ソ連東欧社会主義社会再考


元駐カザフスタン大使 三橋秀方

 ソヴィエト社会主義共和国連邦が崩壊したのは30年前の1991年。アメリカと戦争をしたわけでもないのに、あれよあれよという間に自壊したのはなぜか。
 筆者はソ連時代にソ連、東欧諸国に約10年間勤務して、改めてソ連東欧社会主義社会は何だったのか、と考えます。

しばしば見かけた行列
 ソ連勤務を思い出して最も印象に残ることの一つは、しばしば見かけた行列です。消費物資を買うための行列でしたが、価格は誰でも手の届くように低く抑えられていました。今になって思うのは、あれは需要と供給をバランスさせるための価格メカニズムが働いていなかった現象だったということです。行列ができるほど需要があれば、価格を引き上げるか、供給を増やすことによって行列はなくなるはずです。それがなされなかった社会だったのです。
 それはどういうことかというと、行列の先で売っている価格は、自由経済における価格とは異なる価格であり、我々の認識する価格は存在しなかった、ということです。勿論ソ連にも消費物資を売っている店はいろいろあり、商品には値段がついていましたが、それは政府が国民の生活などいろいろな配慮から適当につけた価格でした。何となればソ連では生産手段も生産物も国家が所有していて、政府は生産物を国民に配ったのですが、いちいち配給にするわけにはいきませんから、庶民が困らない程度の適当な価格を付けて店で売ったのです。即ち商品の価格はその物の価値を表すものではなかったのです。

税金のない社会
 というと物の価値と関係ない「適当な価格」で売るために国家から補助金が出ていたからではないか、と言われるかもしれませんが、補助金のためには税収が必要です。ところがソ連時代の百科事典で税金という項目を見ると、税金はブルジョワ世界の特徴でブルジョワ世界の庶民は税金を取られて苦しんでいる、というようなことが書いてありました。筆者の記憶する限り、ソ連では税金に相当するようなものが全くなかったわけではなかったのですが、年に数ルーブル何かの名目で収めたのみでした。その程度の徴収で無料の医療費や教育費、殆ど無料のガス、水道、電気、暖房(いずれもそもそもメーターがなかった)をカバー出来たとは思えません。また価値と関係ない価格を維持することも不可能だったでしょう。
 ちなみにソ連国民が買い物をするときのお金はどうして手に入れたのでしょうか。ソ連では全国民が給料制度だったようです。ブレジネフの月給が400ルーブルとかいう報道がありました。平均月給は200ルーブル位だったと筆者は推測します。給料に関しては格差の少ない社会でした。尤も社会的地位に伴う特権がいろいろあって、特権を持つ人とそうでない人の間の格差はかなりあったようです。特権は金額には表れませんでした。

価格決定は資本主義国に頼る
 さて筆者はソ連時代の東欧のある国で、ある人(Aさん)から次のような話を聞きました。「ソ連東欧の社会主義は、すべての資本主義国が社会主義化した時に完成する。しかし資本主義国ひとつは残しておく必要がある。何となればそうしないと物の価値が分からない。」
 価格メカニズムが働いていない社会ということは、物の価値が分からない社会ということなのです。それでは物の価値の分からない国の間の貿易、コメコン貿易はどのように行われていたのか。Aさんによれば「貿易の対象となるものを西側へ持っていくといくらで売れるか、をチェックしてそれを振替ルーブルに換える」ということでした。おそらくドル表示で価値を確かめたのでしょう。それにある数字を掛けて振替ルーブル表示の価格としたのです。このある数字というのは国と国の交渉で決められたそうです。振替ル―ブルというのは貨幣ではなく、単なる計算単位で、それに従って現金が動いたのではなかったのです。例えばソ連からポーランドに何億振替ルーブルの輸出がなされ、ポーランドからソ連へ何億ルーブルの輸出がなされた、と記録されるだけで、現金は動きません。現金は動きませんから両国間の貿易は振替ルーブルでプラマイゼロとなることが望ましく、それが求められました。しかしそれは現実には不可能で、どちらかが黒字、他方が赤字になるのです。その場合も黒字赤字が記録されるだけでした。

価値の異なる振替ルーブル
 そこで問題ですが、例えばポーランドがソ連との貿易で振替ルーブルで黒字を生じた場合、その黒字振替ルーブルをポーランドがチェコとの貿易に使えるか、というと使えないのです。それはポーランドとソ連の間で使われた振替ルーブルと、ポーランドとチェコの間で使われた振替ルーブルは異なるからです。
 前述したように、コメコン加盟国間の貿易の対象となるものが西側で何ドルするかを確かめた後、そのドル表示価格にある数字を掛けて振替ルーブル価格に換算するのですが、その時に掛ける数字が、コメコン諸国間で異なっていたのです。即ち例えばソ連とポーランドの間で使われた振替ルーブルと、ポーランドとチェコの間で使われた振替ルーブルとは異なるのです。例えば西側で10ドルしたポーランド製のウォッカをソ連に輸出するときは9振替ルーブル、チェコに輸出するときには11振替ルーブルと計算される、という具合です。米ドルを振替ルーブルに換算する時に掛ける数字は、関係国間の交渉の対象でした。
 振替出来ない振替ルーブルに関して、筆者は興味深い経験をしました。ソ連政権の末期でしたが、モスクワへ行ったことがあり、その時の都甲大使が、公邸でレセプションをやるから君も出たまえ、と言ってくれました。レセプションで筆者はボゴモーロフという当時の社会主義研究所の所長と立ち話になりました。すると所長はいきなり「コメコン貿易は振替ルーブルでやっている」と得意げに言いました。そこで筆者は前述の、ソ連、ポーランド、チェコ間の貿易で振替ルーブルを振り替えることが出来るのか、と質問したところ、彼は「それは別の問題だ」と言って筆者から離れていきました。即ち共産党の幹部ともあろう人が、事実と異なることを言っていたのです。
 また前述したように、コメコン諸国間の貿易は、総輸出と総輸入が均衡してプラマイゼロとなることが求められました。しかしAさんの話では、部門ごとの均衡も求められたのです。そうしないと総輸出と総輸入をプラマイゼロとしうることが困難だからでしょう。部門間で均衡というと、例えば乗用車の貿易は、ソ連のモスクビッチのポーランド向け輸出と、ポーランドのポロネーズのソ連向け輸出は、振替ルーブル計算で均衡することが求められたのです。乗用車のような大物は別として、一つの部門には普通はかなりの数の似たような物品が含められていたと思われます。即ちコメコン貿易とは同じようなものをほぼ同じ量で交換していただけのことだったと言えます。

コメコン統計と街角の車
 筆者はそれを裏付けることに気が付いたことがあります。ソ連時代に年一回公表されたコメコン統計です。それは加盟国がどういうものをどれだけ生産したかを示すものでした。あらゆる物品についてではなく、代表的なものについての量的な統計でした。貨幣表示はありません。そこで筆者は不思議なことを発見しました。どの国も統計に掲載されるほぼすべての物を生産していたのです。勿論国によって生産量は異なりました。また例外もありました。例えば乗用車はソ連、ポーランド、チェコ、ルーマニア、東ドイツで生産されていましたが、ハンガリーとブルガリアは生産していませんでした。しかしハンガリーはバスを多く、ブルガリアはフォークリフトを多く生産していました。バスとかフォークリフトが乗用車の代わりだったのかもしれません。
 同じようなものを同じような数量交換していたと自分で感じたもう一つの経験は、ポーランドの街角に立って走っている乗用車を見た時です。勿論ポーランド製のポロネーズが最も多かったのですが、それ以外の東欧諸国生産の乗用車も数は少なくても同じように走っていたのです。もし乗用車の貿易で自由競争が行われていれば、どこかの国の生産する乗用車の数が多い筈です。日本では輸入車のうちドイツ製が圧倒的に多いことはご承知の通りです。即ちコメコン諸国は同じような数量の乗用車を、性能などあまり関係なく、ただ交換していたのです。
 どの国も比較優位など関係なく、いろいろな物を生産していたということは、そうすることによって加盟国がバランスのとれた経済運営ができる、という考えがあったのかもしれません。
 コメコン貿易のユニークな実態は、ソ連型社会主義には価格メカニズムが機能していなかったことの結果です。そのような経済では例えばコスト計算も出来なかった筈で、長期的には発展の可能性が乏しいものであったと思われます。

計画経済の限界
 戦後60年代ごろまではソ連経済は順調のように思われ、フルシチョフが1980年までにアメリカを追い越す、と豪語したこともありました。それは生産手段を所有し、生産も分配も政府の思う通りというソ連特有の計画経済の長所がうまく働いた結果と思われます。計画経済においても価格のバロメーターが必要だということは以前から識者によって指摘されていたことでしたが、ソ連では価格のバロメーター無しの計画経済だったのです。長期的にはそれが短所となって表れたのでしょう。
 生産手段の社会的所有という、正真正銘の社会主義を実現したソ連の実態と経験を正しく認識することは意味があると思います。