余談雑談(第159回)明治維新と大化改新の英語訳

元駐タイ大使 恩田 宗

 明治維新は和英辞典にMeiji Restorationとある。維新は一新・刷新を意味するが英訳は復旧である。明治が王政復古の大号令でスタートしており誤訳とは言えない。しかし維新は徳川から天皇へと統治権を旧に復しただけのことではなかった。多くの歴史的事変と同様に事の勢いで当事者が考えてもいなかった処まで進んでしまった。①封建制を中央集権の郡県制に改め(廃藩置県)②世襲階級制と支配層の特権を廃し(四民平等と秩禄処分)③西洋に習い社会や文化を近代化した(文明開化)。現代日本語で言えば革命だった。ただ当時は近代的歴史観に基づく革命という語が日本語になかったのである。

 維新の志士(全国で900人位いたという)は当初尊皇攘夷の一本槍だった。固定不変の体制下で思考力が硬直し倒幕までは考えが到らなかったのである。攘夷思想は封建制が疲弊し変革への気運が生じていた処へ黒船が来航し外国人の居住・往来が始まり物価が高騰し庶民の困窮をもたらしたことへのナショナリズムの反発として急速に広まった。外への窓口に近い西南諸藩では日本の独立さえ脅かされかねないと感じていた。久留米藩の神官真木和泉は妻への手紙で「夷どもの国になり候わばいきて甲斐なくわしの一族は皆死ぬよりほかの事は御座な」などと説いている。

 徳川を見限り倒幕を考えるようになったのは西郷隆盛でさえ明治になる僅か三年前だったという。その後をどうするかの具体策は無く他の志士達も同じだった。新国家の政体も外国人からの示唆に押され案出されることになる。維新の一年前英国公使館のE・サトーが横浜の英字紙に、将軍は条約を全国で施行できない、諸大名と交易するには権力を天皇の下の大名連合に与えそこと締結するしかない、と投稿した。この和訳文が出回り幕政を廃止し諸侯の合議による国策決定を求めるなど変革への動きを誘発した。

 サトーが政治改革を示唆するような事を書くに至った切っ掛けの一つは将軍の敬称問題で、マジェスティーはビクトリア女王と同格の人物に使うべきで日本ではミカドである、将軍はハイネスでミカドの下の諸侯と同じでよい、と考えたからだという。外国語に直すと対象の本質が明らかになることがある。

 大化の改新はTaika Reformとある。これも誤訳ではない。しかし強大化した蘇我氏の族長を暗殺し古い豪族連合国家を唐風にモダナイズした律令国家へと脱皮させ花咲く奈良時代に導いた日本史上明治維新に並ぶ大事変だった。リフォームでは柔らか過ぎる。露骨に、つまり明晰に、ものを言わないのが日本の倣いであるが維新・改新では誤解を招く。

(本稿は一般社団法人霞関会会報2023年3月号に掲載されたものです。)