ある日系二世兵士の生涯~ローソン・サカイと442部隊

駐アルメニア大使、元在サンフランシスコ総領事 山田 淳

2017年11月11日 退役軍人の日

 6月16日、ローソン・サカイ氏がサンノゼに程近いモーガン・ヒルの自宅で静かに息を引き取った。10月には97歳となるはずであった同氏は、第二次大戦中に日系人強制収容の只中に編成され欧州戦線で奮戦、「米陸軍史上最強」の名を轟かせた伝説的な442部隊の、ほぼ最後の生き残りであった。筆者は前任地のサンフランシスコ時代に同氏の知遇を得、その生涯の最後の5年間を見守ることとなったが、ここにその一端を紹介しつつご冥福を祈りたい。

 ローソン・イイチロウ・サカイ氏は1923年にLA近郊で生れた日系二世で、両親がクリスチャンであったこともあり、日系社会に閉じこもることなく他の米国人との幅広い交友の中で育った。白人に比べ何ら遜色のない立派な体格と豪放磊落で社交好きな性格は最晩年まで変わらず、戦後は「442」体験の語り部として記憶の伝承に尽力する中心的な存在であった。自身を「アメリカ人」と信じて疑わなかった彼は、真珠湾攻撃の翌日、正に日本と戦うべく海軍に志願しようとした際「敵性外国人はダメだ」と断られ、深刻な蹉跌を味わう。(共に志願した白人の親友・フットボール仲間の3人は「ローソンを差別する海軍なんか止めだ!」と怒り、彼を連れて大学に戻った。)

 直後に西海岸の日系人の強制収容が開始されるが、サカイ一家は友人のクリスチャンの支援を得てコロラド州に移住することにより、右を免れる。一家は同州への移動の途次、開所して間もないマンザナー収容所にLAの知り合いを訪ねるが、到着早々「ここは監獄だ。ぐずぐずしていると出られなくなるぞ!」と諭され、即座にゲート外に飛び出した由で、後に「我々はおそらく収容期間の最短記録だろう」と述懐している。

 コロラドで学生生活を送っていたローソンは1943年春、日系人による第442連隊戦闘団の編成を聞き志願を決意する。既に米国を祖国と堅く決めていたサカイ家では何の葛藤もなかったが、多くの収容所では日系人強制収容の不法を憤る一世の親と志願を切望する二世との間で激しい衝突が生じ、夜逃げ同然にキャンプを後にして出征した者も多かった。

1943年入営時と晩年のローソン・サカイ氏

 歩兵E中隊(戦闘で右腕を失った故ダニエル・イノウエ上院議員と同じ)に配属されたローソンらは、キャンプ・シェルビーでの訓練期間を経た後、1944年7月北イタリア戦線に投入される。大西洋を渡る船上で「生還は期し得ない」と予め覚悟していたものの、戦場の現実は更に苛酷で、最前線の第1日目からいきなり多数の仲間と直属の小隊長・中隊長が戦死する凄惨な経験となり、以後それが日常となる。

 数ある442部隊の戦功中で最も名高いのが、1944年10月の仏北東部ヴォージュ山中における「失われた大隊」救出作戦である。この月、15日からブリュイェール解放まで8日間にわたり不眠不休に近い戦闘(建物一棟ごとに独兵を駆逐するスターリングラード式のRattenkriegと化した)に従事した442の面々は、既に多数の仲間を失い疲労困憊であったが、僅か1日半の休息後、今度は独軍に包囲され絶体絶命の状況に陥ったテキサス第141大隊の救出を命ぜられる。悪天候と不利な地形の中、米陸軍史上10大戦闘の一つとなる死闘を繰り広げた末、10月30日に442部隊は包囲網を突破し救出を果たすが、211人を救うため右を超える数の日系兵士が犠牲となった。しかし、この戦闘のニュースリールは全米を沸騰させ、日系人への根強い偏見を草の根レベルで根底から揺るがす契機となる。

 ローソンもこの戦闘に従事するが、21歳の誕生日となる27日には至近距離から狙撃され、危うく斃れるところであった。辛くも右をかわし敵兵を仕留めるが、遺体を見ると相手は14歳前後の少年であり、愕然とする。壊滅目前の独軍は今や年少者や老人までも手あたり次第に動員し、戦線に投入していたのであった。
 翌28日、ローソンは砲弾の破片が背中に食い込む重傷を負う。生存は奇跡と思われる瀕死の彼を救ったのが、衛生兵の機転であった。(彼は生涯にわたり大戦を通じた米軍医や衛生兵の勇敢さ・有能さを称賛してやまなかったが、この点は後述のクライン博士との友情にも繋がる。)後方に移送され3か月療養した彼は再び戦線に復帰し、1945年春には北イタリアに立てこもる独軍最後の防御線「ゴシック・ライン」攻略に参加する。先任の米軍は既に6ヶ月間も右を攻めあぐねていたが、442の面々は本職のロッククライマーも尻込みするような1000m以上の断崖を夜陰に乗じて軽装備で登攀し、夜明けとともに頂上にある独軍の機関銃陣地を背後から攻撃、瞬時に制圧したのだった…

 こうした戦闘の詳細を鮮明に記憶し再現するローソンの明晰な頭脳と叙述力は90歳台後半に至っても些かも衰えることなく、種々の会合で居合わせたプロの戦史研究者も舌を巻くほどであった。その一方、彼自身はこうした大戦中の苛酷な体験から深刻なPTSDに悩まされ、右は生涯消えることがなかった。(大戦時の米軍におけるこの問題に関する理解は未だ初歩的なものであり、多くのGIはアルコールで身を持ち崩すしかなかった由。)

 大戦の終了までに日系人部隊の精強さは独軍内で知れ渡り、彼らは右との遭遇を忌避するようになった。「なぜ442はかくも強かったのか」と問われ、ローソンは「我々は一世の親から日本人としての精神を徹底的に叩き込まれ、日本語こそ話せなくとも『ヤマトダマシイ』、サムライの死生観は持っていた。これは他の米軍部隊では考えられないものである。そして何より我々には、米国人としての証を立て、自国での偏見を打ち破る使命があった。この闘いにはどうしても負けるわけにはいかなかった」と語る。バンザイ突撃(千人針とともに二世兵士にとっては普通)での雄叫びにとどまらず、正に「Go for Broke!」なのであった。

 先述のとおり日系人としては相当アメリカナイズされていたサカイ家であったが、九死に一生を得て戦地から生還した息子と父親の会話は、何とも日本的であった。
「ただいま帰りました」
「おう、そうか」
~「ハグもキスも、握手すらもなく、ただ互いにお辞儀するだけ。戦場はどうだったか聞くでもなく、自分も何も言わない。それが一世と我々の会話だった」と、ローソンは述懐する。

 筆者はある時、トパーズ収容所跡(ユタ州)の訪問で一緒になったドナルド・タマキ氏(在サンフランシスコ総領事館の顧問弁護士で、デール・ミナミ氏と並ぶコレマツ訴訟再審の立役者)に、「日系人に同情的であったユタに比べ『反日の牙城』然としていたカリフォルニアで、今やその痕跡すら残っていない観があるのはなぜか」と質したことがある。同氏は暫し沈黙の後、「それはやはり、442の面々が身を挺して実証した忠勇さと愛国心の所産だろう」と述べた。

「トリオ」初会合 2015年6月12日:当時の山田総領事(左端)と

 心臓外科医でベトナム戦争では軍医中佐であったハワード・クライン博士は、生前のローソンにとり無二の親友であった。ウクライナ系ユダヤ人である同氏は、日系人(エレン・サワムラ女史)との再婚をきっかけに日本的なものに没入し、特に大戦末期、悪名高いダッハウ強制収容所を最初に解放したのが日系人部隊(442の支隊である第522野戦砲兵大隊)であったことを知ると、彼らの完全な崇拝者と化した。以後、彼らが実施する折々の欧州巡礼訪問に際し「主治医」として常に同行し、高齢化の進むメンバーにとり何よりの支えとなっていた。また、筆者の顔を見ては「スギハラにはお世話になった」と言うのが口癖で、ローソン・ハワード・筆者の3人が会うといつまでも離れないことから、エレン夫人からは「仲良しトリオ」なる称号を賜った。(ちなみにダッハウの惨状を目にした日系兵士らの脳裏をよぎったのは、果たして収容所一般の共通性(米国すら右を有するに至った20世紀前半の人類全体の転落)か、はたまた相違(ヒトラーやスターリンのそれと異なり日系人キャンプは少なくとも「絶滅収容所」ではなかったこと)であろうか?)

2019年7月13日、北仏ビフォンテーヌ付近のヴォージュ山中にて

 昨年7月、仏での戦役75周年を機に、ローソンと令嬢・孫夫妻を含む442関係者が南仏からヴォージュに向けて久々に長い巡礼訪問を敢行した。(ローソンより9歳若かった「主治医」クライン博士は悲しいことに2017年に急逝し、エレン夫人のみ参加。)ローソンに誘われた筆者も任地を空けて駆け付け(館員諸氏に感謝)、何とか後半3日間のみ同行することが出来た。折から14日のバスティーユの日をはさみブリュイェールの中心部を皆で行進したが、仏人が往々にして示すシニカルな対米感情はこの地方に関する限り微塵もなく、四分の三世紀を経た同地の人々がなお純度100%の親米であり、かつその敬愛が挙げて日系人GIに寄せられているのを実感するのは、忘れ難い経験であった。地元の歴史保存会の面々が所有する往時のジープや軍用トラックが総動員され、GIの制服・装備で身を固めた現代の若者らがローソンを囲んでは、次々にサインを求めていた。数々の戦時勲章に加え、米議会黄金勲章、レジオン・ドヌール、そして旭日双光章を胸にしたその姿は、正に「英雄」そのものであった。

 かつては戦地巡礼に大勢参加していた日系兵士たちも回を追うごとに少なくなり、今回はついにローソン唯一人となった。誰も口にはしなかったが、おそらくこれが442の生き残りを迎える最後の機会であろうことは明らかであり、その一瞬一瞬のすべてを記憶に焼き付けておこうとの雰囲気は仏側関係者を含め随所に漂っていた。ローソンは若干足を痛めた由で旅行中は車椅子を使っていたが、家族によれば「それ以外は全く元気」とのことであった。しかし本年1月、復員直後に結婚し73年間連れ添ったミネコ夫人に先立たれ、さらに現下のコロナウイルス渦で何よりの生きがいであった仲間との交友も制約される中、彼の健康は急速に衰えていったようである。

 「我々二世はやがて消え去る。しかし、こうした時代・こうした世代が存在したということは記憶しておいてほしい」とは、ローソンがしきりに述べていた言葉である。また、「合衆国が体現する理念こそは、人類文明における最も偉大な部分である」とも、繰り返し訴えていた。「アメリカとは何か」との本質的な問題におけるかくも強い確信と、遠く明治期日本の刻苦勉励・開拓精神(いずれも今日の米・日両国において後景に退いた観がある)との、歴史と国家の断裂線上における類い稀な合一がここにありはしまいか。 Rest in peace.