<帰国大使は語る>小さな観光大国クロアチア
前駐クロアチア大使 嘉治美佐子
2019年5月から2022年4月まで駐クロアチア大使を務めて最近帰国した嘉治美佐子大使は、インタビューに応え、クロアチアの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。
―クロアチアはどんな国ですか。その魅力は何ですか。
ある夏の日、公邸のバトラーのIが、ちょっとはにかんだ様子で聞いてきました。マダム・アンバサダー、今度かその次の週末、うちに遊びに来られませんか?彼は勤務歴二十余年、公邸での晩餐や午餐の時は、黒いネクタイをして姿勢を正し、出すときは左から、下げるときは右から、きちんとサーブします。客の到着前には、ワイングラスやお皿の距離が均等になるようなセッティングにも余念がありません。普段は毎日公邸の床をモップで磨き上げています。 Iの配偶者のNも公邸職員で、コロンビア出身、Iがその昔船員だった時、その地に航海して出会ったそうです。Nはアイロンと染み抜きのプロで、おかげで私はシャキッとした服装で、行事や接宴に臨むことができました。Nも勤続二十年を迎えたので、外務大臣の賞状を手渡す簡単な儀式を、コロナ事情も改善したことから、離任前に大使館の執務室で行いました。大使館現地職員のMも、十年勤続で規定に従い大使名義で一緒に表彰しました。Mは毎朝、主要各紙の報道ぶりを英語で館員に解説する担当者です。
大使業務は英語でこなせますが、大使館の主戦力はやはりクロアチア語の専門官、私のような初心者は、家庭教師の遠隔個人授業を受けても、新聞がさっと読めるほどには追い付きません。各国大使等との情報・意見交換は英語でも、現地報道はクロアチア語です。クロアチアの政権中枢部に圧倒的にアクセスのあるドイツやフランスの大使、情報通のイスラエルの大使、ディアスポラ(在留自国人)を多数抱えるカナダの大使、こうした同僚たちと任国情勢について伍して懇談するには、日本の国力を背景にした見識を持ち合わせるのみならず、一定のエレガンスを備えて登壇するとともに、最新のニュースやその受け止めに接している必要があります。合同表彰式の挨拶では、NもMも、私の秘密兵器(シークレット・ウエポン)でした、と両人の功績を称えました。
クロアチアは九州の1.5倍の面積、イタリアの対岸にあるブーメラン型の国です。青く輝くアドリア海沿いには古代ギリシャ、ローマの遺跡も散在、これらを含めユネスコ世界遺産は七つを数え、世界中から観光客(2019年は延べ1700万人ということです)が訪れます。織りなす歴史がちりばめられた、海、島、山、湖、滝と、変化に富む美しい風景に季節を追って出会えることは、この国の大きな魅力です。真摯に仕事に取り組む人材に巡り合えたことも、また魅力であると感じました。
―在任中に経験された大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。
着任10か月後、これは世界中でのことですが、コロナの制約により、レセプションや人の往来など種々の外交の道具が大きく制約されるようになりました。クロアチアではさらに同じ2020年3月、140年ぶりの規模の地震がザグレブを襲い、痛ましいことに一人の柔道家の少女が犠牲になりました。この時、安倍総理大臣や茂木外務大臣(いずれも当時)、日クロアチア友好議員連盟の岸信夫事務局長からのお見舞いメッセージや日本企業からの支援のほか、山下全日本柔道連盟会長から、お悔やみのメッセージをいただきました。クロアチア柔道連盟会長のチョラク女史から、柔道家にとってヤマシタ師匠は英雄、特別に元気づけられました、との謝意表明がありました。同年12月にはさらに中部のシサク・モスラビナ県を地震が襲いました。国連の舞台でも世界の防災政策をリードしてきた日本の専門家の方々の登壇を得て、よりよい復興、Build Back Betterや、Disaster Risk Reduction の知見を、クロアチアの政府や専門家 に共有するウエブ会議を2021年春実施しました。復興作業の進展はゆっくりですが、こうしたインプットをフォローする形で複数の開発系銀行が大使館に相談して来るなど、支援プロジェクトも生まれつつあります。東日本大震災の十周年、ザグレブ地震の一周年の2021年3月には、過去十年毎年震災犠牲者のために追悼ミサをあげて下さったザグレブ大聖堂のクフティッチ神父に外務大臣表彰を伝達し、地震で損壊した大聖堂の一日も早い復興をお祈りしました。この大聖堂には、その後日本の企業家が来訪し地震速報装置 を設置して行かれました。
日本の国造りが自然災害に鍛えられてきたとすれば、クロアチアの国造りは戦争に鍛えられてきました。今年はクロアチア独立30周年ですが、クロアチア国のアイデンティティは千年以上さかのぼります。10世紀の中世クロアチア王国は短命に終わり、12世紀初頭から800年間はハンガリーに従属、15世紀後半からのオスマントルコの侵攻をせめぎ、18世紀後半はハプスブルク帝国に抵抗、世界大戦期にはセルビアやスロベニアと合同で国家形成が繰り返されるも、80年代以降ユーゴスラビアは解体に向かい、1991~1995年のクロアチア人が祖国戦争と呼ぶ市街戦を経て、また、1995年のデイトン合意に従い1998年に、版図を奪回して、現在に至っています。1991年に国連、2009年にNATO、2013年にEU加盟を果たし、本年2月のロシアのウクライナ侵略に対しても、西側の一員としての立ち位置を堅持しています。
戦後25年、戦争体験は国家の指導層の世代の記憶に新しいようです。ロシアのウクライナ侵攻のニュースが伝わると、デジャ・ヴュだとの反応が一般人からも聞かれました。日常が営まれている国土の別の個所で殺戮が展開、民族の違った国民が隣に住んでいる所に、一方に加担する民族が隣国より侵入する、というのは自分たちの体験と同じだ、と言うのです。
―クロアチアと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。
2019年夏、河野太郎大臣が日本の外務大臣として24年ぶりに来訪され、お父様の河野洋平大臣が1995年に来訪された際と同じクロアチア外務省の部屋で外相会談を実施しました。前回の外相会談は上記の戦闘前夜のことでした。この武力紛争は、どの「民族」も被害者であり加害者であったと評されています。そのような中、安保理決議に従い国連PKO(平和維持軍)を率いていた明石康氏に対しては、命を賭して戦っている相手との間で中立であろうとする国連の存在が愛でられるはずもなく、四半世紀後に称賛の言葉は聞かれなかったのです。ところがある日、クロアチア外務省の日本担当の女性職員が、私を訪ねて来て、父は彫刻家だったのですと言いつつ遺作の明石氏の肖像のレリーフをプレゼントしてくださいました。 戦争中、避難民支援のため防弾チョッキを着て現場に展開したUNHCRを率いていたのは緒方貞子氏でした。当時の外務大臣だったマテ・グラニッチ現首相顧問の回顧録には、緒方高等弁務官が写真付きで掲載されています。さらに、難民を助ける会やJENなどの日本のNGOが紛争被害者を支援、人心に日本の足跡を残しています。
戦後復興の過程では、日本政府は地域社会の教育、医療機関などを対象に、草の根・人間の安全保障無償資金協力や技術協力総計約20億円を供与、平和構築に寄与しました。クロアチアがEUに加盟した2013年以降は、貿易投資を促進しよう、という環境に変りました。統計的には、日本の対クロアチア投資も貿易も、世界全体からの投資や貿易の1パーセントにも満たないのが現状です。他方、2019年には租税協定や日本とEUのEPA(経済連携協定)が発効、クロアチア議会はSPA(戦略的パートナーシップ協定)を承認しましたし、航空協定交渉もコロナ明けに再開し締結の見通しが見えてくるなど、環境は整って来ています。伝統的なマグロの畜養に加え、矢崎総業や日立のような世界展開する日本の大企業が拠点の一つにクロアチアを選んで来ていることに、経済関係拡大の潜在性が看られます。
―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。
2018年のサッカー・ワールドカップで準優勝するなど、人口4百万のクロアチアは驚くべきスポーツ大国です。オリンピック・パラリンピック2020東京大会が1年延期となる過程では、開催自体が不確実な状況下にあっても超人的な情熱と克己心を維持して東京大会に臨んだアスリートたちに、私は直に接することができました。東京大会でテニス男子ダブルスは金銀ともにクロアチアがメダル獲得、体操男子で橋本選手に下され銀メダルとなったのはクロアチアのティン選手です。東京大会に向けては、コロナ前から、コロナ中もこれをかいくぐり、マテシャ・オリンピック委員会会長、コバチッチ・パラリンピック委員会会長と、緊密に協働しました。毎年秋に大使館が主催するジャパン・デーでは、コロナ前の2019年は、囲碁や盆栽といった伝統的行事に加え、オリンピック・パラリンピックを主要テーマとし、1964年東京大会に参加したアスリートを招待した他、視覚障害者の実体験ができるパラボックスも設置、温故知新、障碍者に優しい社会への志向を強調出来ました。年末にはチリッチ選手もティン選手も公邸にお呼びして、手巻きずしの製作とお茶のお点前をそれぞれ体験いただきました。また、延期されたオリンピックに向けては俳句のコンテスト、大会中は国営放送で(N)Ippon! と題する日本特集番組、2021年8月には、パラアスリートの参集したコロシアムがシンボルカラーの紫色にライトアップされるイベント 、などなど、共通の大義の推進と両国関係促進の相互補完・同時進行のパターンです。
さらにクロアチアは柔道、空手、テコンドーといったオリンピック競技でメダリストを輩出しているのみならず、私がテニスコートで出会った青年が剣道をたしなみ、講師もいない状況で20年間道場を伝承して来たことが発覚、こちらも大使館から表彰状を差し上げて、日本文化の普及への貢献を祝したのでした。ここ数年、クロアチアの国立劇場での日本のバレリーナたちの活躍が顕著であることにも付言しておきましょう。花束を持って応援に行きました。
―在外勤務を通じて強く感じられたことはありますか。
外交活動のシークレットでないウエポンは公邸料理人でした。幸い公邸には大きめの食堂のあるアネックスがあり、コロナの制約下でも、互い違いに席を設定するなどして、ディナーやランチを主催することができました。外交団長のヌンシオ(バチカンの大使)は、主催の離任大使向けレセプションで、誰もがその恩恵に与った日本大使公邸の日本料理が、外交コミュニティーの絆を保持してくれました、とのはなむけの言葉をくださいました。
ささやかながらも実績を上げられたとすれば、それは、料理人含め、個性的で有能な人員に支えられていたために他なりません。大使運転手のGZは寡黙な養蜂家、次席運転手のDはちょい悪おやじの風貌で車のことならプロ、三人目の運転手のZはクロアチア語大使館ホームページも担当、大使アシスタントのMLはこんなに送別挨拶や送別会をこなせるだろうかとへこたれそうになった時も、やらんとあかん、任せなさいと私を叱咤激励、経理担当のGPは、鍵が壊れても電話が壊れても直せるハンディーマン、受付のLは生け花カレンダー配布大作戦の総司令官、文化担当のTは日本語堪能で物腰も日本人、領事警備担当IVは任国警察当局に、経理担当IJは任国行政当局に、話をつけるのが早い、清掃要員のMGはコロナ前から、ちり一つ見逃さない完璧主義者、派遣警備会社のSTは、来訪者の情報を耳元でささやいてくれるベテラン。勤続年数を基礎とする訪日研修制度は、大使館の総合力の強化と、任国の対日理解、双方の観点から拡充して然るべきだと思います。
コロナ下での在外勤務は、言うまでもなく館員とその家族にとっては、挑戦の多い環境でした。ピーク時には二つのティームに分かれて交代で出勤、半数はテレワーク、その中で、とにもかくにも館の業務が回ったのは、現地職員を含めた館員とその家族の間で、相互の信頼関係があったからこそだと実感していました。お料理の飛び切り上手な館員夫人、医療の心得のある館員夫人、テニスを教えられる専門調査員、テック・サヴィイな派遣員、着付けのできる研修員、こうした存在がいかに心強いか、もし読者が小さな館の館長を経験しておられれば、お察しいただけると思います。
IとNは、毎日小一時間車を飛ばして公邸に通勤していました。招待を受け、料理人夫妻とともにザグレブ郊外の彼らの家を訪ねました。庭にはサクランボの木があり、近くにワイン畑をいただく緑の山々、平和を満喫している村の生活が息づいていました。その午後は癒しのバーベキューを堪能しました。