第101回 ベトナム戦争

元駐タイ大使 恩田 宗

 ベトナム戦争終結の転機となったのは北越軍と南越解放戦線による南越政府の主要拠点への一斉攻撃であった。1968年の旧正月(テト)のことでテト攻勢と言われた。サイゴンで大使館勤務をしていたが早朝激しい銃撃音で起こされた。昼近くに街の情況視察にでかけると米国大使館の正面は爆破され米兵の死体が横たわっていた。米軍総司令部も虚を突かれ書類の焼却に忙殺される有様だったらしい。結局、数週間後には押し返したが反戦気運が強まっていた米国の世論を揺さぶりその年の大統領選挙ではベトナムからの「名誉ある撤退」を公約したニクソンが当選した。
 ベトナム戦争への米国の軍事介入はケネディー政権になり本格化した。暗殺されたケネディーに代わったジョンソン大統領は強気に戦争をアメリカ化し任期の終わり頃には在越米軍は50万を超えていた。ニクソン政権の安全保障問題補佐官キッシンジャーは就任直後からハノイと和平交渉を始め4年後の73年に「敗走ではない撤退」で妥結した。米軍の支援を失った南政府はその2年後に崩壊した。

 この戦争は米国にとり戦死者・行方不明者6万、負傷者30万という犠牲を出しての手痛い敗北だった。然し南北合せたベトナムがこうむった人的物的な被害は数字にならない大きさである。ビスマルクはドイツ統一を鉄と血で成し遂げたと言ったがホーチーミンが生きていたらベトナム統一は血で川をつくり国土を灰にして成し遂げたと言わなければならなかっただろう。

 民族の統一はそれほどの犠牲を出しても成しとげる必要のあるものかという疑問が残る。ベトナムの統一は歴史の動きに沿っていたことだったと考えるしかない。それに視点を変えれば、この戦争は他の東南アジア諸国に共産主義への警戒感と抵抗能力の強化を促しアセアン結成への端緒を開きそれ以後のそれなりに均衡のとれた情勢を招来したと言える。

 ケネディー・ジョンソン時代の国防長官マクナマラは回想録でこう告白している。1963年頃から勝ち目がないと思っていた、ジョンソンの勝利への思いは強く弱気の見方は国防省を含め政権内では少数派だった、抱えていた問題が洪水のように多くベトナムに集中できなかった、撤退や中立化をもっと真剣に検討すべきだった、と。この遅まきの懺悔は、勝てないと分ってから国防省を去るまでの4年以上の間何故戦争を拡大し続けるままにさせておいたのかとの厳しい批判を招いた。

 何故もっと早く止められなかったのかと誰もが思う。然し歴史の歯車は多くの場合日々の積み重ねの重みでゆっくり動き溶岩の様に一旦火口を溢れ出ると進む所まで進まないと止まらないものである。1964年末の大統領選挙でジョンソンは米国史上最大の得票差で当選しており就任すると自信をもって北ベトナムを爆撃し海兵隊の投入を開始し戦争に深入りしていった。あの時点では国民の大半もベトナムからの米国の敗退は受け入れなかったと思う。今世紀に入っての米国の中東介入もベトナム介入に似たようなことになったが歴史から学ぶということが如何に難しいかを示している。

 マクナマラはこうも書いている。他民族を屈服させるため強者の戦略理論をつき詰めて行けば最終的にはその民族を絶滅させるということになる、米国の信奉する理念の道義的限界内ではそれはできなかった、と。これからの大国の独裁者や指導者にそうした抑制が働くだろうか。