<帰国大使は語る> 西アフリカの世界有数のボーキサイト産出国・ギニア
前駐ギニア大使 松原英夫
2019年1月から2022年12月まで駐ギニア大使を務めて最近帰国した松原英夫大使は、インタビューに応え、ギニアの特徴と魅力、在任中に経験したこと、力を入れて取り組んだこと、日本との関係等について以下の通り語りました。
―ギニアはどんな国ですか。その魅力は何ですか。
ギニアは、大西洋岸に面した西アフリカに位置し、周囲をセネガル、ギニアビサウ、マリ、コートジボワール、リベリア、シエラレオネの6カ国と国境を接しています。 また、ギニアの国土面積は約24.6万平方キロメートル(本州とほぼ同じ)、人口は約1,313万人で1人当たりGNIは1,189米ドル(2021年度世銀)です。
ギニアの情勢を語る上で避けて通れないのが民族構成です。この国は主に(イ)プル族(約40%)、(ロ)マリンケ族(約35%)、(ハ)スス族(約15%)と(ニ)森林地方の部族(ゲルゼ族、トマ族、キシ族、コニャンケ族)の4部族で構成されています。これらの4部族により国内の政治勢力均衡が保たれていますが、その一方で部族主義的な治世が大きな不安定要素の一因となっています。
具体的には、広く西アフリカ一帯に分布し、ギニアで人口構成の約40%を占める「プル族」と、その勢力に対抗する「プル族以外の部族」の拮抗による政治対立が、独立後のギニアにおける政治対立の軸となっており、この傾向が今日まで続いています。その証左として、プル族は、最大部族であるにもかかわらず、過去のいずれの大統領選挙でも、プル族に対抗する他の部族の連携により大統領選出を阻まれ、独立後一度も大統領を輩出していません。その背景には、ギニア独立前にプル族がフランス共同体への参加に賛成していたことがありますが、フランス植民地政策後に流れるギニアの強い反フランス的な考え方が今日においても引き継がれ、政治における部族対立の構造と脆弱性に繋がっていると見られます。
<ギニア建国後の歴史と政権の変遷>
1891年に仏領ギニアが建設され、この地はコナクリを首都とするフランスの植民地となりました。その67年後の1958年に国民投票が実施され、ギニアはフランス共同体の中での自治共和国となることを拒否し、名実共に独立を果たしました。このギニア独立の際、セク・トゥーレ初代大統領は「豊かさの中の隷属よりも、貧困の中の自由を選ぶ」と述べ、フランスからの完全独立を宣言しました。このフランスへの対抗思想は今日まで国民の意識にあります。
ギニアの独立は、フランスの反発を招くこととなり、フランスが引き上げる際に公共施設やインフラを破壊し、国の重要書類や備品を持ち去ったため、ギニアの行政機能と経済は麻痺し、最貧国への転落をもたらしました。また、フランスという支援国を失ったギニアは、その後共産圏ソ連へ接近することとなり、併せて社会主義システムを導入するに至りました。国民の内心にも、共産主義の思想や方法が今日まで根深く留まるほか、軍事協力等を通じロシアと密接な関係を有する国となっています。
上述のとおり、セク・トゥーレ初代大統領は1958年の独立後、フランス及びフランスと同盟する西アフリカ諸国から孤立し経済的にも混乱する中、社会主義路線を歩み始めましたが、他方で、政権を維持するため、政敵や人権論者を弾圧し、当時約200万人が国外に亡命するなど、恐怖政治を敷きました。
セク・トゥーレ初代大統領は1984年、26年に及ぶ統治の後病死し、その直後、軍人ランサナ・コンテ大佐がクーデターを起こし、2008年まで24年間に渡り政権の座につきました。コンテ大統領は、自由主義路線と市場経済の導入への大転換を国際社会の支援の下で押し進めました。しかし、同大統領の統治が長期化する中、政治腐敗も進み、現在、当時の政府高官で今日の野党指導者である政治家達が、この時代の汚職に関わったとして訴追され、裁判が開始されつつあります。
コンテ大統領は2008年に病死しましたが、これを機に再び、軍人である森林地方出身のダディス・カマラ大尉がクーデターにより軍事政権を樹立し、約1年間統治しました。その後、セクバ・コナテ暫定大統領による約1年間の暫定政権を経て、2010年にようやく民主的手続きにより、アルファ・コンデ大統領が選出されました。
<アルファ・コンデ政権の崩壊とドゥンブヤ軍事政権の成立>
アルファ・コンデ大統領は2010年民主的に選挙で勝利を収め、第3代目の大統領に就任しましたが、憲法で規定する2期5年を勤めた後、国民投票により3期6年とする新憲法を成立させ、2020年に自身が3期目の大統領に就任しました。他方、この様な長期政権を標榜するアルファ・コンデ大統領に対し、野党勢力は反対運動を激化させ、国内情勢が大きく揺らぎ、国際社会からも批判を受けました。結果的に、国内外の批判や不満を解消する代弁者として、2021年9月、ドゥンブヤ大佐を首班とするクーデターが発生し、同大佐が暫定政権最高機関としての国民結集発展委員会(CNRD)の議長及び暫定大統領に就任し現在に至っています。
この政変に伴い、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)及びアフリカ連合(AU)はギニアを資格停止処分とし、早期の民政移行プロセスの提示と実施を求めました。その後、ドゥンブヤ暫定大統領は2023年1月時点から2年間を移行期間とする旨を発表しました。
このように国際社会がギニアの動向を厳しい目で見守る中、ギニアは、同様にクーデターで軍事政権を打ち立てている隣国マリやブルキナファソとの関係・連帯の強化を図っていることから、ギニアの民主化への前進が西アフリカ地域の安定化の重要な要因となっています。いずれにせよ、今後の政権移行プロセスでの憲法改正国民投票、地方選挙、国民議会選挙及び大統領選挙までの具体的なタイムテーブルの明示、国内野党勢力や市民社会団体との対話による対立の回避、国際社会との調整等が、ギニアを将来孤立させないための鍵となっています。
<ギニアの魅力(鉱物資源への投資)>
上述のとおり、独立後、クーデターにより国内政情が度々不安定化してきたという面は否めませんが、これに反して、ギニアには鉱山業への投資という大きな魅力が存在します。
ギニアは、ボーキサイト、鉄鉱石、金、ダイヤモンドなどの鉱物資源に恵まれています。特に、ボーキサイトの埋蔵量は400億トンと世界第1の埋蔵量を誇り、生産量は世界第2位の8,776万トン(2020年)を産出しています。現在、ボーキサイトへの外国からの投資としては、中国、シンガポール、ロシア、EU、カナダ・オーストラリア、UAEの企業が参画しています。最近、ギニア政府はボーキサイト事業に関し、生産のみでなく精錬までギニア国内で行うよう外国投資企業に要請を始めています。
また、ギニア東部の森林地方には200億トンと見積られる良質の鉄鉱石が眠るシマンドゥ鉱山が存在し、古くから開発に関心が寄せられていました。昨年、同鉱山から首都近郊のフォレカリア港までの輸出のためのインフラ整備として650Kmの鉄道敷設や採掘準備に関する協定が、政府と開発企業グループとの間で締結され、開発に拍車がかかっています。参画外国企業は、中国・シンガポール、イギリス・オーストラリア、及びアメリカ資本です。このほか、金についても埋蔵量700トンが見込まれ、ロシア、ガーナ企業が参画しており、ダイヤモンドも約3,000カラットの埋蔵が見込まれています。
昨年、鉱物資源省主催のセミナーが開催され、多くの外国企業が参加しており、今後鉱物資源の重要度の高まりとともに、更にギニアへの外国企業の開発投資熱が高まると見られます。
―在任中に経験された大きな出来事はありますか。
2019年末頃からコロナウィルスが世界を席巻する中、ギニアでは、アルファ・コンデ大統領が憲法改正を行い、自ら3期目の就任を可能としたことにより、反体制野党、市民社会団体が強く反発する中、2021年9月5日(日)午前にクーデターが発生しました。
当日は日曜日であり、私を含め館員と家族は自宅で過ごしておりましたが、午前8時過ぎ頃、市の中心部に向かうロータリー付近で重火器を使用した交戦が開始され、1キロ以上離れた公邸にも激しい銃声音が聞こえて来ました。第一報は、上記ロータリー付近に住む大使館の現地職員から私に交戦の模様について電話で報告があったので、直ちに対策本部を立ち上げ、大使館職員の連絡体制を確立し、外務本省と連絡を取るとともに、体制表を基に現場の情報収集と在留邦人の安否確認作業を開始しました。
当時、ギニア国内には定住の方、開発協力事業のため滞在する企業の方々、JICA職員と大使館職員及び家族で約70名の在留邦人が居住していましたが、事前の準備もあり、領事が中心となり対応を急いだ結果、当日午前11時過ぎには全員の安全を確認することができました。
情勢については、政務担当書記官が外国公館との連絡を担ったほか、私は米国及びフランスの臨時代理大使と連絡を取り、情勢の確認に努めました。午後を過ぎると、クーデターの首班が軍特殊部隊のリーダーであるドゥンブヤ大佐であることがテレビ報道等で公表され、アルファ・コンデ大統領は拘束され、クーデターがほぼ成功したことが判明し、夕方には銃声も収まり短期間で平静に戻りました。
その後、夜間外出禁止令が出され、政権を押さえた軍当局から次々と政令が発出されましたが、領事メールで在留邦人の皆様に情報を提供し、邦人の皆様も冷静に対応した結果、大きな被害は発生せず、安全にクーデターとその後数日を過ごすことができました。
―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。
まさに、邦人の安全確保です。2019年1月末に着任した後、情報を収集するに連れて、長期化したアルファ・コンデ政権がクーデター等により崩壊する可能性も排除されないと観測されましたので、緊急事態に備えた在留邦人の安全確保を確実にするため、以下の準備を整えました。
(1)在留邦人の住所を確認できる地図の作成:ギニアには住所地番がないため、在留邦人の居住地を絵で示す地図を作成し、館員で共有しました。緊急事態時に直接邦人の救出が必要となった場合、この地図を目安に館用車を派遣するために作成しました。
(2)館員のVISA(在留期間)延長:ギニアでの外交・公用の査証への滞在期間は、従来1年間毎の更新でしたが、政変が発生した場合、長期間に渡り行政手続きが滞る可能性があり、大使館の外交活動に支障が出るおそれがあると考え、ギニア外務省と交渉して2年間の在留期間に変更し取得することができました。これにより、業務の自由度が拡がりました。
(3)館員住居の大使館事務所近くへの転居:館員宿舎の配置についても、緊急事態を想定した見直しを実施しました。領事・警備担当官が大使館事務所から最も遠方に住んでいたため、より大使館事務所へ近い地域への転居を促しました。運よく同担当官が転居を完了した約2ヶ月後にクーデターが発生したこともあり、邦人保護業務と館員間の連絡がスムーズに実施されました。
―ギニアと日本との関係はいかがですか。また、勤務を通じて感じられたギニアの課題は何ですか。
日本は、ギニアに対する開発協力を通じて二国間関係を強化しており、特に、質の高いインフラ整備、人材育成、農業・食料及び保健等の「人間の安全保障」にかかわる分野の支援を実施してきています。2017年6月にアルファ・コンデ大統領がギニア元首としては初めて日本を訪問し、2019年8月にもTICAD7出席のため来日しており、近年日本とギニアは良好な関係を維持してきています。
他方で、ギニアでは独立後、今回を含め3回もクーデターにより政権交代が繰り返されたという歴史があります。時の大統領の政権運営に国民の不満が頂点に達した際に、往々にして軍部が武力で表舞台に出て来て「治世をリセットしてやり直す」と言った考えが、国内に定着している傾向があります。同時に、部族の対立構造が政治不安を招いてきたほか、「権力者とその取り巻き」が国の利益を独占する政権が長期化し、国民の貧富の格差が広がり、国民の不満と怒りを招き、政権末期に軍部の台頭を許す状況となってきました。そのため、ギニアの将来は国内にどのようにして「平和と安定」を定着させ、その上で、開発・発展への道に繋げていくかということが重要と考えられます。
最近、アフリカの国々の関心は「政府援助」から「企業による貿易と投資」へと変わってきており、アフリカの地域によっては、経済発展のための有効な経営モデルついても検討が盛んになされるようになってきていますが、少なくとも、ギニアは未だ同国独立時の60年以上前の政治的不安定の状況から脱却していないと見られますので、今後当面の間、ギニアに対する支援は「平和と安定」に寄与する分野を柱に据える必要があると考えています。
私としては、将来のギニアの発展を考える場合、ギニアの平和と安定の定着のために、(1)どのように紛争と対立を防ぎ、国民融和を進めるか、そして(2)正しく公平な国内政治を実現するために、強く信頼できる機構・組織をどのようにして設置するか、が課題であると考えます。機構・組織の設置のための方法やその機能が有効に維持されるための方法を含め、これら取り組みに対し、日本や国際社会から財政支援と技術支援を行うことにより、ギニアでグッド・ガバナンスが確立されるよう支えていくことが重要であると考えます。