。オリンピック期間中、連日多くの競技をテレビで観戦したが、あの時の確信は間違っていなかったと思う。

東京五輪が残した成果と課題

 東京大会の多難さをみると、パリ大会以降は感染症や温暖化などの災害がない平和で安全な環境下で実施されることを切に願うものである。ともあれ、多難な状況下に異例の形で実施された今回のオリンピックから、いくつかの教訓や今後の課題を汲みとることができる。

(1)「多様性と調和」
 最近の日本では「ダイバーシティとインクルージョン」などの言葉が使われるようになった。「多様性と調和」をビジョンの一つに掲げた今回のオリンピックではジェンダー平等、人種や性的多様性などを尊重する取り組みが行われ、実際にも人種的背景を異にする日本人選手の活躍やトランスジェンダー選手の出場などで新たな感動や気付きを味わった人も少なくなかったと想う。1964年の東京オリンピックはその後の日本の経済発展への大きな契機となったが、今回オリンピックのあとに行われるパラリンピックと相まって日本人の多様性への認識や尊重の念が深まって行くことになれば日本にとっての一つの遺産(レガシー)となるかも知れない。

(2)簡素化
 ロンドン大会や北京大会の開会式の華麗さは印象的で未だに記憶に残るが、近年オリンピック大会が壮大で華美になる傾向が見られる。しかし、絢爛豪華さの覇を競うかのような傾向は開催国や開催都市の財政的負担を増大させることから、開催地として立候補する都市や国が減少しつつある。思うに、表面的な華麗さはオリンピズムにとって不可欠の要素ではない。TOKYO2020は、コロナ禍の中で開閉会式や大部分の競技を無観客にしたり入場する関係者数を極力減らすなど前例のない簡素化や合理化の措置を実施した。今回の開会式は、時間的に長過ぎたきらいはあったものの、控えめな雰囲気の中で日本の文化や伝統、自然災害に対する日本人の耐性などへの誇りが表現され、テレビを通じて全世界に発信された。東京大会の方式は今後に引き継がれる訳ではないが、今回の経験を契機に、批判も浴びるようになった華美なオリンピックの式典や競技を簡素化し経費節減をはかる方策等について国際的にしっかりした議論が開始されることが切に望まれる。

(3)メダル至上主義と参加環境の衡平性
 オリンピックやパラリンピックは選手個人にとっては自己啓発の、国家にとっては国民の体育強化や国威発揚のまたとない機会である。それを目指して精進し競い合うことは、スポーツの質を高め、競い合いを通じて国際的平和に貢献する点で健全なことでもあるが、その成果の象徴でもあるメダルにこだわり過ぎると弊害も生じる。近年、国威発揚の見地から、政府が多数のメダル獲得を目指してあたかも国のビジネスでもあるかのように多額の予算を充当する傾向が見られる。問題はそうした財力を持てる国と持たざる国の間に格差が生じることである。選手を育成する環境を提供できない国の優秀な選手が自分の国籍を捨ててより豊かな国の支援を求めて国籍変更をする例も見られるようになった。国際オリンピック委員会(IOC)や国際競技連盟は途上国の選手の参加機会の拡大にも務めているが、さらに努力を拡大するべきである。
 因みに、日本政府も東京オリンピック・パラリンピックを念頭に有望種目での選手強化のための予算を拡充してきた。その成果もあって、今回日本選手がオリンピックで獲得したメダル数は史上最多となった。それ自体喜ぶべきことではあるが、メダル獲得数に過度にこだわるのは好ましくない。世界的なコロナ禍のため、各国間の参加環境や選手たちにとって日本に入国してから競技までの期間の練習環境の格差は大きかったので、日本は今回のメダル獲得数は控えめに誇ることが良い。

(4)「夏の大会」開催時期の問題
 東京五輪は7月23日から8月8日まで行われた。アジアモンスーン域に属する日本でも最も暑い時期である。日本の開催関係者はマラソンと競歩の場所を東京から札幌に変更するなど様々な暑さ対策に多くの努力をした。今年は運悪く暑さと湿度が例年以上で、しかも札幌も東京とさほど変わらない気候となったため、男子マラソンでは暑さや湿度のため約30名の選手が途中で棄権をするほどの結果となった。1964年の東京オリンピックは気候の良い10月に行われた。「夏季オリンピック」として7月から8月に開催されるようになったのは、オリンピックの主要スポンサーであるアメリカのメディアが秋に行われるアメリカの野球やフットボールのシーズンとオリンピック開催時期が重ならないようにするためだとされている。
 近年気候変動の影響が高まり、世界各地でも大雨・洪水や旱魃の被害が顕著に増大している。オリンピック開催時期を「アスリート・ファースト」の見地から再検討すべく、IOCが自らイニシアチブを取り、大会経費の節減やより衡平な分担方法等の問題を含めて国際的に真剣に議論することが望まれる。
(2021年8月20日記)