第91回 皮膚感覚

元駐タイ大使 恩田 宗

 八歳で失明した筝曲の演奏・作曲家の宮城道雄(1956年没)は手で触れば織物の縞の大小が分ると言っていた。「春琴抄」の盲目の女主人公も座布団や畳を撫でて目明きには見えない塵や埃を感じとり掃除させている。手指は敏感で優れた職人はミクロン(1000分の1ミリ)単位の線や歪みを識別できるらしい。京都迎賓館の大座敷に長さ約12㍍の黒塗りの座卓があるが端に立つと表面に天井の線がたわまず真っ直ぐに向こうの端まで伸びて見える。漆職人が砥石で水研ぎしたものである。近代的な製粉工場にも指先で200種の小麦粉を仕分けできる技師がいるという。

 人は皮膚を目や耳と同じ感覚器だとして意識することが少ない。然し皮膚は重量3㌔2平方㍍の人体最大の器官でその役割は体を包むとともに体外の状況を感じ取ることにある。目も耳も更に脳も元々は皮膚(外胚葉)から進化したものである。皮膚研究者の傳田光洋は心も皮膚が作ったとして次のように書いている。「こころ」は日本独特の幅広い概念だが煎じ詰めれば自分を自分だと思う自己意識のことだと考えられる、自己意識は主として皮膚が脳に送り込む複雑多様な情報を統御するため形成された調整システムであり、脳内の様々な生理学的状態として存在する、と。心が生理現象に過ぎないのかについては異論もあり得るが皮膚が心と強く結びついていることは誰も経験することである。触感は快不快の何れも身体的に生々しく受け止められるので心を強くゆさぶる。米国のレストランでの実験ではウェイトレスが客の腕に一瞬触れるだけでチップが増したという。

 宮城道雄が自分の胸像を撫で私の顔と違うと言うと彫刻家は位置や光線の具合もあるが人の目には似ていると見えるはずだと答えたという。目には錯覚ということがあり耳には空耳ということがある。東大哲学教授だった大森荘蔵(1997年没)は目に見えるものが実在するとは限らないが触れて確かめたものは実在すると言っていたという。イエスが復活し弟子達の前に現れた時トマスはイエスの傷口に手で触ってみて始めて信じることが出来た。乳幼児は何でも手で触れたがるがそれは人間本然の欲求らしい。触ってみないと分らないことが多いからでもある。現在は人間が視覚によって得られる情報の量とスピードは電子機器の発達もあり圧倒的に多い。然しいずれ触感も映像や音声音楽と同様に遠隔地と送受信できるようになるという。そうなると国際的な人間関係が革命的に変化するかもしれない。

 なお、日本語や英語などでは触感を表す語を他の感覚の形容に使用することがあるが(暖かい色・柔らかな音・刺すような臭い)その逆は殆んどない。触覚以外の感覚の間では転用がある(騒がしい柄・黄色い声・甘い香り)。これも触覚の優位性を示す事例だと思われるが世界の諸言語に共通することだろうか。