ベトナム援助再開秘史


元外務審議官;元ユネスコ事務局長 松浦晃一郎


元南東アジア第一課長;元国連事務総長特別代表、国連事務次長 山本忠通

 日越関係は、我が国の東南アジアの国々との関係の中でも政治的に極めて重要なものになっている。また経済関係、就中ビジネス関係は群を抜いている。貿易でも、輸出入でそれぞれベトナムにとって第三位であり、ベトナムへの外国投資では、2013年に韓国に一位の座を譲ったものの長い間日本のものが最大であった。東南アジアの日本商工会議所の会員数でも、ベトナムが最も多い。わが国の政府開発援助供与先は、年毎に若干上下があるが、過去5年間の累積で見るとインドに次いで二番目である。
 日越経済関係は、両国にとってかけがえのない重要なものになっている。しかし、今や当然のこととして毎年行われている大規模な対越援助も、1992年の援助再開に至る道は平坦なものではなかった。当時、松浦は、外務審議官として、ベトナム及び米国両政府との最終段階の困難な交渉を取り仕切った。山本は、南東アジア第一課長としてこのプロセスに携わった。経済協力再開の主要な努力は、当時の経済協力局が主導していた。この稿をまめるに当たっては、多くの方々の話を伺った。中でも、当時のベトナム駐箚の湯下博之大使、当時の経済協力局長の川上隆朗氏、経済協力局で本件を担当されていた尾池厚之現UNESCO大使、当時の外務大臣渡辺美智雄氏の秘書官であった斎藤泰雄氏、当時の南東アジア第一課の宮島昭夫現ポーランド大使、相星孝一現韓国大使、鈴木秀夫現チェコ大使のご協力がなければ、本稿をまとめることが出来なかった。ここに改めて感謝の意を表したい。

1.ベトナム戦争終結後の対越援助
 日本は、1959年にベトナム政府に対する賠償協定に基づき、ベトナム共和国(南ベトナム)に対し約200億円の援助を行った。そして、ベトナム戦争終結後の1975年には、これとは別にベトナム民主共和国(北ベトナム)に対し85億円の無償援助を提供した。1976年に統一されたベトナムへの援助供与額はその後増え、1979年度分としては、無償100億円、有償50億円が約束されていた。しかし、78年12月25日、ベトナムは、クメール・ルージュの侵攻に対する自衛権の名のもとにカンボジアに侵攻し、翌年1月7日にはプノンペンを陥落させ、ヘンサムリン政権が樹立された。この侵攻は、米、中を始めとし、ベトナムの後ろ盾であった(当時の)ソ連を除く国際社会の大勢に非難された。国連では、安保理においてはソ連の拒否権行使により決議は成立しなかったが、米中は、舞台を総会へと移し、そこで、ベトナムのカンボジア侵攻は侵略(Invasion)と表現された。米政府は、既に、ベトナム共和国が崩壊した1975年にベトナムの在米資産の凍結を含む経済制裁を北ベトナムからベトナム全土に拡大し、1976年には、あらゆる種類の援助を禁止する法的措置を取っていた。(日本は、同年50億円の無償資金供与を行った。)また、米議会も1977年には、米政府に対し、いかなる形であれ、ベトナムに対する賠償、援助その他あらゆる支払いについて交渉を禁止していた。そこに、ベトナムのカンボジア侵攻を受け、米国政府は、ベトナムに対する全面的禁輸措置を取った。このような展開の中、日本政府は、1980年2月、経済協力の凍結をベトナム政府に通告するに至った。(ただし、医療、災害復旧などの人道支援や一部の文化協力は例外とされた。)

2.対ベトナム援助再開への動き
 ベトナムは、戦争で荒廃した国土を復旧するための西側諸国からの援助は得られない中、外国からの支援はソ連をはじめとするコメコン諸国からのものしかあてにできなかった。不十分だった。そこに計画経済の行き詰りもあり、経済は停滞した。インフレも進み、1985年には、100%を超えた。この事態を打開すべく、1986年末ベトナム政府は、政治体制は維持しながらも、市場経済化を目指すドイモイ(刷新)政策を導入した。ベトナムは、東南アジア諸国の中でも、その勤勉さ、人口、そして教育水準の高さなどから、発展の可能性が注目されてきており、ドイモイ政策の導入は、我が国を含むベトナムに注目する経済関係者からは歓迎の目で迎えられた。しかし、西側の援助は依然閉ざされたままであった。
 1989年になると7月31日から8月30日、カンボジア和平のための第一回パリ会議が開かれた。成果には至らなかったが、この会議の後、ベトナムは、89年9月21日から26日にかけて兵を全面的にカンボジアから引き上げた。1991年10月には、第二回パリ会議が開催され、23日には、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」が成立した。
 こうして、日本のベトナム援助を妨げた直接的原因となった、カンボジア紛争が政治的解決を得たことは、我が国から見てベトナム援助再開協議開始に対する根本的障害がなくなったことを意味した。
 更に、1991年当時の日本政府の東南アジア外交は80年に日本が援助を停止した時に比べて積極的なものになっていた。1977年の福田ドクトリンに始まり、日本は、経済成長に伴い、対外援助でも大きく伸び、且つその相手は、東南アジアが主流であった。更に政治的にも重みを増してきていた。カンボジア和平に向けての日本の努力は国際的にも認められ、関係主要国の一つとなっていた。ベトナムの和平会議が1975年にパリで開催された時は招かれることはなかったが、89年と91年のカンボジア和平会議においては大事な役割を果たした。日本にとって、福田ドクトリンの趣旨にのっとり、東南アジアの発展を支援し、これらの国々と強固な関係を築き上げていく上で、人口面だけを見ても東南アジア第三番目で、発展のポテンシャルの大きいベトナムとの関係を築いていくことは重要な課題であった。

3.援助再開への具体的動きの始まり
 湯下博之大使は、1991年初に越大使への内示を受けた。赴任を控え、湯下大使は、川上経済協力局長と対越援助再開に向けて話しをした。カンボジア和平が成れば、ODA再開へ向けて動くことで両者の考えは一致していた。既にカンボジア問題の解決へ向けては、各国が真剣な努力を始めていた。
 しかし、カンボジア問題が解決してもハードルは残っていた。一つは、ベトナム自身との関係であり、他は、ベトナムに対して制裁を科していた米国との関係であった。

4.ベトナムとの関係
 当時のベトナムからすれば、日本からの援助は喉から手が出るほど欲しかったはずである。しかし、ベトナム側は当初慎重な姿勢を示してきた。一つには、89年にベトナムがカンボジアから撤兵すれば、日本からの援助が再開するとの期待が高まったにも拘らず、実際には実現せず、日本の対応に懐疑的になっていたからだともいわれている。現に、湯下大使が91年に着任すると、グエン・コータック外務大臣は、「世界中がベトナムとの関係改善に動いている中、三つだけ動かない国がある。米国、中国、そして日本だ。日本は、何故対米追随外交や対中配慮外交をやめて、ベトナムとの関係を改善しようとしないのか。」と不信感を顕わにした由である。湯下大使は、「日本は、カンボジア問題が解決すれば動く。越がこの問題解決に動かないのはおかしい。越の為にも動くべきである。」と切り返している。ここに当時のベトナムが、米国の同盟国である日本に対して有していたベトナム戦争の後遺症とも言える不信感を見て取ることが出来る。
 しかし、問題は、政治的考慮だけではなかった。越には、日本が援助を停止する前の円借款を延滞利子も含め返済する義務があった。1991年10月のカンボジアに関するパリ会合に出席していた中山太郎外務大臣は、ベトナムのグエン・コータック外相と会談した。二人は、ODA再開の準備のための会合を行うことで合意した。同年11月、石橋有償協力課長が、静かにベトナムを訪問した。円借款の返済について話し合う為であった。ベトナム側は、「そもそも、日本側が勝手に協力を止めたのであり、従って越としても返済しなかった。ましてや、延滞金は払わない」との立場を明確にした。年明けて1992年1月早々、川上経済協力局長が、団長となって関係省庁の担当者も含め、交渉団がベトナムを訪問した。交渉団の訪問は、NHKの密着取材が行われるなど日本でもメディアの強い関心を惹いた。交渉団は、日本ベトナム議員連盟の会長をしている渡辺外務大臣からファン・ヴァン・カイ経済担当副首相あての書簡を携え、ヴ―・コアン外務副大臣と援助再開のための交渉を行った。交渉団は、ホーチミン市に2日滞在後、1月14日にハノイ着、同日直ちにヴー・コアン外務副大臣との会合を開始、夜は先方主催の夕食会に臨んだ。これを皮切りに、翌15日には、ファン・ヴァン・カイ第一副首相表敬、グェン・マイン・カム外相、ホアン・タイ財務相、サム国家計画委員長等、越側関係閣僚との会談を行なった。そして夕刻には、川上団長とヴー・コアン副大臣との「テタテ」会談がセットされ、これが結果的に交渉団同士の言わば締めの会合となった。
 日本側交渉団が先方に伝えたメッセージは明確で、「日本は本気で援助を再開する。しかし、その為には、延滞利子を含め返済してもらわなければならない。この未返済借款問題が片付けば、毎年援助は継続して行われる。」というものであったが、先方の態度は、当初より終始友好的であり、今回は先方も日本側提案を真剣に受け止める用意があるのでは、との感触は得られていた。そして、このことは、前記ヴー・コアン副大臣との「テタテ」でも双方交渉責任者間ではっきり確認できた。翌々日17日、代表団はハイフォン視察に赴いたが、夕刻開かれた越側本件最高責任者であるファン・ヴァン・カイ第一副首相との少人数最終会合で、日側提案に基づき、どのような手順で進めていくかについての合意が確認された。
 しかし、ベトナムに返済能力はなかった。従って、課題は、どうやってベトナムに返済資金を作るかであった。民間でブリッジ・ローンを組む案が採用されることになった。細かいことは機微に及ぶので省略するが、当初は、商社がローンを組む案が出ていたが、最終的には、銀行の組むブリッジ・ローンで行うこととなった。国内の調整とベトナム側と延滞利子を含む債権額を確定する為の事務レベルでの話し合いが行われ、具体的な方法についての基本的な考え方がまとまったのは夏前で、それを踏まえてベトナム側と8月頃に債務返済と援助再開について交渉する必要が出てきた。

5.米国との関係
 対越支援再開は、ベトナムとの話し合いだけで行えるものではなかった。米国は、対越制裁を科していた。同盟国である日本は、米国政府の立場を無視はできない。早くも、1991年初、発令前の湯下大使は、日本政府の考えを説明すべく訪米した。訪米直前に会った駐日大使からは、国務省に加え、国防省で国際問題担当次官補として日本をも担当していたアーミテッジ氏に会うことを勧められた。ベトナム戦争にも従軍したアーミテッジ氏は、グエン・コータック外務大臣と話したこともあり、ベトナムとの交渉のやり方について助言してくれた。当時、米国も対越関係正常化のための話し合いを始めることを模索していた。
 1992年の夏には、ベトナムとの間で対越援助再開の見通しが出来つつあったことから、当時南東アジア一課長だった山本は、米政府に内々説明するとの使命を帯びて訪米した。7月であった。国務省では、担当部長レベルと会い説明した。湯下大使の場合同様、アーミテッジ氏にも会った。アーミテッジ氏は、それまでの日本をも所掌する国防次官補の職を離れていたが、ブッシュ大統領に任命されてNIS(旧ソ連から独立した国々)支援担当大使の職にあった。同大使は、日本が援助を再開すること自体には理解を示した。しかし、彼は続けてこう言った。「今年は、米国大統領選挙の年である。現職のブッシュ大統領は、民主党のクリントン候補に加え、第三党から保守のペロー候補の出馬があるため、厳しい戦いを強いられている。このような中で、退役軍人団体の票の行方は大事である。ベトナムとの間では、行方不明米兵問題を抱えており、彼等のベトナムに対する見方は厳しい。同盟国である日本が大統領選挙の直前に援助を行うと、ブッシュ大統領としても厳しい対応を余儀なくされる。大統領選挙が終わるまで待つことはできないか検討して頂きたい。」
 宮沢総理からも、援助再開実施に当たっては、米国とは、よく相談するようにとの指示がおりていた。

6.ベトナム及び米国との最終的合意の成立
 1992年8月に次官室で会合が開かれ、今後いかにしてベトナムと最終合意に達するようについて打ち合わせが行われた。その席上、小和田次官より松浦外務審議官に対しできるだけ早くベトナムを訪問し、日本の対ベトナム援助再開に向けての必要なベトナムの円借款返済滞納額(その間の延滞利子を含む)の返済について最終合意を得るようにしてもらいたい、また、現在米国は秋の大統領選挙に向けて内政上機微な状況にあるので、米国に対しても合意が成立すれば内々によく説明する必要がある旨指示した。松浦は、日越議員連盟の会長でもある渡辺外務大臣によるヴォー・ヴァン・キエット首相宛の親書をもらって直ちにハノイに向かった。経済協力局の円借款担当の尾池課長補佐(当時)が同行した。今回の松浦のベトナム訪問については対外発表は一切行わず、内密の訪問とすることになった。
 松浦外務審議官(Deputy Minister)は、従来から日本側との交渉の窓口になっているヴー・コアン外務副大臣(Deputy Minister)と会談したが(尾池課長補佐同席)、その冒頭、渡辺外務大臣からヴォー・ヴァン・キエット首相宛の親書を手交した。交渉では、日本側が新たに準備してきた提案(まずベトナム側が日本の銀行から455億円の借り入れをし、それを使って日本政府に対し円借款返済滞納額の支払をする、日本側は直ちに同額の商品借款を提供し、ベトナム側はそれらの商品を売って455億円を日本の銀行に返済する、その後日本側は対ベトナム円借款を定期的に供与する)を詳細に説明した。更に日本の円借款によりベトナムのインフラ整備・拡充を進めれば、投資環境が大幅に改善されるので、日本からの投資のみならず他の国からの投資も増え、ベトナムの経済発展を促進するだろうと強調した。しかしながらヴー・コアン外務副大臣は、前から説明しているようにベトナムが延滞利子を含めた対日負債を返済することに応じることはできないとの従来の態度を崩さなかった。1992年1月の川上ミッション・ベトナム訪問及びその後の両国間の接触で日本ベトナム間の相互理解が深まり、困難な交渉を経ずして合意に達すると松浦は予期していただけに、ベトナム側が川上ミッション・ベトナム訪問前のような厳しい対日姿勢をとっていることに驚いた。その背後には、カンボジア和平の為のパリ合意には同意したものの、米国に対する大きな不信感がまだまだ残っており、米国の同盟国である日本に対しても同様で、日本側の説明の複雑な手順が順調にいくのかに疑問を持っていることが明らかだった。また、さらに仮にそのような手順が踏まれたとしても、その後日本が、ベトナム側が強く希望している本格的な対ベトナム援助を再開してくれるのかどうかについても引き続き不審の念を持っているのが感じられた。
 第一回目の会合は、そんな次第で平行線を辿ったままであったが、もう一度会合し協議を続けることにした。松浦はちょっと間を置いてヴー・コアン外務副大臣と二回目の会合を持った。しかしながら二回目の会合も一回目の会合と同じように全くの平行線のままになった。松浦としては、1992年に入ってからのベトナム側との折衝の経緯を踏まえると、ベトナム側が日本の対越援助再開に対し大きな期待を持っていることは明らかなのに、どうしてこのように引き続き強固な対日不信感を持ち続けられるのか合点がいかなかった。しかし、両者の間でもう一度間を置いて三度目の会合を持とうということが合意された(注)。 
 松浦は、「三度目の交渉をし、ダメだったら帰国しよう」と尾池課長補佐に漏らしていたところ、三度目の交渉はベトナム側から急にキャンセルされた。帰国の飛行機は、その日の午後二時発を予約した。
 ところが、今度はファン・ヴァン・カイ副首相が急に会いたいと言ってきた。会いに赴くと、ファン・ヴァン・カイ副首相がニコニコしていた。同副首相は、「ヴ―・コアンから話は聞いた。ベトナム側からから見ると日本が信用できないように映っているのは判って頂けると思う。しかし、日本の立場は、理解した。11月の米国大統領選挙後に援助を再開してくれるというのなら、今のままの条件で受け入れ、待つことにする。」と述べた。しかし、ベトナム側は新たな要求を加えてきた。すなわち最初の援助は、延滞債務の解消の455億円だとしても、ベトナムを日本の年次協議の制度に乗せて、初年度の分を二年分、即ち1000億円にして欲しい、と要求してきた。日本の円借款の総額は具体的なプロジェクトを積み上げて決めるものであるから、現段階で具体的な額を決めることはできないととりあえず反論したが、この機会にベトナム側と今後の手順について最終的な合意を作る必要があるので、松浦は本省と電話で掛け合った。協議の末、具体的なプロジェクトが本当に積み上がることを条件に、ベトナム側の新たな要求を受け入れることとした。
 松浦は帰国後小和田事務次官と打合せの上、ワシントンに飛んでG7サミットのシェルパ仲間であるゼーリック国務次官(経済担当)に対しベトナムとの厳しい交渉経緯及び最終合意の内容を詳細に伝え、同時に「新たな商品借款供与の決定を行うのは米国側の懸念を踏まえ11月の米国大統領選挙後にする。したがって、米国側としては今回の日越合意を歓迎することはできないのは承知しているが、これを批判するような対外発表は行わないでほしい」と申し入れた。これに対しゼーリック国務次官は、従来の日本側のアーミテッジ氏への説明については、全く報告を受けていなかった様子で、日越間で最終合意ができたことに大きな驚きを示しながらも「日本側の説明は了とする。現段階では米国側としてそのような合意を歓迎するわけにはいかないが、対外的にこれを批判するような発言はしないことにする」と答えてくれた。

7.対越援助の再開
 しかし、ドラマはこれで終わらなかった。加藤紘一官房長官が、待ったをかけてきた。外務省関係者が会おうとしても、面会の約束が取り付けられない状況であった。そういう中で、11月に入って対ベトナム商品借款455億円供与の合意文書を次官会議にかける日が迫ってくる中のある日の早朝、小和田事務次官の指示で松浦が官邸に駆け付け、官房長官が朝食会から出てくるところを捕まえて、ベトナムとの最終合意の内容とゼーリック国務次官に対する説明と同氏の反応を詳しく説明したところ、官房長官はそのような状況なら了解すると答えてくれた。次いで渡辺外務大臣が、その日の衆院本会議終了直後、加藤官房長官に話をし、最終的な了承を取り付けた。次官会議の議題に乗せる議題の締め切りは開始の一時間前であり、ぎりぎりのタイミングであった。
 ベトナムへの商品借款供与は、次官会議を経て米国大統領選挙が行われた11月3日に閣議決定された。6日には、ハノイで交換公文が交わされ、対越援助が再開された 。翌1993年3月には、ヴォー・ヴァン・キエット首相が日本を公式訪問した。
 プロジェクト援助を中心とする対越円借款は、1993年度は約500億円、1994年度は約600億円、1995年度は、約700億円、1996年度は約800億円、1997、1998年度は約900億円、1999年度は約1000億円と急速に伸びていった。

(注)1993年6月松浦が外務審議官として議長を務める国際的なシンポジウムが伊豆半島で開かれることになったので、そこにヴー・コアン外務副大臣に参加してもらった。その際、同外務副大臣は松浦に対し、「二度にわたる詳細な説明を受けて、自分としてはようやく日本側のシナリオを理解することができ、これに乗るべきであると考えるに至ったが、ベトナム政府内の多くの関係者はまだ厳しい対日不信感を持っていたので、自分はまとめることができなかった。しかし自分の意見も含めて上にあげたところ、最終的にベトナム政府として日本側の提案を受けるという決断が下され、ファン・ヴァン・カイ副首相から日本側の提案を受けるとの返事が行われた次第である」との打ち明け話があった。
 また、松浦がユネスコ事務局長として2000年12月にベトナムを訪れた際、その後首相になられたファン・ヴァン・カイ氏とお会いした。同首相より「ベトナムは日本の援助に非常に感謝している。1992年当時まだアメリカが対ベトナム禁輸解除を行っていない中で、日本政府が対ベトナムの援助再開に踏み切るのは難しい決定だったと思う。また、ベトナム側としても利子も含めた対日債務を最初に返済することについて、大きな抵抗感があったのも事実である。しかし、日本は現在のベトナムの最大の援助国であり、ベトナムの経済社会開発に大きく貢献している」との話があり、松浦は非常に嬉しく思った。
 また、2005年7月には松浦がユネスコ事務局長として再びベトナムを訪れた際にヴー・コアン氏は商工大臣を経て副首相になっておられ、久しぶりに再会して、13年前の1992年8月に難交渉を経て日越合意ができたお陰で、その後日越経済関係、更には日越関係全般が着実に前進していることに喜びを分かち合った。