米・中・ロシア 虚像に怯えるな ―元外交官による「日本の生きる道」』河東哲夫著 草思社、2013年 出版

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元駐韓国大使 霞関会理事長 大島 正太郎

 仕事の関係でTPPに関する論調あるいは各党の立場に接していた当時、具体的なTPP賛否のいずれの側にも、今まで経験してきたことのないほどの嫌米感情に触れて、何時からこんなになったのかと驚いた。(それまで約4年間、自分が国際公務員、しかも裁判官みたいな仕事、をしていたので政策当事者と直接接することをいわば忌避していた特殊な事情があったこともある。)そしてそれは、米国のみならず、中国、ロシア等の日本の周辺の大国に対して大かれ少なかれ同様な感情的な反発が強いことも気になった。

その様なとき、河東哲夫元大使の表題の本を手にして、主として若い人たちの耳に入りやすいような筆致、描写で、しかも国際政治理解についての基本をしっかり押さえて、米国・中国・ロシアの実像を、言わば内部に入り込んだ視点で描いていることに、内容・文体ともに新鮮に感じた。内向きになり、外国の非ばかりに目が行きがちな若い人たちに、外国は悪玉でも善玉でもない、善悪兼ね備えたものであることを、是非虚心を持って読んでもらいたいと思う。
日本の視点で外国を見ると、相手は日本をだまし自国の意のままにしようとしている、と言う「絵」が先に来て、けしからない、と言う感情的反発が先に立ってしまっているようだ。しかし、外交には相手があり、相手はその国の国益を追及しているのだから、当然すべてのことで自分の国の思い通りにはならない。先ずなすべきは、正しい情勢把握であり、相手の政府を動かしている背後の一般大衆国民の気持ちが総体としてどうなっているかを理解することである。著者の言葉を借りれば、「虚像」を排することが何よりも大事である。

国際情勢を把握するには、いわば地球外の視点で全体像を統合体として見る手法と、全体情勢に影響を及ぼす大国の動向を、その内部から見る手法があり、その両者が相まってより正確に理解できるものである。この著者は、米中ロシア三大国に実際に居住し滞在した期間が長く、これらの国の描写も内部から見たことのある人でなければ描けない深みがある。
特に、ロシアについての描写は、数回の現地勤務を経験した者でなければ着眼できないような出色のものであり、しかも分かり易い。米中についても大局的な地政学的把握と、一般大衆の目線での理解とが共感し合っているので、専門的な分析を背景としながら、現場感覚にいろどられている。

例えば、中国については、次のような新鮮な指摘がある。
『中国[は]今では「漢民族」が人口の90%以上を占めているというものの、』『「インド人」そして「アメリカ人」と言う人種が存在しない』と同様に『「中国人」と言う人種はいない』と述べている(32頁)。(評者注:「人種」と言うのは、白人、アジア人、黒人と言ったより範囲の広い概念で使うのが普通なので、著者の用法は一般的ではない、むしろ「民族」と言う方が正しいのであろう。日本では日本民族が圧倒的多数であるが、アメリカはある意味では人工的な国なので、著者の指摘の様に「アメリカ民族」は存在しない、中国でも、「漢民族」が中心であるが「中国民族」と言う存在は無いと言う指摘と理解した。)

さらにまた、『中国を上から目線で見る癖を止めないといけない。』『中国に対してヘりくだる必要はないが、中国との関係の歴史だけはちゃんと思い出しておこう、』そうすることで『いつまでも、中国が好きか嫌いかだけで、判断が右往左往すること』なく、『中国を自分たちの心の中で、そして日本の外交の中で、しっかりと位置づけ』られる、と述べているが、この様な相手国についての接し方は、正に著者の主張している核心であろう。

中国、米国、ロシアについての三章、の他、「戦後世界の正体」と言う世界経済についての章は、国際政治理解に不可欠な国際経済の仕組みを分かり易く、かつ主要国の動向と有機的に説明していることも、国際政治上「ハイ・ポリティックス」「ロー・ポリティックス」と区別して扱われ、専門性も一方に偏るのが一般である中で、政治と経済を統合的に見る手法の効能を示している。他の章でもそうであるが、著者は、各国の政治の根底に経済を動かす仕組みとそれを支える精神構造を踏まえ、政治を分析する手法を駆使しているがこのような方法論は実態の国際社会理解に不可欠であり、大いに参考になる。

著者はこの著作の締めくくりで、日本として国家国民の根底にあるもの、おくべきものとして「人間主義」と言う表現で、人間中心の価値観を置いている。そのこと自体については全く賛成である。それを、さらに進め、日本の近代化における価値観の面での最大の課題、
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つまり「脱亜入欧」と言う標語に隠れた相克を分析し、語っていればさらに若い人たちの日本人としての自己認識確立に有意義であったであろう。特に、この日本にとっての「脱亜入欧」と言う命題を、著者がこの本の129頁以降で、その識見を遺憾なく発揮して述べている
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ロシアの「歴史の刻印 その1/ アイデンティティーを巡る相克」(注:この傍点は評者によるもの)との対比で説明すれば相互共感の作用で、理解も深まるのではなかろうか。 (了)(2013年7月17日寄稿)