余談雑談(第158回)英雄の評価

元駐タイ大使 恩田 宗

 始皇帝の兵馬俑の万を数える実物大の土偶兵士は顔付きが実在人物を模したかの如く皆異なるという。佐藤京都芸術大学学長によるとその造形技術も超絶的に秀逸らしい。膨大な数の人民を動員し分担して作らせたに違いないが如何にしてあの様に整然とした軍団に仕上げ得たのだろうか。同学長はあれはあの時代に「忽然と(生じた)土偶史上の大異変(で)…アレキサンダーにも比すべきたぐい希な権力者始皇帝の存在そのものが大きく働いて」いたからであろう、と言う。

 アレキサンダー大王と始皇帝はそれぞれ紀元前四及び三世紀にユーラシアの西と東で歴史を変える偉業を成し遂げた。王は二十代の十年でインダス川以西を征服し東西文化の交流を始動させた。三十一で病死したが欧州文明の源のヘレニズムやガンダーラの仏像は彼の遺産である。始皇帝は七ヵ国が乱立・抗争していた中華全域を平定し文字・通貨・度量衡や道路・車両の巾まで厳しく統一した。彼なくして中国は広さの似たヨーロッパ同様複数国の競合する処になっただろうと言われている。あの広大な中国大陸が二千余年の間ほぼ一つの国であり続けたのは始皇帝の功業に帰せられる。彼は長城や道路などを整備するとともに匈奴・鮮卑・百越などの周辺民族を攻略し多民族国家中国の原型も創った。

 アレキサンダーは常に騎馬軍団の先頭に立ち真っ先に敵陣に突入し範を示した。満身創痍になったが最大のリスクは自から担うと全兵士に知らしめた。数万のギリシャ兵が異郷での辛い行軍と戦闘に十年もの間彼につき従ったのはその卓越した統率力による。始皇帝は中央集権で増える政務の処理に才人の宰相李斯を用い戦争には有能な蒙将軍を使った。治政の後半は二年一回計五回領内を巡行し国情把握に努めた。不老不死の仙薬探しでもあったらしいが結果として末端の人民にまで「皇帝」というものの存在を知らしめた。重々しく警護された六頭立ての乗輿に乗り大帝国秦の支配者の勢威を誇示した。

 アレキサンダーは若く傲慢短気で過剰な破壊・殺戮・略奪をした。酒を好み毎夜の酒宴では泥酔し激昂すると親友や親譲りの重臣を殺してもいる。それを非難する論者もいるが後世一般は彼を賛美崇拝しハンニバルやスキピオは史上最高の名将と崇めローマ皇帝は彼を模範とし中世には彼のロマンは聖書に次いで広く読まれた。始皇帝は「朝起き夜寝る迄」真面目に働いた(泰山刻石)。しかし百年後の史記が載せた「恩愛の情に乏しく虎狼の如き心にして…共に久しく遊ぶべからず」との説が広まり非情残酷な専政君主だと思われてきた。人の評価に後世は公平ではない。
 (本稿は一般社団法人霞関会会報2023年2月号に掲載されたものです。)