前田隆平氏著『地平線に』(幻冬舎、2019年)

元駐ロシア大使 枝村純郎

 

 この本を霞関会事務局から入手してまず驚いたのは、それが700ページを超す大作であるのに、その内容が極めて充実しており、それでいて読みやすいことでした。

 旧制中学校を卒業して家業の手伝いをしていた主人公の杉井謙一は昭和14年入営しますが、甲種幹部候補生試験に合格して見習士官となり陸軍砲兵将校となります。その間に各種の訓練を受ける状況が一々詳細に記述されていますが、それが読みやすいのです。砲撃用の観測器である砲対鏡の設置の面倒な手順などもさらさらと読めました。

 やがて、杉井の部隊は昭和14年7月に中支(中国中部)に派遣されます。武漢はすでに前年10月に日本軍に占領されていたので、杉井の部隊はその南の地帯で行動します。泥濘のなか重砲を引っ張りながらの渡河など、活動の詳細も実に生き生きと描かれています。

 昭和7年生まれの筆者は、子供のころから多くの戦記物を読んできました。火野葦平の「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作なども読みました。しかし、このほど本書を読んではじめて「支那事変」の実相を知り得たように感じています。

 なお、全編を通じて、幼友達の佐知子という女性からの慰問の手紙の全文が折々に挿入されているのが効果的で一息つかせてくれます。

 本書は終戦まで中支の戦線に派遣されていた著者の父上が、その経験を「砲音(つつおと)」という叙事的な本にまとめておられたのを、著者が小説の形に書き直されたものだそうです。父上もそのことをたいそう喜んでおられる由にて何よりの御孝養です。

 本書が多くの人に読まれることを願っております。