第90回 宮本武蔵

元駐タイ大使 恩田 宗

 宮本武蔵は「生涯に勝負をなす事六十余度・・・一度も負けた事がない・・・武芸の神とも申すべき・・・絶代の英傑」だと講談師は言うが(講談全集・昭和4年発行)そう簡単に言い切れる人物ではない。

 彼がどういう人かについては、昭和7年、文壇で激しい論争があった。直木三十五が武蔵は一流の剣客の一人ではあるが傲岸不遜な男で精神的境地が低く上泉信綱(新陰流の祖)や塚原卜伝などとは人格的に並び得ないと論じたのに対し菊池寛が武蔵は悟りの境地に達した日本一の剣の名人だと反論した。吉川英治も菊池に同調し小説「宮本武蔵」(昭和10年)で武蔵を克己求道の修行のすえ「精神の剣」を会得した剣聖として描きそうしたイメージを広く日本人に定着させた。 然し、戦後になり、小林秀雄が武蔵を別の観点から評価した。武蔵が偉いのは自分が剣の勝負に勝てたのは心の悟りによるのではなく躰が器用に動いたからだと気づき伝統的な精神主義から脱皮し日本で最初に実用(プラグマ)主義(ティズム)に徹しきった人物だということにあるとした。米国に精神主義で挑戦し技術と物量に敗れたと皆が感じていた時代であり注目されたのではないかと思う。然し人々の吉川英治的な武蔵観は変わっていない。日本の剣道殿堂は武蔵と柳生宗矩(信綱の孫弟子)の二人を別格顕彰している。

 武蔵についての史料は少ないらしい。吉川英治は史実と言えるものだけだと百行にならないと言っている。十代半ばで郷里を離れ晩年細川家客分として熊本に落ち着くまでは修行と仕官先探しのために流浪するという不遇な人生だったのだから仕方がない。武蔵の剣技・人格をおし量るには数ある伝説を吟味し彼の画いた水墨画を見つめ死(1645年・享年62)の前に書き残した五輪書や書き付けを熟読するしかない。 

 五輪書は剣術の奥義を伝える文書としてはやや分厚く話し言葉で書いてある。直截・平明・合理的で神秘的なところは少しもない。「太刀・・は大指ひとさしを浮(うく)る心にもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしゆび小指をしむる心にして持也」「道すじ能(よく)しりて・・ふるもの也・・はやく振らんとするによって、太刀の道さかいてふりかたし、太刀はふりよき程に静にふる心也」「緩々(ゆるゆる)と見へて間のぬけざる所也」とある。太刀をクラブに、道すじをスイング軌道に、替えて読めばゴルフ教本としても通じる。司馬遼太郎は「斬新な達意の名文で・・論理性が高く文飾を排し・・現代の文章感覚に通ずる」「明治以前の文章家のなかで平易達意の名文家は」歎異鈔の筆者と蓮如上人と宮本武蔵だと評している。

 あの時代は権威ある書物は漢文か漢文訓読調で書かれていた。日常語とひらがな主体で書かれた実用志向の五輪書は武蔵のあみ出した二天一流の後継者達にさえ平俗・饒舌で神秘さに欠け有難味が薄いと思えたらしい。武蔵は武芸で出世するには生まれたのが遅過ぎその到達し得た思想と文章が評価されるには早過ぎたと言える。

 武蔵が説いた「剣の道」修行の心がけ九か条の最後は「役にたたぬ事をせざる事」である。来し方をふり返り耳に痛い言葉である。