オランダ海軍巡洋艦「Java」―戦間期日蘭交流の一側面(未定稿)


霞関会会員 竹内春久

 日蘭交流の歴史は17世紀初頭まで遡り、オランダは日本の発展に大きな影響を与えた国の一つであるが、第1次大戦と第2次大戦の戦間期に日本に来航したオランダ海軍巡洋艦「Java」の航跡を通し、当時の状況や人々の思いを以下素描してみたい。

大礼特別観艦式
 1928(昭和3)年12月4日、東京湾横浜沖で大礼特別観艦式が挙行された。御召艦「榛名」をはじめ計186隻、飛行機130機、飛行船2隻が参加する帝国海軍史上最大級の行事であった。観艦式には米国、英国、フランス、イタリア、オランダからも艦船が参加した。
 オランダから参加したのはオランダ海軍巡洋艦「ジャヴァ(Java)」であった。「Java」は12月1日、横浜沖に到着し、大礼特別観艦式に参加したのち、12月20日まで名古屋、神戸、長崎に寄港した。
 「Java」は1925(大正14)年5月に就役、同年12月、オランダ領東インドに配属された。オランダ側としては大礼特別観艦式への参加を通じ、赤道以北の南洋群島の委任統治を受任し南方への強い関心を示す日本との間で友好親善の実を上げようとしたものと思われる。

パプスト・オランダ公使主催晩餐会
 帝国海軍は大礼特別観艦式に参加した外国艦船の関係者を手厚く接遇した。
 これとは別に、12月2日、在京オランダ公使館パプスト公使は岡田啓介海軍大臣を主賓として海軍省、軍令部幹部、「Java」艦長他オランダ側関係者を招き晩餐会を開催した。
 会場は麹町区三年町(現在の千代田区霞が関3丁目界隈)にあった東京俱楽部である。この建物はジョサイア・コンドルの設計により1912(大正元)年に竣工した赤煉瓦造りの重厚な西洋建築で、付近のランドマークにもなっていた。
 Jean Charles Pabst(1873-1942)はオランダ陸軍軍人で、1910(明治43)年から1916(大正5)年まで在京オランダ公使館付武官を務めた後、オランダ王国植民地軍司令官を経て、1923(大正12)年に駐日公使に任命された。日本語を良くし、日本の南進政策を見据えつつ、太平洋戦争勃発まで日本とオランダの二国間関係のために尽くした。幣原喜重郎及びジョゼフ・グルーは、パプストについて、それぞれ、「彼は実に正直な人で、日本の誠実な友人」、「長年日本にいた鋭い、合理的な外交官」と評している。「熱烈な南蛮学者」(ヒュー・コータッチ)でもあった。パプストの事績については、『日蘭交流400年の歴史と展望』(日本語版)(日蘭学会、2000年)に詳しい。
 晩餐会の準備に関する連絡はスネルレン在京オランダ公使館書記官通訳官と海軍省岡新少佐(大礼特別観艦式事務委員)の間で行われた。防衛研究所にはスネルレンから岡にあてた日本語の書簡が残されている。
 Jan Bartholomeus Snellen(1893-1940)は海軍軍人から転じて1920年に来日、在日オランダ公使館で書記官、通訳官を務めた。『続日本紀』を英訳した日本研究者としても知られる。スネルレンは東京俱楽部の会員でもあった。晩餐会の会場が東京俱楽部となった背景にはスネルレンの存在があったのかもしれない。
 岡新(1890-1958)は海兵40期。1940(昭和15)年に設けられた総理直轄の機関である総力戦研究所の研究所主事となり、1941(昭和16)年夏に行われた日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習において日本必敗との結論を出したことで知られる。
 晩餐会ではパプスト公使の挨拶、加藤大臣の答辞があったが、日本側資料はその内容を記録していない。

名古屋、神戸、長崎訪問
 「Java」は大礼特別観艦式に参加した後、12月8日から11日まで名古屋、12日から15日まで神戸、17日から20日まで長崎を訪れた。「Java」の各地での動静は地元紙に写真入りで報じられている。
 名古屋では県庁、市役所、第三師団を表敬。県市商工会議所連合主催歓迎会が開催され、「Java」は艦上に地元関係者200名を招き答礼の宴(アトホーム)を開催した。さらに士官は日本ラインを見学、名古屋離宮を拝観するなどした。
 神戸には大礼特別観艦式に参加した仏伊の艦船とともに入港した。神戸への寄港中、オランダ領事館はドイツ人倶楽部で歓迎会を開催、「Java」も艦上で宴(アトホーム)を開催した。また、仏伊蘭各艦の士官は京都を訪問、乗組員は東遊園地グラウンドでサッカーの試合を披露した。さらに海員休養所では「Java」の水兵50名を宝塚に案内し、休養所で晩餐舞踏会を催した。
 長崎では稲佐悟眞寺オランダ墓地を訪問し追悼会を催したほか市内出島オランダ館跡、長崎図書館を視察した。

戦争
 世界大恐慌が始まったのは大礼特別観艦式が行われた翌年の1929(昭和4)年である。1931(昭和6)年には満州事変、更に1937(昭和12)年には日中戦争、1939(昭和14)年には第二次世界大戦がはじまり、時局は緊迫の度を増してゆく。
 1941(昭和16)12月8日、太平洋戦争がはじまると日本軍はオランダ軍とも交戦状態に入った。「Java」は、1942(昭和17)年2月27日、スラバヤ沖海戦で帝国海軍重巡洋艦「那智」の雷撃により撃沈された。「那智」もまた、大礼特別観艦式に参加していた。
 その「那智」は、1944(昭和19)年11月5日、マニラ湾において米空母「レキシントンⅡ」艦上機の攻撃により沈没した。30年後の1974(昭和49)年、日本政府は「那智」艦内の遺骨遺品収集作業を行い、作業に当たったサルベージ船上において遺族が参列して慰霊祭が行われた。
 パプスト公使は1930年代、緊迫の度を増す二国間関係の維持に腐心し、第二次世界大戦がはじまり1940(昭和19)年5月にオランダがドイツに軍事占領された後も太平洋戦争勃発まで在京オランダ公使の職にあった。幣原喜重郎は1941(昭和16)年7月、日本による南部仏印進駐の直後、その後の破局を見通して「これで私の一生涯の望みは絶えました」と述べて涙するパプストの姿を書き留めている。
 パプストは戦争開始により敵国外交官としての扱いを受けることとなったが、1942(昭和17)年1月24日、持病の心臓病が悪化し東京の聖路加病院で亡くなった。
 スネルレンは20年近くに及ぶ日本滞在を通じ公務の傍ら日本の学術文化関係者と親交を重ねたのち、1939(昭和14)年にオランダに帰国。1940(昭和15)年5月16日、ドイツ軍のオランダ侵攻のさなかにデンヘルダーで死去した。1940(昭和15)年刊行の『明治聖徳記念学会紀要』第56巻にはRobert Hans van Gulik(1910-1967)による追悼文が掲載されている。van Gulikは、オランダの外交官、東洋学者、推理小説家。1938年駐日公使館書記官、1965年から67年まで駐日オランダ大使を務めた。
 岡田啓介は2・26事件で辛くも難を逃れ、戦争末期には終戦工作にかかわり、1952(昭和27)年、サンフランシスコ平和条約の発効を見届けて死去した。
 パプスト公使主催晩餐会が開かれた東京俱楽部の建物は1945(昭和20)年5月25日夜の空襲により大きな被害を受け使用不能となった。
 「Java」が訪問した名古屋、神戸は戦争末期に大規模な空襲を受けた。長崎には原爆が投下された。
 戦時中の苦痛に満ちた記憶は戦後長きにわたり日本とオランダの関係に影を落とした。

スネルレン海軍少尉
 1956(昭和31)年 6月20日から8月23日まで、運輸省航海訓練所所属の練習汽船大成丸は政府の要請により戦没者遺骨送還及び慰霊航海のためオランダ領西部ニューギニア、英領ボルネオ方面に派遣された。当時大成丸次席二等航海士であった橋本進は戦争の記憶が生々しく対日感情が厳しかった時代、東南アジアで戦没者の遺骨を収集し慰霊する事業に従事した経験を語っている。
 6月20日、東京を出港した大成丸は、7月1日、最初の寄港地であるホーランディア(オランダ領ニューギニア、現在はジャヤプラ)に入港、7月4日に同港を出港し次の寄港地サルミに向かった。その際オランダ政府の現地調整官2名が乗船したが、その内の一人、スネルレン海軍大尉は「父が在日公使館勤務のとき東京で生まれた」と述べた。大尉は海軍軍人であった父スネルネンの跡を継いでいたのだ。
 橋本はスネルレン大尉とどのようなやり取りを交わしたのかについては触れていない。わずかに大成丸が7月13日から16日までヌンホル島沖に停泊して遺骨収集した際に現地住民と洋上で物々交換をした模様を活写しているくだりで、「同乗のオランダ官憲が鷹揚であったことも幸いした」と述べているのみである。
 7月22日、大成丸はソロンに入港、オランダ官憲2名はここで下船した。大成丸に乗船し日本側による遺骨収集、慰霊を見届けたスネルレン大尉の胸中に去来したのはいかなる想いであったろうか。

パプスト余話
 秋田県角館市の松庵寺に小田野直武の碑がある。この碑は、1936(昭和11)年8月27日に除幕されている。
 小田野直武は角館出身の秋田藩士で、平賀源内に洋画を学び、のちに秋田蘭画の祖となった。杉田玄白、前野良沢らが翻訳した『解体新書』の挿絵を担当したことでも知られる。松庵寺は小田野の菩提寺である。
 碑面には徳富蘇峰の揮毫で「小田野直武碑」と刻され、裏面にはオランダ語で以下の碑文が刻まれている。(*コロナ禍により現地調査が困難であったので、ネット上の写真情報から判読した。)

小田野直武
1749―1780  
オランダ文化と学術の実践者として、その発展に貢献した  
オランダ使節 J・C・パプスト

 パプストの一文が碑に刻まれるに至った経緯は明らかでないが、パプストの日蘭交流にかける思いが偲ばれる。

おわりに
 本稿は主として日本側の資料を基にしている。筆者はオランダ語を解さないので、オランダ側の資料は調査していない。本稿を未定稿とする所以である。
 本項執筆にあたっては、松本俊氏から多大のご指導ご教示を得た。また、愛知県立図書館、秋田県立図書館、長崎県立長崎図書館、兵庫県立図書館、明治聖徳記念学会から資料の所在などについてご教示を得た。記して御礼申し上げる。

(参考文献)
・ 幣原喜重郎、『外交五十年』、pp212-213、中公文庫、2007年
・ ジョゼフ・グルー、『在日十年』(上)、ちくま学芸文庫、2011年、pp248, 304-305, 364
(下)、pp345-349
・“Britain and Japan: Biographical Portraits”, Vol. Ⅳ, Hugh Cortazzi ed., Routledge, 2002, p268
・ A・A・A・ストルク、「外交官・植民地軍司令官ヤン・シャールス・パプスト」、『日蘭関係400年の歴史と展望』(日本語版)、日蘭協会、2000年、278p
・ アジア歴史資料センター JACAR Ref. C04016140200
・『「鹿鳴館の建築家ジョサイア・コンドル展」図録』増補改訂版(建築画報社、2009年)
・ “Leiden Oriental Connections:1850-1940”, edited by Willien Otterspeer, E. J. Brill, 1989, pp371-372
・ J. B. Snellen, “Shoku-Nihongi: chronicles of Japan”, The transactions of the Asiatic Society of Japan, 2 ser. Vol. 11, 1934
・ 日本文化中央連盟、『日本文化団体年鑑』昭和14年版、1939、pp502-503
・ 『新愛知』1928(昭和3)年12月10日日刊、夕刊、12月11日日刊
 『名古屋新聞』1928(昭和3)年12月12日
 『神戸新聞』1928(昭和3)年12月13日夕刊、12月16日朝刊
 『神戸又新新聞』1928(昭和3)年12月15日朝刊
 『長崎日日新聞』1928(昭和3)年12月19日
 『長崎新聞』1928(昭和3)年12月21日
・ 佐々木正浩、「太平洋末期、米軍機の魚雷攻撃によりマニラ湾に沈没した重巡「那智」艦内の遺骨遺品収集作業及びサルベージ船上における慰霊祭参列遺族の慟哭等見聞の記」、「霞関会会報」1998(平成10)年6月号
・ R. H. van Gulik,”in memoriam J. B. Snellen”, 『明治聖徳記念学会紀要』第56巻pp2-3、1940年
・ 橋本進、「白い虹」(前篇)、『全船協』第106号、2008年1月
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/106kaiho/siroiniji/siroiniji(1).htm
・ 橋本進、「白い虹」(後編)、『全船協』第107号、2008年5月
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/107kaiho/siroiniji/siroiniji.htm
・ 『秋田』4巻9号、秋田社、1936年、p38。『秋田魁新聞』1936(昭和11)年8月30日

(2022年6月記。文中敬称略)