余談雑談(第152回)インダス文明

  元駐タイ大使 恩田 宗  

 古代四大文明の中でインダス文明は影が薄い。エジプト文明のピラミッドやツタンカーメンの黄金マスク、メソポタミヤ文明のバビロンの紺色タイルのイシュタル門や楔形文字のハンムラビ法典、中国文明の殷周の精巧な青銅器や殺された無数の殉死者に囲まれた王の墓、の様に印象に残るものがないからである。

 インダス文明が遺しているのは千五百余の都市遺構である。大小の道路と煉瓦造りの排水溝を碁盤目に張り巡らせ住居を頑丈に造りトイレは排水溝に繋げている。沐浴場など公共施設は城塞に集めている。他の古代文明には見られない先進的な都市であるがその遺構の与える印象はピラミッドなどには劣る。宮殿址がなく聖職者か有力市民が治めていたのではないかという。帝王が好む派手な構築物の遺構や財宝が出土しないのはその為である。古代文明学者M・ウイーラーは文明の最小限の意味は都市に住む生活技術だと書いている。インダス文明は遺構は地味であるが文明の基礎技術では他に遙かに優っていた。

 文明も滅亡は免れない。エジプトとメソポタミヤの文明は滅亡後はギリシャ・ローマを介し西欧文明の源となり、殷周文明は後代の中国の諸帝国に引き継がれた。インダス文明は千年で衰滅し、沐浴の習慣や牡牛崇拝など後のヒンズー文明に血脈が細く続いてはいるものの歴史から完全に忘れ去られた。20世紀の初頭に鉄道工事をしていた際偶然発見され世界の注目を集めたが、その遺跡の発掘調査は最大の都市モへンジョダロでもまだ15%程度に留まり文字も未解読だという。それも影が薄い理由である。

 ハンチントンの分類による現存の八文明(中華、日本、ヒンズー、回教、ロシア正教、西欧、アフリカ、ラ米)のうち当面滅亡が危惧されるのはロシア正教と日本の文明である。前者は文明を支える主要二国間の戦争が長引けば荒廃と分裂により破滅を招く。後者は文明を支える唯一の国日本の西欧文明への同化がこのまま進めば他文明への融合による消滅に到る。

 日本の今の政治家は抽象的概念やカタカナ語を使い明快に分りやすく話す。曖昧で含み多い話し方をした彼等の先輩達より西欧の政治家に近くなった。昨年春のAPEC会議では日本の大臣はロシアの閣僚の演説中に欧米の代表と共に席を立ち退場した。日本の伝統では公の場であからさまに恥をかかせたり名指しの非難をしても問題の解決にならず品格にも欠けると考えてきたが、近年はグローバル化と価値観の共有ということで欧米人と変わらぬ考え方・話し方・行動をするようになった。西洋諸国の様になりたいとの明治の文明開化以来の望み通りになった訳であるが、当然の事として独自性を失いつつある。日本は強大な中華文明から多くを学び強く影響されたがそれに飲込まれず単独で別個の文明を育ててきた。今度は難しいのではないか。