余談雑談(第97回)動詞の能動態・受動態と中動態

元駐タイ大使 恩田 宗

 小池知事は政治家達と密室で取引をして希望の党を作ったのではないかと問われ「(入党した)皆様方が・・・政策に賛成をし・・・新しい政党ができあがった」とかわした。彼女はかねて「新党の立ち上げはお手のもの・・三日もあればまとめる芸当さえ身に付け」ていると自慢しており新党作りを主導した筈である。然し「私はこうして新党を作った」と他動詞の能動態では答えなかった。自分の役割を曖昧にしたければ「党が作られた」と受動態にする手もあったが「できあがった」と自動詞を使った。

 「中動態の世界・・・意思と責任の考古学」(国分功一郎)によると、印欧語では動詞は文の中核を占める重要な単語であるが歴史的には動作を示す名詞から発生したもので最初は行為者と関係づけないで動作そのものを表示していたという。それが動作の行為者が問われるようになり能動態が発達したらしい。古代ギリシャ語の動詞には能動態と中動態があり中動態は受動や自動を含め諸々の意味を担っていたという。更に時代が下がると中動態から受動態が分岐独立し残る部分は消滅した。現代印欧語の動詞体系は総じて能動態と受動態が対立する形になっている。能動か受動かという観点からものを見ると常に「誰」が「する」か「される」のかを問題とする。印欧語は「出来事を描写する言語」から「行いの行為者を確定する言語」に移行してきたと言えるという。

 問題は能動・受動という図式では世の中のこと全てを収めきれないことである。「想いに耽る」というプロセスは意志が働いて始まるわけではない。歩いている時も同じで歩くという動作が自分のもとで実現しているに過ぎない。能動・受動のどちらでもない。能動・受動の区別は意志の有無で仕分けるが古代ギリシャ人には意志という観念はなかったらしい。世界には今でも能動態と受動態の区別をしない言語が多くあるという。

 自由な意思に基づく能動的行為には責任が伴う。受け身の人にはそれがない。能動・受動の区別されるようになったのは社会が行為の責任を問うようになったからだという。テロ事件を能動・受動の図式で見ると関心は実行犯と被害者に集中する。他方、中動態のそれで見るとテロは出来事でありそれを生み出した社会に目が向く。中動態的な見方も失ってはならないと思う。

 英語学者の細江逸記は、古代日本語の「思わる」「偲ばる」等々は皆受動態であり自動詞でもあって中動態として分類できる、「記」「紀」「万葉」の歌にはそうした言葉が多く使われており中動態の所産とも言えると論じている。今の日本語でも「生まれる」は受動態兼自動詞である。又、「れる」「られる」が付くと動詞は受動・自発・可能・尊敬の意味を持つ。日本語は中動態的要素をまだ根強く残している。

 標準語が普及する前の山梨県の田舎では出産があると「ボコ(子供)がデキタ(現れた)」と言っていた。人間の誕生という出来事を一女性の生むという行為の結果というより日の出や虹や木々の芽生えの様な人間の営為を越えた驚異の事象だと受け止めていたからで、生まれた嬰児は「授かりもの」として大切にされた。

 「できあがる」はギリシャ語では中動態で行為者はその動詞によって示されている過程の外にいるので責任問題は生じ得ない。「作られた」と受動態にすると「誰によって?」と問い詰められる危険がある。小池知事は中動態で回答したといえる。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。