<帰国大使は語る>おもてなしが光る中央アジアの国・タジキスタン
前駐タジキスタン大使 宮下孝之
タジキスタンは中央アジアの最南端にある国ですが、残念ながら日本ではこの国の魅力が余りよく知られていません。アフガニスタンに隣接していることから、最近ではアフガニスタン情勢との関連で、国内外のニュースでも取り上げられることが増えました。今日は、2019年11月から2年2か月に亘りタジキスタンの首都ドゥシャンベに駐在し、タジキスタン及び周辺国の情勢を定点観測されてきた宮下大使が帰国されたので、この機会にお話を伺いました。
―タジキスタンはどんな国ですか。その魅力は何ですか。
タジキスタンは、中央アジアで唯一、独立(1991年)後に内戦を経験した国ですが、ラフモン大統領の安定重視の国家運営が功を奏し、内戦後は平均年率7%の経済成長を達成、他の中央アジア諸国と比べても遜色のない国に成長しました。国土の93%が山岳地帯ですが、ここには無数の氷河があり、水資源は豊富です。電力は90%以上が水力由来であり、現在ではアフガニスタン、ウズベキスタン、キルギスなど周辺国にも輸出しています。また、この山岳地帯には、金、銀、レアメタルなどの鉱脈があり、現在は主として中国企業が採掘を行っています。特に金は主要輸出品目のひとつで、興味深いことにスイスが最大の輸入国です。他にも国内には手つかずの莫大な天然資源が眠っていると言われており、その意味でもタジキスタンは「可能性の宝庫」と言ってよいでしょう。
―「パミール高原」という地名は聞いたことがありますが、どのようなところですか。
国土のほとんどが山岳地帯であることは述べましたが、ここには標高7000メートル級の山々が連なっています。この山岳地帯の東側一帯が「パミール高原」と呼ばれている地域です。ここは、実は急峻な山々が連なる場所なのですが、いつの頃からか日本では「パミール高原」と呼ばれるようになりました。日本語で「高原」と聞くと、標高が1000から1500メートル程度で、緑の草原が地平線まで続いているような風景を思い浮かべると思います。しかし、実際にパミールにあるムルガブという街に行ってみて驚きましたが、そこは辺り一面、岩山と土獏に覆われたような場所で、緑はほとんどありません。気候条件が厳しく、生育可能な植物も限られているからです。現地に降り立ってみて、まるで月面にでも着陸したような感じがしました。標高は4000メートルを越えており、富士山の頂上よりも高いところにある街です。しかし、そこにも人々が住んでいます。農業にも適さない場所なので、牧畜などで生計を立てるしかありません。それでも人々は力強く生きています。富士山の山頂よりも標高が高いので、酸素の濃度も薄く、体が現地の環境に適応するまで一定の時間を要します。私の場合、現地到着の2時間後に診療所(草の根無償案件)の引渡式が予定されていたので、頭痛と闘いながらフラフラの状態でスピーチを行いました。しかし、その日の夜に「世界の屋根」とも呼ばれるパミールの山頂で見た「満天の星空」こそ、決して忘れることのできない、私にとって非常に印象深い思い出です。陸路で片道3日かけてパミール山頂の街ムルガブに到達するまでは本当に大変でしたが、それだけの価値のある星空でした。
―アフガン情勢は依然不透明ですが、タジキスタン国内は危なくないのですか。
昨年8月15日のタリバーンによるカブール制圧以来、タジキスタンを含む中央アジア諸国はアフガン情勢から大きな影響を受け続けていますが、結論から言えば、タジキスタン情勢は、現在のところロシア軍などの支援も受けつつ国境警備が強化されているので、引き続き安定しており、国内治安情勢に大きな変化は見られません。在留邦人も普段どおりの生活を続けています。
但し、このことはアフガニスタンとの国境が8月以降閉鎖されていることの裏返しであって、仮に今後国境を越えて大量の難民が流入することにでもなれば、状況が一変する可能性はあります。なお、この国境地帯で不測の事態が発生すれば、ロシアを中心とするCSTO(旧ソ連6か国による集団安全保障条約機構)が、このタジク・アフガン国境で集団的自衛権を行使する取り決めになっています。
―アフガン情勢はタジキスタンにどのような影響を与えていますか。
地図をご覧いただけると分かりやすいのですが、タジキスタンとアフガニスタンは1400キロに及ぶ国境で接しています。この両国は、歴史的にも文化的にも非常に近い関係にあります。特にアフガニスタン北部とタジキスタンとは、かつて同じ文明圏に属していたことがあり、現在もアフガニスタン国内には多くにタジク系住民が住んでいます。彼らは相互に意思疎通が可能な言語を使っていて、非常に親和性が高いのです。
昨年8月にタリバーンがアフガニスタン全土を制圧した際、パシュトゥーン人を中心とするタリバーンがタジク系住民に対し迫害を続けているというニュースがタジキスタン国内で大きく報じられました。これはタジク国民にとっては自分自身への迫害に等しく、許し難いと感じた人が多かったことは間違いありません。また、かつてタジキスタンの内戦の際、多くのタジク人がアフガニスタンに逃れ、アフガニスタンで保護されたという歴史的事実もあります。アフガニスタンに住む同胞に「あの時の恩返し」をしなければならない、「同胞が苦境にあるのに見捨てることはできない」、更には「現地に行って同胞たるタジク系住民を助けたい」と思っているタジク人も少なくないと思われます。
しかしながら、時の経過とともにタジキスタン国内でも、アフガン危機に乗じて「テロリストが国境を越えて国内に侵入するかもしれない」という警戒心が高まってきています。現状、警戒心が同胞愛を上回る状況になっているように思います。それでもタジク人の中には、心情的には、反タリバーン抵抗勢力を支援したい、と思っている人が少なくないように思われます。
こうした中、タジキスタン政府は、タリバーンを巡る国際世論の最近の変化も受けて、昨年12月21日に行われたラフモン大統領の年次教書演説では、これまでのタジキスタン政府の基本的立場を微妙に修正しました。この演説では、これまでのような「タリバーンはテロリストであり対話も交渉もしない」という言い回しは一切なく、タリバーンに対する批判どころか、そもそもタリバーンへの言及すらありませんでした。また「アフガニスタンに対する内政干渉は行わない」旨明言したこと、タジキスタン政府としては、アフガニスタンへの人道援助物資の輸送オペレーションに特化する旨強調したことが注目されます。
最近では、タリバーンによるタジク系同胞への迫害のニュースは国内では余り報道されなくなりました。タリバーン自体がタジク人にとって、単純な「テロリスト」ではなく、理解することが簡単でない組織に変容しつつあることも背景にあるのでしょうが、国内でタリバーンの名前を聞くことも少なくなったような気がします。それでもタジク人にとってタリバーンは共通の敵であり続けているのだろうと思います。共通の敵に対抗するためにはタジク人は団結しなければならないと思っている人はむしろ増えているように感じられます。そして、タジキスタンに住むタジク人は、アフガニスタンにおける人道危機が報じられる度に、アフガニスタンに住む同胞を思い、「タジク人」としての団結心を強めているように感じられます。また、こうした「タジク人」としての意識の高まりとも相俟って、タジキスタン国内での国民の一体感も、これまでになく高まっているように感じられます。
―タジキスタンと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。
二国間関係は極めて良好です。最近では2015年には安倍総理(当時)がタジキスタンを訪問し、2018年にはラフモン大統領が訪日するなど、ハイレベルでの要人往来が続いています。また、過去20年に亘り日本政府が地道に実施してきた開発援助が大きな成果を挙げています。過去20年の間に、両国関係が「タジキスタン政府が日本政府の外交政策を常に支持してくれる関係」にまで高まってくれていることは、本当に有難いことです。まさに「日本大使冥利に尽きる」ことでした。
ここで特に指摘したいのは、タジキスタンには日本で勉強した公務員が多数活躍していて、国の発展の原動力になっていることです。例えば、JICAの帰国研修員は総勢2000名を越えており、副首相、閣僚、各省副大臣を始め、各省庁幹部職員、地方政府幹部にも、JICA帰国研修員の名前が散見されます。また、文部科学省の国費留学生や「人材育成奨学計画(JDS)」による留学生など、タジク政府の中では、日本留学組がその影響力を強めています。例えば、JDSの6期生として大分県にある立命館アジア太平洋大学(APU)に留学したシリン・アマンゾーダ氏(女性)は、2020年11月の組閣で労働大臣に抜擢されました。その他にも日本留学組が、最近相次いで政府内の要職を占めるようになっています。
こうした日本留学組は、政府内部で普段から強固な両国関係を支えてくれていますが、それ以外のタジク人でも日本に興味を持ち、日本語を勉強する人が少なくないことは日本大使館にとって大きな財産です。日本語学科を持つ大学が国内に3校あり、さらに私立の日本語学校もあります。また、タジキスタンの留学生には、家族を連れて日本で勉強するケースが多いことも指摘しておきたいと思います。この留学生の子供たちの日本語能力には驚かせられます。子供たちは、日本滞在中に学校や幼稚園に通い、友人たちと日本語で遊びます。実は毎年、タジキスタンで「日本語スピーチコンテスト」が開催されていて、私も審査員として参加しました。日本語学科で普段勉強している学生のレベルが高いのはもちろんですが、10歳ぐらいの小さな子供が、素晴らしい発音でスピーチをするのには本当に驚かされました。
このように両国関係を支える基盤となる人材は、タジキスタン側では驚くほど厚いのです。政府要職に日本留学組が増えていることは既に述べましたが、日本留学組がリーダーシップを取るようになった組織では、仕事のやり方も変わり、業務効率が上がっていることが肌で感じられます。こうした優秀な人材が力を合わせて、日本での経験を生かしてタジキスタンの国造りを担っていけば、この国の将来展望は明るいと思います。これからの日本とタジキスタンとの二国間関係も、こうした人材に支えられて、益々発展していくことを期待したいと思います。
―2年間の勤務を振り返って、何が一番印象的でしたか。
私がタジキスタンに駐在したのは約2年ですが、そのうち約1年間はCOVID19感染症の直撃を受けました。2020年の3月から約半年間に亘り、タジキスタン政府は、感染防止のために陸の国境も国際空港も完全閉鎖したため、タジキスタンは本当の意味で「陸の孤島」でした。この半年間に味わった孤立感は言葉では表現できないほど辛いものでしたが、長い目で見ると、実はこの鎖国政策が功を奏したようで、2020年末までにタジキスタンでのコロナウイルス感染症は、ほぼ終息しました。2021年の前半6か月は、新規感染者ゼロが続きました。その中で、COVAXファシリティーなどによりファイザー、モデルナを含む数種類のワクチンが大量に供与されました。2021年秋頃には、首都ドゥシャンベについて言えば、ほぼ100%の市民がワクチン接種済という状況になりました。
感染状況の改善を受けて私は、2021年の1年間で、一気に2年分の仕事を「アクセル全開」で片付けました。特に草の根無償案件について言えば、1年間で22件の引渡式を行い、20件の贈与契約(G/C)署名を行うことができました。もちろんこれ以外にも「人材育成奨学計画(JDS)」の交換公文(E/N)を始め、少なからぬ件数のODA案件のE/N署名式や引渡式がありました。これほど多くの案件を僅かな1年の間に実施できたことは、実に感慨深いことであり、極めて印象深いことでした。
特に草の根無償案件の引渡式で忘れられないのは、いつも現地住民の皆さんの最大級の歓迎と笑顔に囲まれることです。自分のやった仕事が、多くの人々の笑顔となって自分のところに戻ってくる、これほど嬉しいことはありません。私は任期中、幸運にも全ての引渡式に出席できたおかげで、国内ほぼ全ての地域を訪問することができました。嬉しいことに、どこを訪ねても最大級の歓迎を受けました。これまで私は、「日本人のおもてなしは世界一」だと思い込んでいたのですが、タジキスタンでこの考えを改めました。後になって知ったことですが、タジキスタンだけでなく中央アジア一帯では「客人は神が遣わした使者」として遇する伝統があり、どこでも客人は最大限の歓迎を受けるようなのです。これまで私の任期中の出来事で印象的だったことを長々と述べてきましたが、その中で特に何が印象的だったか、と問われれば、それはやはり「日々懸命に生きるタジキスタンの人々の姿」である、と答えたいと思います。