余談雑談(第114回)老いの生き方

元駐タイ大使 恩田 宗

 老人には将来がないので今日を生きればよい。問題は今日をどう生きるかである。87で亡くなるまで英文学の研究を続けた福原麟太郎は「(老いても毎日)守銭奴のように辞書を引いている、明日の貯えのためではない、今日を完全にして心おきなく明日を迎えるためである」と書いている。こうした人は極まれで大概の老人は体の不具合や雑事にかまけ完全とは言いにくい形で日を終えることが多い。老化が進めば簡単な動作も苦痛になり完全な今日は望み難くなる。

 作家黒井千次(87歳)は老いについての随筆を長年新聞に連載し本にもした。こなれた言葉で語る老いの失敗談や目撃談には多くの愛読者がいるらしい。「素敵なおじさま」などと評する女性もいる。彼は老いには「知と温もり」と「意地の悪さ」があると書いているが、逆らわず全てそのまま受け入れるべきだとの考え方らしく衰えや苦痛にも淡々と耐えている。老いの残酷さには怒りか不満か愚痴か嘆きか何か言って当然と思うが。

 ボーヴォワールは人類が老いをどう受け止めてきたかを調べ大作「老い」を著わした(1971年)。西欧では中国と違い古代ギリシャ以来一般に老いを厭い老人は嘲笑・虐待の対象でリヤ王のように権力者も例外ではなかった、今のフランス人は若さに執着し老いることを拒み続け「凡庸な者」だけが屈して「うららかな老年」になる、老熟との観念も疑問で小説家は画家と違い老いるとゲーテ・ユーゴーなどは別として作品の質が落ちるが書き続ける、偉大な政治家もクレマンソーのように年老いると醜態をさらす、と書いている。彼女は、現代の老人は少数を除き施設などで社会から疎外されるか孤独のうちに貧困・疾病に苦しんでいるとして改革を促している。執筆当時は60~63歳で老いへの助言はしていない。老人が読むと老いたくはないものだとの日頃の思いが一層強まる。

 徒然草は兼好法師が老境に入ってから書いたものといわれているが死については何ヶ所かで論じているものの老いについてはあまり語っていない。老人は俗世の信義や礼儀にとらわれずに行動し非難されてもかまう必要はない、50を過ぎたら大勢の仲間と交わるのは見苦しく世間を遠ざけて生きるべきだ、などと言っているだけである。諸行無常と信じる兼好にとり老いるのは当たり前で老いをかこつ気などなかったようである。

 人間は産院の白いバスケットの中で並んで眠っている時は皆同じであるが年とると人それぞれになる。長い間異なる過ごし方をしてきたからである。年とっての生き方は色々あるが人それぞれで良くそうとしか言えず又そうするしかない。