(コロナ特集)Covid-19が思い出させてくれた日本とインドネシアの関係
駐インドネシア大使 石井正文
はじめに
インドネシアのコロナ感染状況は引き続き厳しく、現時点で対策が功を奏しているとはなかなか言いがたい。本稿執筆の8月初旬時点では、累計感染者数は12万人程度で、毎日2千人程度増加。感染者数では人口で半分未満のフィリピンに東南アジアでの首位を遂に譲ったとは言え、状況が厳しいことに変わりはない。実は、人口あたりの毎日の新規感染者の数では、最近はインドネシアの人口の半分程度の日本の方が上を行くのだが、インドネシアでは死者数が5千人を越えているのが深刻である。
当国のコロナ対策は悲喜こもごも。一定の強制力を持つ行動制限は日本に先駆けて導入されたし、PCRテストは日本以上に柔軟かつ広範囲に実施されてきている。非接触型に改造されたエレベーターも多数見られるし、ショッピングモールに入る際に検温のみならずQRコードで連絡先を登録するシステムなど、スイスイと導入される。一方、地元のテレビを見ていると、行動制限のさなかに地元の市場では三密の極みのような状況が繰り広げられているし、一端少しだけでも行動制限が緩和されるや否や、あの懐かしい町中の渋滞が戻ってくる。
このように未だコロナ真っ最中であり、コロナとの向き合い方を包括的に議論するのは、時期尚早なので、本稿では、ここ半年程度当地でコロナと共に生きてきて経験したちょっとしたことを、オムニバス風に紹介することにしたい。
1.「いじめ」への対応
不思議な話だが、インドネシアで最初の感染者が公式に発表されたのは3月2日と、他国に比べて相当遅かった。実際は既に感染者がいるのでは無いかという噂も多かったが、テラワン保健大臣が冗談で「皆が真剣にお祈りしているお陰だ。」言ったことが報じられたりしていた。
しかし、その日は遂にやってきた。そして、最初のインドネシアでの感染者は「マレーシア在住でインドネシアを訪問していた日本人(マレーシアに帰国後発症)と接触した」インドネシア人だと、ジョコウィ大統領自らが発表したのである。日本人から感染したとは必ずしも証明されていないのだが、当地でのインパクトは大きかった。そして、それ以降、日本人を指さして「コロナ」とからかったり、ビル入館に際してパスポートの提示を求められ日本人だと分かると入館を拒否されたり、日本人がレストランに入ると周りのインドネシア人がテーブルを移動したりと、色々な「いじめ」についての噂が流れるようになったのである。
この状況を受け、大使館では、まずは在留邦人の方々の声を直接聞くために、3月5日に、いじめに関連する苦情などを受け付けるためのメールによる相談窓口を開設した。週末を挟んで3月9日時点で10件以上の具体的な苦情が寄せられたことから、インドネシア外務省に善処を申し入れると共に、翌10日には、インドネシア国民向けに、在留邦人はインドネシアの友人で有り、いじめは残念な出来事であることを指摘し、両国で共にこの難局を乗り切っていくよう呼びかける私の動画メッセージを、インスタグラムとフェイスブックに投稿。インスタグラムでは約6万5000回以上視聴された。
これに対して、インドネシア外務省は、いじめを戒めるメッセージを出してくれた。在日インドネシア大使館も、同様のメッセージを日本人向けに出してくれたのは、非常に嬉しかった。
このような場合にSNSを使うことについては色々な意見もあったが、折角日頃から充実に努めている媒体をこの大事な時に使わずして何時使う、という当館関係者の決断は、正しかったと思う。
2.綱渡りと日本への配慮
日本は、インドネシア人を含む外国人の入国を原則禁止しており、漸く最近になって、在留資格を持ち日本の水際措置導入前に再入国許可を得て一時的に国外に出た外国人の再入国を限定的に認めるようになったが、インドネシアは、当初から、インドネシア滞在資格を持つ外国人(日本人も含む。)の再入国は認めてきたし、日本とインドネシアの間の直行便はコロナが問題になって以降も止まったことは無く、現在でも週9便運航されている。これは、日本のビジネスマンの活動がインドネシア経済にとって重要だという認識があるからだと思う。
一方、実際には色々綱渡りの局面があった。例えば、5月8日金曜日午後になって突然、翌日からPCR検査の陰性証明書を持たない外国人は、直行便の乗務員を含めて、インドネシアに入国できないことになる、という情報が入った。調べてみると確かにその方向でインドネシア政府は動いているらしい。当時日本では、PCR検査を受けられるのは医療上の必要性が認められる人に限定されていたので、健康な人が検査を受ける可能性は皆無に等しかった。ということは、噂通りの規制が導入された場合は、日本人のインドネシア来訪は不可能になるし、直行便もキャンセルになるかもしれなかった。
そこからインドネシア政府への働きかけが始まった。大使館員で手分けして、閣僚レベルから総局長・局長レベルへ必死のアプローチ。漸く、日本人への特例として、直行便乗務員は諸検査を免除、日本人は到着後の抗体検査で陰性の場合は入国可(その後、PCR陰性検査結果持参か、到着後のPCR検査と陰性確認までのホテル待機に変更)となり、ほどなくそれを示す書面も整った。他にも色々な綱渡りをしたが、これがインドネシアでは日常なのだ。
3.初めて知った依存関係
このような事態になって初めて分かることも有る。感染症の際に最も必要になるのが個人防護具(PPE)。実は、この内「術衣」については、日本の国内需要の約40%を一つの日本の会社がインドネシアで生産していたのである。
当然インドネシアでも、術衣への緊急需要があった。実は、同様の状況にあった韓国がPPEを自国へ輸出しようとしたのに対しインドネシア側から待ったがかかり、種々交渉の末、韓国からインドネシアに輸出されていた術衣の原料の輸出量を増加し、インドネシアにある韓国系会社が製造を大幅に増加することと引き換えに、輸出が認められたそうである。その後に日本が術衣の輸出申請をしたのだが、その時点でインドネシア政府は、PPEについてはその50%を国内に供給しなければ輸出を認めない、との趣旨の法令の導入を議論していたのである。
日本で術衣供給がひっ迫する中で、インドネシア側との待ったなしの交渉となった。詳細は省くが、ともかく、紆余曲折の末、最終的には何とか当面は50%を上回る数を日本に輸出できることになった。なお、術衣の生地はサウジアラビアから、更にその原料となる不織布は中国から来ており、複雑なサプライチェーンの一端を垣間見た気がした。
今回のコロナの重要な教訓の一つは、枢要物品について過度に単一供給ソースに頼らないように供給ルートを多様化することだろう。正に、その必要性を身をもって感じた数日間だった。ちなみに、その後、インドネシア国内での術衣の需要は思ったほど伸びず、日本企業の術衣輸出への制約も基本的には無くなった。これも、ご愛敬。
4.口を開けて待つ
サプライチェーン多様化努力の一環として、経済産業省は、製造拠点を外国から日本、または、第三国へ展開することを促進する補助金を創設した。既に7月の最初のラウンドで、87件約700億円の補助対象事業が特定されている。
インドネシア政府の動きは速かった。この補助金の存在が報道されるや否や、日本政府へ、内容の確認と共に、日本企業が移転先としてインドネシアを選ぶことに対する強い関心の表明があった。
しかし物事は簡単ではない。当方からは、同じ要請はベトナムやタイなどその他の国からも寄せられているので、この機会にインドネシア政府が投資環境改善努力をすることを具体的に示さないと競争に勝てないことを、やんわりと指摘した。
インドネシアでは現在、投資環境改善のために各種規制をまとめて緩和する「オムニバス法案」が国会で審議中であり、それなりの努力をしている。しかし、このコロナの事態で、国会での審議は早まるというよりは遅くなっているのは残念である。結果として、既述の第一ラウンドで補助金の対象となったインドネシアへの設備投資事業は、海外展開30件中1件に留まった。東南アジアでの競争は激しい。インドネシアも十分承知してはいるが、口を開けて待っているだけではだめなのである。
5.少し残念なこと
最後に、少し残念なことを二つ。
第一に、日本は、コロナに際して国際機関経由であると二国間であるとを問わず、各国に相当の支援をしているのだが、それに対しては、国内的には厳しい意見も多く、結果として、支援の対外広報に若干及び腰になっている。日本での厳しい状況は理解できないわけではないが、これは、在外にいる身としては、とても残念なことである。先方当局者からは、とてもとても感謝されているだけに、それを必ずしも十分な数の人に知ってもらうように努力できない自分に忸怩たる思いもある。「やるからには感謝されるべし。」この基本に立ち戻れないものか。
第二に、日本は、水際対策を重視するあまりに、大事な友人を失っている。最も典型的な例が、日本への国費留学生である。厳しい競争に勝ち残り国費留学生として来日が決まった直後に、日本への入国が不可能となった、というタイミングも悪かった。日本に到着しないと奨学金は支給されない。特に大学院への入学が決まっていた人たちは、訪日に備え元々の勤務先を辞めた人も多く、収入が断たれて厳しい状況に直面しているという話も聞く。彼ら、彼女らは、本来、一番の日本シンパになる人たちである。日本は、その人たちの心を失っているということを十分頭に置いて、現場に即した柔軟な対応が取られるように、引き続き期待したい。