アフリカよ、どこへ行く(quo vadis)

  
アフリカ連合(AU)日本政府代表部大使 堀内俊彦  

はじめに

 AU代表部に着任して約3年が経つ。この間、新型コロナウイルス感染症(以下、「COVID-19」という。)のワクチン分配をめぐる命の軽重の議論、AU本部が所在し、AUのまさに足元であるエチオピアの「内戦」を始めとする紛争や平和安全保障の問題の続発、ロシアによるウクライナ侵略なども起こり、そのたびごとにAU関係者などと意見交換してきた。また、日々、AUをその原動力とするアフリカ統合の動きや、その動きに呼応してアフリカとの関係強化を画策する各国・機関の動きを見てきた。そして世界では、G7広島サミットもあって日本でも、いわゆる「グローバルサウス」、そしてその中核としてのアフリカへの関心も高まっている。と同時に、「ダブルスタンダード論」も援用してのアフリカからの異議申し立てや、「グローバルサウス」との言説も追い風にして既存秩序の変革を求めるアフリカの声も強くなっている。
 そこで本稿では、COVID-19とロシアによるウクライナ侵略という、時代を画す2つの出来事に際してのアフリカの反応に触れつつ、アフリカはどこに向かおうとしているのか、そして世界、とりわけ日本はどうしたらいいのかについて私見を述べたい。
 なお、アフリカといっても、一言では括りきれない多様性があり、またアフリカとAUも必ずしも同義ではないが、ここでは一般的に使われているアフリカという意味でアフリカという語を用いる。

COVID-19

 アフリカは、エボラ出血熱を始めとする数々の感染症へのこれまでの対処の経験を役立ててきたものの、これらの感染症は、平時において脆弱な人々・社会階層・国・地域(アフリカがまさに当てはまる)をとりわけ一層脆弱にすることが明らかとなった。
 各国とも、自国民のための安全・安心を確保することが最重要となった(これはnation stateを前提とする限り当然の帰結ではあるが、感染症には国境がない、つまり一国レベルで対策を取っても十分ではないと言われているにもかかわらずであった)。結局いざとなったら、アフリカ自身で自分たちの身を守らないといけないと感じたアフリカの人々・国々は多かったのではないかと思う(「まさかの友は真の友」のまさに正反対の状況)。アフリカの多くの国々は、ワクチンだけでなく、マスクや医療用ガウン等の軽工業製品についてさえも調達(輸入)ができないという現実に直面した(この点、中国が「マスク外交」「ワクチン外交」を展開したことは象徴的である。なお、中国はAUの付属機関であるアフリカCDC(疾病予防管理センター)の新本部ビルも建設・供与しており、保健分野でのより長期的関与もしようとしている。アフリカが自前の産業を持つことはCOVID-19以前からも長年の課題であるが(AUはほぼ毎年、アフリカの産業化をテーマにした首脳会合を開催している)、平時の課題が、パンデミックという有事に際して浮き彫りになった。

(写真)中国の支援で建てられたアフリカCDCの新本部ビル
(AU代表部員撮影2023年8月)

 ここで、日本の取り組みであるHome Grown Solutions事業についてご紹介したい。これは、COVID-19がアフリカの保健システムの脆弱さを改めて浮き彫りにしたことを受け、アフリカの保健分野でのレジリエンス強化のために、AUDA-NEPAD(AUの開発担当機関)とJICAが、民間からのコンサルティングの力も借りて、医療関連の地場産業・サービスの起業家に伴走する事業である。HGSは在来のポテンシャルと外部ネットワークからの取り込みの良い組み合わせの例であり、今後の日本とアフリカの「共創」のありうべき一つの方向性だと思う。

(写真)「Home Grown Solutions」事業の一例のケニアの診療所(JICA提供)

 植民地化された歴史を持つアフリカは主権の問題にことさら敏感である(だが後述のように、ウクライナの主権がロシアにより侵害された件については、国により態度が分かれる)。今後、政治や外交だけでなく経済や産業の面においても主権、戦略的自立に関する主張が高まることが予想される。
 なお、個人的な話で恐縮だが、筆者がエチオピアでCOVID-19に感染した際、一部の国であったような感染者に対する忌避、差別を感じることは一切なく、エチオピア人同僚からは優しい気遣い、励ましを受けた。これはエチオピア社会の反射神経的な利他(思いがけず利他)の風土と、感染症を始めとする疾病が身近であり自分も罹患者と同様の立場にいつでもなり得るという「他人の靴を履く」ことが想像しやすい環境であることも関係あるのではないかと思っている。

ロシアによるウクライナ侵略

 筆者はAU本部のあるアディスアベバに暮らしているが、当地で本件に関する様々な人の見方を見聞きして、以下3つのことを特に感じた。まず、我々(あまり使いたくはないがいわゆる「西側」)が当然と思っている価値観や規範が必ずしもアフリカの多くの国々に共有されていた(いる)訳ではないこと。少なくとも国連における投票行動を見る限り、残念ながら「西側」にとっても好ましい投票行動を取っていない国のかなりの国がアフリカに散在している。次に、一国の国内的なガバナンスと国際協調に対する態度には相関関係(同じコインの裏表の関係)があること。これは、一国におけるグッドガバナンス、包摂的ガバナンスの確立の問題を、国際的な安全保障の観点からも考察する必要があることを示唆する。三つ目に「西側」はその言説の主張に当たってもやり方に気をつけないと逆効果になること。正しいことは、正しいやり方で、そして付随する行動も込みで、主張しないとだめであろう。
 我々はこのような現実が支配するアフリカと根気よく付き合っていかなければいけない。ちなみに、当地に駐在するあるヨーロッパの国の大使と意見交換した際に、その大使は、AUがG20に参加することには賛成するが、であれば、ロシアによるウクライナ侵略のような「アフリカ外」の問題に対しても責任ある態度を取るべきだ、と言っていたのが印象的である。

(写真)2022年6月、プーチン大統領と会談するファキAU委員長(中央)とAU議長(当時)のサル・セネガル大統領(右)(ファキ委員長のX(旧ツイッター)から)

And Then What?

 「日の下に新しきものなし」「変われば変わるほど同じ」は一面の真理ではあるが、さはさりながら望ましい将来像を描き、そこに向かってコツコツと実績を積み重ねていく、いわば将来をデザインする努力は放棄するべきではないと思う(エントロピーの法則からすると、現状から後退しないようにするだけでも相応のエネルギー、努力が必要)。その観点からいくつか提言をしたい。筆者も身近でできることからやっていく。
●傾聴
 とにかく聴く。まずは相手の話を遮らずに反論も我慢して最後まで聞く。これは、日本が歴史的、文化的な背景等から、アメリカ、ヨーロッパ、「新興」パートナー諸国などの、他のパートナーたちとは立ち位置が幾分違うことを示す意味でも、日本が取るべきアプローチではないかと思う。「Nothing about us without us」というのはアフリカとのお付き合いにおいても有効、というより必要であろう。
●ポスト「ポスト冷戦」
 ポスト・ポスト冷戦下、世界が追い求めるべきは「秩序だった多元主義(pluralisme ordonné )」だと思う(注1)。その点からすると、誠に苦渋の決断ではあるが、旗幟を鮮明にせずにグレーゾーンにとどまってきている国にはグレーゾーンにとどまることを認める(一定の居場所を認める)方が、最悪の事態(中露への傾倒)を回避するという観点からはましであるという気がしてくる。日本は、アメリカやヨーロッパに対しても、友人・同志の立場から、彼らが性急な解決を志向していると思われるときには、時には「それはかえって逆効果だよ」と諫めるということも必要ではないかと感じている。
●日本のアイデンティティ 
 アジア太平洋のリベラルデモクラシー国家としての日本というブランドは、未だリベラルデモクラシーの恩恵を享受できていない国・地域・人々に対して、日本が思っている以上に活用の余地があると思う (現状では残念ながら、個々人を不幸にする権威主義的レジームがアフリカの指導者だけでなく市民に対しても一定の吸引力を持ってしまっているようにも見える。人口ピラミッドを見てもこれからのアフリカを担うのは若者である。これらの若者を包摂するガバナンスが必要である)。ただし、それには、日本自身も常にリベラルデモクラシーの輝きを磨き続けないといけない。
●日本主導のより深い議論を 
 いわゆる開発や国際協力の文脈では、そろそろベクトルの向きを変えた方が良いのではないかと感じている。ただちに外部から解決策を持ち込むのではなく、まずはアフリカの潜在力(在来の思考、叡智、ノウハウ)に着目する、さらには現在の様々な行き詰まりを打破するためにはalternativeの源泉をアフリカから学ぶ、探るという方向も探ってはどうだろうか。
 我々アフリカの外に住んでいる人間、アフリカの外から来た人間は、ともすると、政治的・経済的・技術的「優越」に裏打ちされた自信(あるいは慢心)から、我々自身がアフリカの抱える問題(の一部)であることを忘れて(あるいは意識的または無意識に目を背け)、解決策(もどき)を持ち込みがちである。我々自身の自省も求められると思う。
●ダブルスタンダード論 
 ダブルスタンダード論に説得力を持たせないためには、理念の提唱と具体的な手当をセットで同時に行うことが、これまで以上に重要になると考える。フランスの新聞を読んでいると、fin du mois (月末)とfin du monde(世界の終わり)の対比、つまり月末までどうやって乗り切ろうかと日々の生活にさいなまれている人々と、気候変動などグローバルな課題を心配する「贅沢」が許されている人々の対立や相互理解の難しさについてよく目にする。これはまさにロシアによるウクライナ侵略に際して、先ず以てして食料・肥料・エネルギーの値上げ・調達難が最重要問題であったアフリカのかなりの国々が、国際秩序などの大所高所の議論をしてくるいわゆる「西側」に対して距離を置くという構造に似ていると思う(筆者は、あるアフリカ出身のシンクタンクの方と意見交換した際に、「あなた(筆者)はすぐ「国際秩序」と言うけれど、アフリカがどれだけその形成に関与してきたのか?」と言われた)。筆者自身は、ロシアのウクライナ侵略は明白な国連憲章違反、国際法違反であり、それだけをもってして十分にロシアを非難すべきと考える。他方同時に、日々アフリカの人々と接していると、彼らがダブルスタンダード論を持ち出すことに対し、にわかに正面から反駁することもなかなか難しいという気もしてくる(仮に、個々の国々のむき出しの利益、損得勘定、個別事情をカモフラージュしたり、擁護するためにダブルスタンダード論を意図的に持ち出す場合であっても)。よって、ダブルスタンダード論が持ち出される余地をなくしていく努力が必要である。ダブルスタンダード論の際にアフリカ側が持ち出す論点(パレスチナ問題、ウクライナに比べて国際的関心・支援が集まらないアフリカの紛争、債務問題、移民問題、人種差別、公正なエネルギー転換、ワクチンへのアクセス、国連安保理改革や国際金融機関改革等)のそれぞれについて理念上も具体策上も真摯に手当てしていくことが必須であると思う。

(写真)『アフリカ潜在力が世界を変える』(京都大学学術出版会)の表紙(筆者撮影)。
このような発想が必要ではないか。

結語

 2100年の世界を100人の村にたとえると、アフリカ人が38人になるという(ちなみに日本人は0.7人)(注2)(このことからだけでも、日本はアフリカの活力を取り込むべきであることは明らか)。

 これからの国際秩序、グローバルガバナンスを作り上げるに当たり、手続き的にアフリカがsense of participationを感じることがなく、中身的にもequityに欠けるものとなるならば、世界の3分の1の人たちが「ルサンチマン」の自縛にとらわれ、さらには彼ら自身の当初の意図を超えて自己増殖するルサンチマンという怪物の自縛にとらわれ、協調ではなく対立・攻撃が支配するディストピア的世界が出現してしまう。そういう世界を将来世代に残したくない。

(注1) フランスの法学者Mireille Delmas- Marty の『Une boussole des possibles』より。
(注2) 原俊彦『サピエンス減少』岩波新書より。

(本稿は筆者個人の見解であり、筆者の属する外務省の見解を代表するものではない。)
(2023年8月15日記)