余談雑談(第98回)オリンピックとナショナリズム
元駐タイ大使 恩田 宗
オリンピックに出場する選手は自国の国旗を背負って競い彼の母国の人々はナショナルな感情を高ぶらせて応援する。
1936年のベルリン・オリンピックでは前畑秀子が200米平泳ぎでドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッド・ヒートの競り合いの上勝を制した。河西三省アナウンサーは興奮のあまり「前畑ガンバレ」「ガンバレ前畑」を二十数回繰り返し、終わると「前畑勝った」「勝ちました」「勝利です」と叫び続けた。その熱のこもった実況放送は深夜の日本を沸かせた。三位以下の順位は報じられず実況放送ではなく応援放送だとの批判もあったらしいが読売新聞は「あらゆる日本人の息を止め」る迫力だったと激賞しそのレコードは11万枚以上売れたという。
その年の1月日本はロンドン軍縮会議を脱退し2月に起こった二・二六事件後の対策として困窮農民5百万人を満州と蒙古に移住させることを決定した。
「ナショナリズムは惡なのか」の著者萱野稔人はこう主張する。グローバリゼーションで世界各国間の賃金格差は縮まりつつあるが日本では底辺を下げる形で拡大している、この問題は世界国家の実現が望めない以上ナショナリズムで自国労働者を外国人労働者に優先させることでしか解決できない、と。彼と対談した元フリーターの雨宮処凛は底辺の日雇労働として捨て駒のように外国人労働者と競争させられると自分達は「日本人であり・・・外国人のようにこの社会の外側の人ではない」という思いだけが心の支えだったと述べている。彼等は日本国が助けてくれる筈だと信じ又助けてくれと救い求めているのでありその声は悲痛である。
国民国家は国家の幸不幸・名誉不名誉は国民のそれでもあると教育し国民に国家への帰属意識を植え込み共同体としての団結を保っている。国家意識は個人が外国人と競うような場合には心の拠り所になるが自由な発想の妨げにもなる。その株を持ってもいないのにソニーが復活したと聞けば喜び、英国小説家カズオ・イシグロのノーベル賞受賞を身内のことのように誇らしく感じる。国際比較の統計を見る時は日本が上位にいるか否かで一喜一憂する。執拗にまとわりつく日本人意識がそうさせるのであるが何事につけも日本、日本では煩わしくもある。
1964年の東京オリンピックの際は褐色痩躯で哲人の如き風貌のアベベ・ビキラが後続を遥かに引き離して一人超然と疾走しマラソンで連続二度目の金メダルを獲得した。天が人類に与えた走る能力の完璧な発現のように見え思わずその英姿に拍手を送った。国際競技で日本人選手が勝利するのを見るのも嬉しいがナショナルな感情を超越した清々しい喜びに優るものはない。
(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。