(コロナ特集)エジプトの「日本モデル」とツタンカーメン


駐エジプト大使 能化正樹

1.「エジプトは日本モデルでコロナに立ち向かう。」  
 エジプトでコロナの一日当たり新規感染確認者が1,500人、死者が80人前後を記録していた7月初め、ハーラ・ザーイド保健・人口大臣が発した意外な言葉である。そして、その後、感染者も死者も減り続け、8月に入り、新規感染者は100人台、死者は10-20人台で推移した。ただし、8月26日に新規感染者数が3週間ぶりに200人を超え、政府が改めて注意を呼びかけている。
 危機に際して人間や国の特徴が現れる。特にエジプトは、西のリビアと南のエチオピアとの関係で、安全保障上の危機も抱えていた。暑い夏に見えてきた、エジプトの姿と我が大使館の対応を紹介したい。

2.きっかけは中国 
 2月14日、中国から出張してきたビジネスマンと濃厚接触した中国人が当地の感染確認第1号となった。中国がウィルスを持ち込んだというイメージが広がってしまい、日本人まで嫌がらせを受ける事案が発生した。日本人であろうと中国人であろうと、こんな不合理は許されない。私から直ちにエジプト政府に対し再発防止を申し入れた。
 ただ、2月中に確認された感染者はこの一人だけで、深刻さはなかった。私自身、2月22日にはピラミッド・マラソンに参加したし、23日には天皇誕生日祝賀レセプションを主催して400名の方が公邸を来訪した。

3.焦点になった観光客と帰国支援
 3月7日に欧米の観光客から感染者が出たとの発表があり、雰囲気が変わった。
エジプトの遺跡と海洋リゾートには、世界中の観光客が押し寄せる。特に、すでにコロナが猛威を振るっていた欧州からの観光客については、彼らの安全だけでなく、感染源としても関心が集まった。
 3月11日の東日本大震災9周年を期して追悼コンサートを準備していたが、涙をのんで中止した。
 3月16日、エジプト政府は、突然、「予防措置」として三日後から国際便を停止すると発表した。
 翌日、夕食を共にしたアナーニー観光・考古大臣は、いきなりの措置を詫びつつ、「今年の観光客は五割増の勢いだったが、観光客と産業を守るためにやむを得ない。」と胸の内を語り、観光客の安全と帰国には全面協力すると約束した。
 欧州からの観光客の中に、「エジプトの方がまし」として滞在延長を望む者がいたのは皮肉であったが、日本大使館は、残された三日のうちに日本人観光客が無事帰国できるよう情報の収集と提供に努めた。幸い、旅行関係者の迅速な対応もあり、希望者のほとんどが帰国することができた。

4.「渡航中止勧告」と臨時帰国便の支援 
 その後もエジプトでは、総人口1億人に対し、新規感染者は一日当たり30-50人程度の緩やかな上昇であった。しかし、ナイル川のクルーズ船に乗った日本人が帰国後に感染が判明する例が相次ぎ、3月31日、外務省は、エジプトの感染症危険情報をレベル3(渡航中止勧告)に引き上げた。これを受け、在留邦人の帰国の動きが本格化した。カイロ日本人会が帰国便の準備を始め、日本大使館はこれを全館体制で支援した。日本人会は、当初、東京までの臨時直行便の手配を計画していたが、私からエジプトの航空会社社長に協力要請した際、直行便は高額になるので、LCC(格安航空便)でロンドンまでの臨時便を手配の上、ロンドンで日系航空会社の定期便に乗り換える案を薦められた。日本大使館が在留邦人に対して行った希望調査の結果も踏まえ、結局、日本人会もこの案を選択した。

 出発を見届けるまで安心できない時間が続いたが、4月16日の午後、100名以上の邦人が無事にカイロを飛び立った。ロンドンの乗り換えについては、在英大使館の支援の下、日系航空会社に丁寧に対応していただいた。邦人の方々にとって、乗換えは不安だし、肉体的にも厳しかったと思うが、運賃は日系航空会社に団体割引運賃を提案いただいたこともあり、臨時直行便で見込まれた額の三分の一程度におさまった。当地在留邦人をロンドンから日本まで安全に送り届けていただいた日系航空企業や、イースター休暇(英国)を挟む中で発券手続きに対応いただいた日系旅行企業、本件に協力いただいた皆様には、この場を借りてあらためて御礼申し上げたい。

5.感染拡大とエジプトの対応 
 4月になっても新規感染者数は100~200人台で、他の国の長期滞在者はテレワークを続けながら留まる場合が多かった。多くの日本人実務者が早々に帰国したことは、寂しくもあった。しかし、感染本格化の前に邦人保護の先手を打てたのは良かった。
 実際、その後、感染は徐々に拡大していく。5月24日には、ラマダン(断食月)が明け、集団の礼拝や会食が大々的に行われるイスラム教最大の年次行事が始まる。政府が集会や外出を控えるように呼び掛け、例年より静かになったものの、新規感染者数は、5月24日には752名、6月19日には最高の1774名に達し、その後も高水準で推移する。エジプトでは人と人の距離が近い。抱き合ってあいさつするし、顔を近づけて大きな声で議論し、マスクをつける習慣もない。感染予防策を徹底するのは容易ではない。

 入院者が増える一方で、献身的に奉仕してきた医療関係者の感染が拡大した。防護服の不足を訴える医療関係者が出勤を拒否する例が相次ぎ、緊張が高まった。エジプト政府は、徹底した予防措置を国民に呼びかけるとともに、医療関係者と対話し、大学病院や警察、軍の施設や要員も動員した。
そんな中、7月3日、ハーラ・ザーイド保健・人口大臣から「日本モデル」を採用するとの発言が聞かれた。彼女の言い分はこうだ。
 イタリア、フランス、スペイン、英国などは、PCR検査を大量に実施し、ロックダウンもしたが、膨大な死者が出た。他方、日本は、検査の対象者を絞り、限定的なロックダウンで、被害を抑えている。一番大事なのは死者の数を抑えることだ。我々は「日本モデル」に見習いたい。
 当時、エジプトは、欧米メディアから「PCR検査が少ないので感染確認が少ない。」「実際の感染者数は、発表よりはるかに多い。」と批判されていた。日本も同じような指摘を受けており、エジプトが反論材料として日本を持ち出したのは、私にとっては痛し痒しだった。ただ、エジプトでは日本ブランドの価値が高いし、国民皆保険など保健分野で緊密に協力してきている。保健大臣が日本に注目するのは自然だったのかもしれない。
 いずれにせよ、徐々に表れつつあった感染縮小は更に明確となり、新規感染者数は、三日後に1000名、三週間後には500名、一か月後には200名を切った。97名に達した一日当たり死者数も、1か月後には20名前後まで低下し、そのまま現在に至っている。

6.健闘する経済と前向きなエジプト人
 エジプトで目に付いたのが、底堅い経済である。IMFの見通しでは、成長率は2019/20、20/21両年度とも2%とプラス成長を維持し、21/22年度は6.5%に回復する。コロナの影響はもちろん大きいが、2016年以来の経済改革が奏功し、マクロ経済は世界でも有数のパフォーマンスである。
 エジプト政府は前広に手を打った。国際便停止を発表した3月16日の時点で、夜間外出禁止等の感染予防策と共に1000億エジプト・ポンド(19/20年度年間予算の6.4%相当)の緊急経済対策を発表し、その後も観光業界、中小企業、非正規雇用などの対策に次々取り組んだ。またIMFに掛け合って合計80億ドルの融資を取り付けるなど資金ギャップ対策も講じた。
 だからといって、国民一人一人が楽に暮らせるわけではない。非正規、日雇いを含め国民の生活を守るためには、経済を動かさざるを得ない。保健と経済の両立は各国が悩む点であるが、エジプトは、まだ感染が拡大していた6月1日から経済と社会活動を段階的に再開する方針を打ち出した。これは教科書通りの対応ではない。現に6月に入って感染はさらに拡大し、不安を感じなかったと言えばウソになる。しかし、6月半ばに感染カーブは右肩上がりから横ばいとなり、徐々に下降線を描いていく。
 なぜこうなったか、わからないことも多い。私の質問に対し、WHOのエジプト事務所長は、エジプト政府の対策を評価しながらも、感染縮小の原因については、欧米とはウィルスの型が異なる、BCG接種による抗体がある等の仮説があり、さらに研究が必要と答えた。エジプトは幸運なのかもしれない。
 エジプトの人口は1億人であり、累計死者数は5,317人(8月26日時点)である。人口比にすると欧米を大きく下回るし、地域大国であるイランやトルコと比べてかなり少ない。それでも日本の約五倍であり、重い数字である。身内が亡くなり、死に目にも会えず辛い思いをした方は多いはずである。
 それでも、多くのエジプト人から前向きな話を聞いたのがとても興味深かった。「デジタル化のチャンスだ」、「保健・医薬品産業が成長する」、「サプライチェーンの見直しで国産化を進める」、等々。人口が日本より少ないのに、年間出生者が約250万人と日本(約90万人)の3倍近い、若さのなせる業かもしれない。エジプトが「日本モデル」を使うというが、日本こそエジプトのどこか楽観的で前向きな姿勢に学ぶべき点があると思う。

7.内憂外患と危機管理
 コロナ感染が最悪だった6月、国際的緊張も高まっていた。
 西隣のリビアでは、エジプトが支援していた東部勢力が、トルコが支援する西部勢力の軍事攻勢に大きな撤退を強いられていた。エジプトにとってはテロの脅威拡大を意味する。22日、エルシーシ大統領は、リビアへの国境に近い空軍基地でリビア中部の町ジュフラと地中海岸のシルテを結ぶ線を「レッドライン」と形容し、これが侵された場合は軍事介入を辞さないと明言するに至った。
 また、南方からエジプトの水源の95%以上を供給するナイル川を巡り、エチオピアが「ルネサンス」と銘打った巨大な発電用ダムを建設し、エジプトと合意できなくても7月の雨季から水をせき止め始めると宣言した。
 エジプトからすれば、疫病に戦争と干ばつを加えた「三重苦」のような状態で、前代未聞の危機管理を迫られた。三つの危機は、その後も緊張度を下げながらも継続しているが、この間、国内は大きく乱れることなく推移してきた。欧米等のメディアは、言論の自由を抑圧していると批判的であるが、これだけの危機を、政府批判を噴出させることなくコントロールしてきたことは事実である。

8.エジプトの「マスク外交」
 この間の対外関係には興味深いものがあった。
まだ中国での感染が収まらず、エジプト自身が感染対策に奔走していた3月2日、責任者の保健大臣が、突然、支援物資を携えて中国を訪問した。これはエルシーシ大統領の指示に基づき、中国への連帯を示すとともに、コロナ対策のノウハウを得るというしたたかな行動であった。実際、その後、中国は、「エジプトは中国が困っている時に最初に手を差し伸べてくれた」と謝意を表明し、大量の医療物資を届け、専門家も派遣している。そしてエジプトの目玉事業である新首都建設では、中国企業がアフリカ一の高層ビルを始めとするビジネス地区の建設を続け、スエズ運河特区での投資も活性化させている。
 中国以外にも、米国、イタリア、英国、アフリカ諸国等に医療物資を届け、また、8月4日のレバノンでの爆発事故の後には、合計10機の軍用機で支援物資をピストン輸送した(8月26日時点)。コロナ危機にもかかわらずこのような対外活動を展開するところに、「地域大国」エジプトの懐の深さを見た思いである。

9.最後に 古代から未来を見る
コロナにより、日本の対エジプト外交も影響を受けた。元々は、8月の東京オリンピック・パラリンピックでアフリカ・中東のスポーツ大国であるエジプトとの関係を盛り上げ、今秋には大エジプト博物館の開館式を機に日本のプレゼンスを高める予定だった。Grand Egyptian Museum、イニシャルをとって、GEM(宝石)と呼ばれる大エジプト博物館は、ギザのピラミッドを見渡す世界最大級の考古学博物館である。エジプトの経済戦略の切り札でもあるこのプロジェクトに対し、日本は円借款や技術協力を通じた最大の協力パートナーである。しかし、開館式は一年延期され、戦略を練り直さなければならない。
 そんな中、エジプト考古学の第一人者ザヒ・ハワス博士が語った言葉で、本稿を終えたい。
 「今から3300年前、ツタンカーメン王が生まれた頃、首都の住民の7割がマラリアに苦しんでいた。ツタンカーメンが死んだ主な原因もマラリアだった。残された妻のアンケセナーメンは、ライバルのヒッタイトの王子に結婚を申し込んだ。しかし、この王子はエジプト人に殺害され、激怒したヒッタイト王はエジプトを攻撃する。ところが、ヒッタイトがエジプトから連れ去った捕虜からペストが広がる。エジプトは、古代から何度も疫病による危機を切り抜けてきた。そして我々の考古学チームは、今日も発掘を続けている。もちろん感染予防策を徹底して。」

なお,本稿の分析や見解は,著者個人のものであり,所属組織を代表するものではない。