過去50年間のエチオピアの歩みと対外関係:帝政・親露・親中・そしてその先へ


  駐チリ大使(前駐エチオピア大使) 伊藤恭子

帝政から親ソ連の軍事独裁政権へ

 シバの女王とソロモン王の間に誕生したメネリク1世が始祖と伝えられるエチオピアは、植民地化を逃れて独立国家として長い歴史を有し、人口も既に日本を追い抜き1億24,600万人(2023年UNFPA世界人口白書)に達したが、過去50年間の歴史を見ると、実は民主国家としての歴史は非常に短いことが分かる。 1956年に我が国が戦後初の国賓として迎えたハイレセラシエ皇帝が1974年の軍事革命により処刑されて帝政が幕を閉じ、その後に成立したメンギスツ政権は、粛清と恐怖政治を経てソ連型の一党独裁・社会主義軍事政権を確立した。大規模な援助を受けていたソ連との密月は、ソ連でのペレストロイカにより支援が打ち切られ、ソ連が崩壊した1991年、メンギスツもまたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)に敗れてジンバブエに亡命し、軍事独裁政権は打倒された。しかし、この時期にソ連へ多くの留学生が送られ、エチオピア軍がソ連の武器で訓練を受けたことは、今日でも当国の指導者の中に親露派が多いことや、現在でもエチオピア国防軍の武器の約5割をロシアが提供し、他国のロシア製装備品の整備を受注する状況にも繋がっている。

親中EPRDF政権の功罪

 EPRDFは、民主化を求める4つの異なる民族主導団体を母体としていたが、その中からティグライ人民解放戦線(TPLF)を率いていたメレス・ゼナウィが新政権の指導者となり、新憲法の制定、総選挙の実施を含む「民主化」が進められた。しかし、実態はソ連型のマルクス・レーニン主義から中国の毛沢東思想を反映した革命的民主主義への移行という色彩が強い。新憲法の下で明記されていた表現の自由や人権の尊重は保障されず、「メンギスツ時代には政府を批判すると公開処刑されたが、EPRDFでは秘密処刑にされた」との揶揄も聞かれた。「自由で公平な」総選挙も、2005年の第3回総選挙の結果に不満を持つ市民による大規模な抗議活動が発生、これに対する弾圧は民主化プロセスを大きく後退させ、多くの民主主義活動家達が国外に逃亡した。また、新憲法下で新たに設立された「民族連邦制」は、前政権下で否定されていた各民族の独自の文化や言語等を尊重するという意図で、各民族が州レベルで自治を行う連邦制を制定したが、結果としては民族毎の分断と民族としてのアイデンティティ意識の維持を強めることとなり、後にERPDF政権崩壊に繋がるオロモ人の大規模抗議や、2020年からのティグライ州による内戦、オロミア州でのオロモ解放軍(OLA)による武力闘争、更には本年のアムハラ州における武力紛争を生む背景ともなったといえる。 経済面では、メレス政権は国民の大多数を占める農民・農業対策、貧困対策を重視し、メンギスツ政権時代に禁止された私企業の復活を含め、産業振興と貧困からの脱却に注力した。国内のインフラ開発、外国直接投資の誘致、輸出向けの産業振興が進められ、年率10%程度の経済成長が続くようになる。かつてはソ連一辺倒であった対外関係は広がりを見せ、JICAによる無償資金協力を含む本格的事業が行われ、我が国のカイゼン運動の取り入れや産業政策対話が開始されたのもこの時期であるが、特に関係強化が進んだのが中国である。メレス首相自身が中国型の開発モデルに大きな関心を持っていたと言われ、数多くのエチオピア政府・軍・学生等の留学・研修先がソ連から中国へと代わり、中国の積極的なインフラ開発や投資を通じてエチオピアでのプレゼンスは拡大していく。アディスアベバとジブチを結ぶ鉄道、アフリカ最大のハブ空港であるボレ国際空港、首都アディスアベバの環状道路や高速道路等の道路整備、首都のLRT、工業団地、アフリカ連合本部ビル、ダム及び水力発電所の建設等、数多くの案件が中国からの借款や投資により着手され、これらの一部は一帯一路案件として中国側に登録されている。この結果、中国は現在までエチオピアにとって最大の債権国となるが、債務持続性を考慮しない案件実施の継続により、エチオピアは2018年にIMFによる債務持続性評価で高リスクと判断される。大型案件を巡る汚職の蔓延も公然の秘密とされ、政府高官の家族が欧米で贅沢な生活を行い、本来エチオピアで行うべき事業経費の一部が外国で私企業設立の資本となったとの噂も絶えない。

アビィ首相の登場と繁栄党の誕生

 2012年のメレス首相の病死後、EPRDFは南部諸民族州出身のハイレマリアム氏を首相に選出したが、TPLF主導の開発独裁型統治という政権の本質は変わらなかった。その結果、2015年以降、経済成長に伴う貧富格差やTPLFの支配に対する反発等は、人口の約半分を占めるオロモ人を中心に反政府運動を活発化させ、非常事態宣言の発動や力による押さえ込みが試られたが、結局2018年4月にハイレマリアム首相は辞任し、オロミア州出身のアビィ氏が選出された。アビィ首相は連合与党として繁栄党(PP)を結成するが、前政権の中核にあったTPLFはPPに加わらず、連邦政府と一線を画すこととなった。 アビィ首相は、前政権の下で外国に亡命していた政治囚約1万人の帰国を許し、人権を尊重した民主主義を目指す方針を打ち出したことは、前政権の人権抑圧政策を問題視しエチオピア支援に慎重であった欧米諸国にも歓迎され、エリトリアとの和平に合意しノーベル平和賞を受賞したことも、同首相を21世紀のエチオピアの新たなリーダーとして評価し、期待を高めた。 経済政策面でも、新政権は商業借款の借り入れを停止し、G20の共通枠組の下での債権委員会による債務再編協議を要請、IMFの新規プログラムに向けた交渉も開始された。国内経済改革として物流や通信サービス等各セクターの民営化にも着手し、通信分野では住友商事が27%出資するサファリコム・エチオピア社が外資による初の通信事業社として2022年に正式に市場に参入した。

北部エチオピア内戦がエチオピアの外交に与えた影響

 2020年、新型コロナの流行拡大により8月に予定されていた総選挙及び地方選挙が延期されることとなったが、TPLFはこれを不当な延期であるとして独自に州選挙を9月に実施した。右を認めない連邦政府はティグライ州に対する予算配分を停止し、両者の緊張は次第に高まり、TPLFによる戦闘開始が囁かれるようになる。エチオピア社会に独特の「年長者」(elders)や一部の外交チャネルを使い、連邦政府と戦闘を始めるべきでないとの働き掛けがTPLF議長等に行われたが、同議長はTPLFの実力を持ってすれば短期間で勝利出来ると判断していたようで、同年11月、TPLFは国防軍北部司令部に一斉に夜襲をかけ、その後約2年に及ぶ内戦が始まった。当時、約15万人の国防軍兵士の約8割がエリトリアとの国境付近のティグライ州内に配置されており、またEPRDF時代からの伝統でティグライ人兵士・幹部の割合もティグライ人の人口比(約6%)に比してかなり高かったところ、就寝時間後の奇襲、しかも軍内部のTPLF協力者も多く、国防軍は大混乱に陥っていたことは想像に難くない。 その後、国防軍が速やかに「法執行活動」として反撃を開始したことを踏まえると、国防軍側もTPLFへの攻撃準備をしていたとみられるが、攻撃を開始したのはTPLF側であることは明らかで、TPLF自身が「preemptive attackを行った」と記者会見で表明している。しかし、現地でBBC、CNN、NYT等の主要国際メディアの報道を見ていて気付いたのは、これらメディアでは戦闘を開始したのがTPLF側であることを殆ど報じず「アビィが始めた戦争」とのナラティブが広まっていったことであり、またEPRDF時代に築かれたTPLFとの太い絆を持つ西側諸国の「エチオピア専門家」やティグライ人ディアスポラの主張が支配的であったことである。若きノーベル平和賞受賞者は、国内少数民族虐殺を目論む悪魔と報じられるようになった。TPLFが首都から40キロ付近まで南下し首都陥落も近いとの偽報道が流れた際には、筆者にも世界各地の友人達から「無事か」と心配してくれるメールが突然多数届いたが、実際はまだ200キロも先で国防軍と対峙している状況であった。この頃の西側主要メディアのTPLF寄りの報道の経験は、この内戦が情報戦でもあることを当地外交団に改めて想起させると共に、かつて欧米で学び親西側諸国の立場であった当国の知識人に対しても「西側メディアを信用してはいけない」という教訓を与えることとなった。英国で学んだ当国の著名な国際政治学者が「ロシア・ウクライナ戦争の報道でも、我々と同様に偽情報が使われているに違いない」と発言したのを聞いた際には、驚愕を覚えた。 TPLFが口火を切った武力行使を止めるべく「法執行活動」を行っているエチオピアにとって、TPLF支持者が多く存在し、エチオピア政府非難を主張する西側諸国との関係は一気に悪化、特に安保理で本問題を取り上げることには強い拒否反応を示した。故に、安保理で拒否権を使ってエチオピアを擁護してくれたとするエチオピアの中露に対する「恩義」は強く、ウクライナ侵攻に関する各種国連決議採択に際しては、露への「恩義」を果たすべく、これまでエチオピアが支持を表明したことはない。

内戦後のエチオピアの対外関係

 しかし、2年間の内戦で国民が深く傷つき和平を求めるようになった際、最も強力に和平プロセスを進めてくれたのは米国であった。三代のアフリカの角担当米国特使によるTPLFと連邦政府とのシャトル外交が当事者達を交渉の席に着かせ、最終的には昨年11月のプレトリア和平合意を生んだ。また、内戦中の人道支援も米国によるものが圧倒的であり、2022年にはエチオピアへの人道支援の約7割(国連人道調整機関資料)が米国から供されている(我が国はわずか1%)。エチオピアが世銀・IMFの支援を受ける上でも米国の理解は不可欠である。米国内で関心の高い人権問題については、北部エチオピアで国際モニタリングが実施され、政府による組織的で大規模な人権侵害が行われていないことが確認され、右をブリンケン国務長官も公表した。米国は6月には早々にDDRに50万ドルを拠出したが、今後さらにDDR支援に巨額の追加支援を行う予定だと述べている。 何故米国はエチオピアを支援するのか?アフリカでソマリアから西に延びる「不安定ベルト」は既にマリまで達しているところ、少なくとも現在の米国の民主党政権は、人権・民主主義マインドをもって就任したアビィ政権にその政策を推進させ、アル・シャバーブの西進を食い止める意味でもエチオピアの安定が重要と見ているようである。内戦の勃発と米国内のディアスポラの反対により遅れているものの、EPRDF政権を倒した背景にある人権と民主主義への取組の推進が地域の安定に繋がることは間違いない。 中国は、現在のエチオピアにとって最大の債権国であるのみならず最大の貿易相手国かつ最大の直接投資国であり、政治的にも直近7年間で外交部長が5回当国を訪問する等ハイレベルでの交流も多く、内戦中には中国製ドローンも使用された。しかし、商業借款の新規借入れの停止、エチオピア人労働者の権利侵害や中国人労働者との待遇格差の問題、中国が受注したインフラ事業の停止あるいは完成後のインフラの品質の問題、金の不正輸出等、一言で「緊密な関係」とは言い切れない側面もまた抱えている。 露は、かつてエチオピアの小麦の輸入国としても重要であったが、本年からエチオピアが小麦を輸出出来るようになり、経済的重要性は一段と低下した。エチオピアが必要とする投資や外貨を提供出来る状況にもなく、専ら軍事強力と一部の科学技術分野での協力が中心となっている。 注目すべきは、最近経済関係を強化しているトルコ、UAE、印、サウジアラビア等の存在である。UAEからの無償資金協力、サウジ・印・トルコ企業からの大型投資等、「西側か中国か」の選択ではなく、「西側も中国も新興国も」使う全方位外交をエチオピアは臆することなく進めている。 翻って我が日本の対エチオピア外交はどうか?自省の念も込めて言えば、新型コロナや内戦がなかったとしても、より拡大強化する余地があるにも関わらず十分にその可能性を活かせてきていないと考える。エチオピア側には、以前から「ジャパノロジスト」と呼ばれる日本研究者達が存在し、自国と同様に植民地支配を逃れて独自の長い歴史を有し、第二次大戦の惨禍から立ち上がり経済発展を遂げた日本からもっと学びたい、との声が多い。この国で友人として伝えるべき助言をしっかりと伝えつつ、必要とする支援も行っていくことが、グローバル・サウスとの連携強化の上でも、また我が国の対アフリカ外交強化の上でも極めて重要な布石になると考える次第である。