(コロナ特集)新型コロナウィルスとシンガポール


駐シンガポール大使 山崎 純

 シンガポールは1965年の独立以来、常に、その国家存続は所与ではないとの強い危機感を持って成長・進化を遂げて来た。年初以来の新型コロナウィルスとの闘いもまたこのモードで取り組んでいる。まだ現在進行形である。これがどういうことかにつき、いくつかのことに触れつつ述べてみたい(本稿執筆は9月中旬)。

1.存続をかけて
 1965年にマレーシアから分かれて独立した、東京23区とほぼ同じ面積で天然資源もなく、国内市場も限られ、周辺国も必ずしも当時友好的でなかった、複数民族・宗教の国民により構成された国家という条件のシンガポールが、存続して行けるかにつき、懐疑的な見方をする人たちが存在した。しかし、リー・クアンユー初代首相とその側近たちは、この逆境の中でも国民が団結して知恵と工夫を凝らし努力すれば必ず成功すると国民を奮い立たせ、国民の教育、工業化、公共住宅建設、都市インフラ整備、国軍創設などを進め、予想を裏切り、その後のゴー・チョクトン首相、現リー・シェンロン首相の時代も通じ大きく発展を遂げた。この間、アジア経済危機、リーマン・ショック、また、感染症ではSARSなどの幾多の経験を経たが、その都度、海外とのヒト、モノ、サービス、カネの流通により始めて成り立つこの国の構造を踏まえた立て直しを図りつつ、更に上を行く経済を構築することに成功するという経験を繰り返して来た。そこでは、シンガポールの脆弱性を踏まえつつ、でも、世界と繋がることから来る強みを生かして来た。

2.感染症への対応
 そのようなシンガポールで、今回の新型コロナウィルスの初めての市中感染が2月に確認されると、シンガポール政府は、直ちに、2月7日、感染症警戒レベルを4段階中の3に引き上げると共に、不要不急の大規模イベント中止・延期勧告、職場における健康チェック実施勧告、企業における事業継続計画の策定指示、3月末まで学校における校内・校外での行事の停止、プリスクールや高齢者施設での来訪者制限などを実施。日本大使館としても2月末に1000名に近い規模での天皇誕生日レセプションをホテルで開催予定であったが、シンガポール政府の強い危機感を持った対応を受け、その実施を見合わせた。
 3月中旬以降に輸入症例の増加に伴い市中感染も急増したことから、3月24日より、シンガポール政府は、シンガポール国民・永住者・長期ビザ保持者を除き入国を禁止。ただ長期ビザ保持者も大半を占める労働ビザ保持者は保健医療や運輸等エッセンシャルな業種以外入国不可。また、同じく3月24日より、病院のキャパシティ確保のため快復途上者(治療の必要性が低いものの引き続きウィルス陽性者)向け隔離施設の運用開始。4月10日より、全ての帰国者は帰国後14日間の隔離(Stay Home Notice)を家族と離れて指定ホテルで受けることが義務化。一方、この頃、約32万人の外国人労働者が居住するドミトリーと呼ばれる宿舎での集団感染が発生し、これらドミトリーを隔離地域に指定すると共に、政府による食料や医療の支援を開始。ドミトリーは一般社会から完全隔離して居住者を全員検査(この検査は8月上旬終了)。
 このようなドミトリーでの状況やシンガポール全体での医療状況の逼迫も受けて、政府は、4月7日から結局6月1日までの間、感染拡大を断ち切る「サーキット・ブレーカー」措置を導入することとなった。これは、(1)エッセンシャルな業種(食事・食料品関係、病院、電気・ガス、水道、交通、金融)やグローバルサプライチェーンを構成する企業以外の職場の閉鎖、(2)学校は在宅授業、(3)一般国民に対しては不要不急の外出をしないよう要請(食品・日用品の買い物や医療機関受診のみ可。同居していない親族と会うのは不可)という内容。また、マスクにつき、それまでの体調不良の時のみ着用との勧告を改め、居住者全員への再利用可能マスクの配布を開始。その一週間後からは外出時のマスク着用が義務化された。このような「サーキット・ブレーカー」措置(職場閉鎖措置や不要不急以外の外出抑制措置など)、そして原則外国からの入国を禁止する水際措置により、新型コロナウィルスの感染は相当に押さえ込まれ、5月下旬になると(ドミトリーにいる外国人労働者を除く)コミュニティーでの陽性者が平均で一日あたり5人という状況となったことから、6月2日以降「サーキット・ブレーカー」措置を解除し、その後の制限緩和は段階的に進める旨発表された。最初は、工場やオフィスの再開を許可(ただしテレワークやセーフディスタンシングは引き続き維持)、小中学校卒業学年生徒の通学再開、離れて暮らす親子、祖父母・孫の訪問(二人まで)を許可、宗教施設の再開(ただし家族での礼拝のみ)、結婚式・葬儀への参列(10人以下)等を許可といった措置がとられ、その後、徐々に、小売店・飲食店内での飲食・ジム等の再開、通学授業の全面再開、更には、一定の条件付きでの動物園・遊園地・カジノの再開、美術館・映画館の再開等が進んでいる。ただし、バーやナイトクラブ等はクラスターの原因となり得ることから引き続き営業が認められておらず、また、現在も、レストランでの6人以上の会食や自宅に6人以上客を招待することは法令違反となっている。

3.国民経済及び生活への影響
 上記の「サーキット・ブレーカー」措置を含む一連の措置によりシンガポール経済は大きな打撃を受け、2020年第2四半期のGDP成長率がシンガポール初の二桁マイナス成長(対前年同期比マイナス13.2%)、国民及び永住者の失業率は過去10年で最悪となる4.1%を記録。2020年の経済成長率予測は、1965年の独立以来史上最低のマイナス7%~マイナス5%となっている。このような状況を受け、シンガポール政府は、2月以来、4次にわたる経済対策で総計約1000億Sドル(GDPの約19%に相当)を投入し、国民・永住者に対する最大75%の給与補助や官民による10万人雇用創出プロジェクトを開始するなど国民の雇用の維持確保に焦点を当てた施策を進めている。8月には更に80億Sドルの追加予算手当を行った(ただし、そこで示された給与補助は業種により補助率に差を付けると共にこれまでより抑制された補助率となっている)。
 また、新型コロナウィルスを経験した社会での仕事の仕方がこれまでとは変わることを見込み、シンガポール経済が従来にも増して国際競争力を高めた形で立ち直ることを目指している。これまでもシンガポールはITを活用した企業を誘致・起業するなど積極的にデジタル経済の活性化に取り組んで来ており、ポストコロナ需要をシンガポールがどう取り込むかが注目される。ただし、シンガポールにおいて、観光業や航空関連産業(航空会社、空港運営会社、機体整備会社など)は、新型コロナに伴う水際措置(観光客は依然として入国出来ない状況にある)のため大きな打撃を受けており、この業界の先行きにはシンガポール政府としても関心を払わざるを得ないと思われる。
 一方、シンガポールは世界最大級のトランス・シップメント(コンテナ積み替え)量を誇るコンテナ港を有しており、新型コロナの下でもこの港湾管理分野は健在である。人の移動に制約がある中でも、モノの移動の分野でシンガポールは気を吐いていると言える。なお、食料自給率が10%のシンガポールでは、新型コロナの問題が顕在化した当初から食料を始めとした生活必需品の確保は、生存にかかわる問題であり、極めて真剣に対応がなされている。

4.総選挙
 新型コロナとは全く異なるタイムスケジュールの下で国民の関心を集めて来た案件として総選挙があった。制度上、2021年4月までに選挙を行う必要があったが、首相がいつでも解散権を行使出来ることから、今年のどこかで総選挙が行われるとの噂はかなり前から存在した。ところが新型コロナが今年始めから拡大するに至り選挙のタイミングがどうなるかが注目された。結局、選挙前の4度にわたる財政出動や6月上旬のサーキット・ブレーカー解除に伴う経済活動再開などの進展もあり、今後も続くコロナ禍との闘いにおいて与党が強いマンデートを得て政権運営を行う必要があると与党人民行動党が訴え、総選挙が7月10日に行われることとなった。結果は、全93議席中83議席を与党人民行動党(PAP)が獲得し、同党は手堅く勝利した。ただし、PAPの得票率が61.24%となり、過去最低得票率(2011年総選挙)と同程度まで落ち込んだことも注目を集めた。しかし、このレベルは他国の選挙と比べた場合堂々たるものと言える。選出された野党(労働者党)議員が前回選挙で6名であったものが10名に増えたということも注目を集めた。実際、リー・シェンロン首相は、投票結果が判明した直後の記者会見で、労働者党首をLeader of Oppositionとして扱うと発表し、シンガポール政治上、新しい時代の到来を告げるものと見られている。この選挙結果をどう評価するかは、今後シンガポール各層の意見を良く見極める必要があるが、新型コロナ対策を含めたこれまでの政権運営に対する若者を含めた有権者の評価と見ることが出来るかもしれない。

5.人の往来の再開
 シンガポールは、強力な新型コロナ対策を国内そして水際措置の両面でとって来ているが、これは外国との交易に大きく依存したシンガポール経済には極めて大きなマイナスの影響を与えることとなったため、労働ビザ保持者の入国許可を徐々に再開するとともに、ビジネスなどのエッセンシャルな人の往来につき、PCR検査実施、行動計画書の提出などの一定の条件を付した上で、例外的に認めて行くことを追求して来た。6月初旬から中国、8月からマレーシア、9月初頭から韓国等との間で、そのような制度の実施を徐々に始めている。更に、コロナウィルスの低リスク国であるとして、ニュージーランド及びブルネイからは、9月初頭から検査の実施をもって入国を認めている。
 日本の場合も、8月中旬に茂木外務大臣が、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大後、アジアで初の訪問国としてシンガポールを訪問され、バラクリシュナン外務大臣との間で、両国間で入国後14日間についても行動範囲を限定した型でビジネス活動が可能となる「ビジネストラック」と駐在員等を念頭に置いた「レジデンストラック」(入国後14日間の自宅等待機あり)について、9月の開始を目指すことで合意した。その後9月11日には「ビジネストラック」を9月18日から開始することが発表されている。

6.おわりに
 シンガポールにとっても新型コロナは極めて大きなインパクトを持って経済、政治、社会等あらゆる面を直撃している。良く言われるようにこのウィルスは分け隔てなく人間に影響を及ぼしており、社会の中の脆弱な部分を浮かび上がらせることとなった。シンガポールの場合、それはドミトリーに居住する外国人労働者、あるいは、外との持続的交易なくして成り立たない経済構造とも言える。新型コロナに対するワクチンあるいは治療薬が開発されるまでは、ウィルスと付き合いつつ生活や経済活動を行うことが求められている中で、シンガポールは、持ち前の強い危機意識に裏打ちされつつ、現在の逆境を乗り越えて行くものと確信している。そこでは、新しい大胆な発想も必要になるかもしれないが、シンガポールは独立当時を思い返しつつ前進していくものと思う。そのような中で、本稿紙面も限られているので詳しくは述べないが、日本が新型コロナという試練に立ち向かう上で、シンガポールはいろいろな意味で良きパートナーたり得ると考えている。