余談雑談(第157回)日中関係

元駐タイ大使 恩田宗

 中国は米国と覇を争う強大国になり強気の習近平が今後十年は独裁する態勢にある。日本の同盟国米国は事によっては戦争も辞さぬ覚悟でこれに対峙して行くつもりである。しかし戦争になれば戦域となる日本は勝っても負けても元も子もなく破壊される。この点で米国と国益を異にする。日本は中国が戦争になるような事をしないよう何としてでも図る必要がある。  

 中国の記録に周の時代(紀元前1000年前後、縄文後期~弥生前期)に倭人が薬草を、越人が白い雉を、献じたとあるという。日本列島の住民は国を作る前から中国の支配者を宗主とする東アジアの政治秩序に組み込まれていた。海のお陰で直接の支配は免れたが九州の豪族は朝貢し倭人と呼ばれていたらしい。三世紀には邪馬台国の女王壱(い)与(よ)(卑弥呼の後継者)が晋に生口30人・青大勾珠二枚・白珠五千点を献上している。青大勾珠は巨大な翡翠の勾玉(まがたま)で白珠は真珠である。寛大なお返しを期待してのことだとしても皇帝を喜ばせたいと女王以下懸命だったのではないか。   

 五世紀の大和朝廷は南宋に冊封され倭王武(雄略天皇)は安東大将軍の爵位を授かった。聖徳太子は形を対等にと「日出処の天子」と書き隋の煬帝を怒らせた。その約五十年後の孝徳天皇は日本書紀によると「西海使(にしのみちのつかひ)吉士(きちし)長丹(のながに)(が)唐(もろ)国(こし)の天子(みかど)(から)多(さわ)に文書(ふみ)・宝物(たからもの)得たるを褒美(ほ)め」三階級特進の冠位を与えたという。桓武天皇も唐文化導入に貢献した吉備真備を「往学(ゆきてまなびて)盈帰(みちてかえる)」と称えている。唐との関係はそんなだった。遣唐使の派遣は平安時代に止めたが唐宋文化は受容し続け朝廷の礼服や儀式も唐風化した。元は日本が朝貢しないことを不満とし侵攻を二度試み、明は足利義満を日本国王に冊封し勘合貿易の巨大な利を得させた。徳川幕府は中国の世界秩序の一部になることは拒否したが民間貿易による文物の輸入を続けた。 

 日本は長い間中国からものを教わり文物を輸入してきた。逆転したのは明治になってからで思い上がり中国を侵略し破壊し苦しめた。これからは、理想を言えば、日中で協力して東アジアを平和で繁栄する地域に育てたいものである。ただ、中国は漢・蒙・チベット・ウイグル等諸民族の複合国家で実質は清帝国のまま(皇帝が共産党に変わっただけ)であるため何れは融解せざるを得ない。E・ボーゲルは「日中関係史」に日本の中国侵略は中国人の心を深く傷つけた、信頼し合う親友になれるのは数十年先でとりあえずは率直に信用して付き合える良好でビジネスライクな関係を保つよう努めるべきだ、と書いている。とりあえずはそういうことだと思う。 

(本稿は一般社団法人 霞関会会報2023年1月号に掲載されたものです。)