現代日本語「愛」のオーラについて(一)
―オーラとその正体―
元駐ギリシャ大使 齋木俊男
当年とって八十八歳、米寿の老人が「愛」などと言い出せば、耄碌も極まって色呆けしたかと疑われるのが落ちでしょう。しかしいまさら恋に身を焦がしたり色の道に迷ったりする歳でもありません。このエッセイで私が考えてみたいのは「愛」という現代日本語についてです。
私は以前から現代日本語の「愛」には奇妙なオーラがつきまとっていると感じていました。なにがオーラかというと、たとえば「愛燦々」。ハイカラで高尚。もっといえば崇高。同時にときめきを覚えさせる甘美さがある。キラキラと素晴らしく胸に迫ってくる・・・
「愛燦々」は美空ひばり晩年の持ち歌で小椋佳の作詞作曲。ひばりがときどき演歌の外に出ようとした試みの一つだったように思います。「愛燦々」という一言で古い世界とは違うハイカラで高揚感のある雰囲気が呼び出されます。一方従来の演歌の世界では「明日の愛より今日の恋」と歌われていました。水前寺清子の歌ですが、これは言い得て妙。素敵だがどこか嘘っぽい「愛」よりは、今ここで実のある恋の方が欲しい。そういう日本人の地の気持ちがにじんでいるような気がします。
このオーラがとくに気になりだしたのは、この三年ばかりうつ病を患っていた間です。うつ病経験など持ち出すのは体裁が悪いし、私も人並みには自分がかかるとは想像もしていませんでした。ところが胃腸障害などあれこれしているうちに簡単になってしまった。「老人性」というからもう治らないものと諦めていたのですが、薬を飲んだら幸い回復しました。
うつ病は嫌なものです。私のように軽度でも、良い感情がすべて消え、良くない感情ばかりが残ってしまう。荒廃といえばまだ詩的で、ちょうど戦後の焼け跡のような世界。味覚に例えれば世の中全体が不味くなる感じです。そういう心象風景の中では「愛のオーラ」はギラギラとつき刺さって来るように感じ、愛という言葉さえうとましくなってしまう。うつ病の病状報告をするつもりはないが病人の感覚には意外に真実が含まれていることがあります。回復後改めて考えてみると、現代日本語「愛」にはたしかに余計なオーラがあって、愛というものを必要以上にきらびやかに、高尚に、あるいは蠱惑的にしているように思われます。いろいろ調べてみてこのような「愛」の奇妙かつ過剰なオーラは、「愛」が明治の翻訳であることによって生じたものであると考えるようになりました。しかしその前に、まず「愛のオーラ」がいかに絶大な効果を発揮するかを実例で示すことにしましょう。
2001年、片山恭一著「世界の中心で、愛を叫ぶ」という小説が出版されました。著者が無名に近かったこともあり最初のうちは売り上げが伸びなかったが某女優の「私もこんな恋がしてみたい」というコメントをきっかけにうなぎ登りに売れ出し、三年後には映画化されて大ヒット。本の方も爆発的に売れて同年中に三百二十万を超える大ベストセラーになりました。これは当時のベストセラー村上春樹「ノルウエイの森」(上)をしのぐ国内小説最大の売り上げだったそうです(ウイキペディア)。当時は気にもとめませんでしたが、どんな本か最近になって読んでみると、私の理解するかぎりでは普通の青春恋愛小説の「学園」もの。地方の学校の同級生二人が愛を育んでいって現代風に行くところまで行くが、恋は至っておだやかに進行し、泣いたりわめいたりする修羅場はない。しかし定番通りというか女性の方が不治の白血病を発病して死んでしまう。男性は深く悲しむ、という枠組みです。ところが通読して驚いたのはタイトルのように「世界の中心で、愛を叫ぶ」という激越な場面は全く出てこないことです。もちろんドラマの起伏はあります。白血病でオーストラリアへの修学旅行に行けなかった恋人を主人公が入院先から連れ出し二人だけでオーストラリアに行こうとするが、恋人は病状が悪化して空港で倒れてしまう。主人公は周囲に助けを求めて叫ぶ。この場面は映画のクライマックスとして使われたそうです。しかし地方空港は「世界の中心」ではないし、叫ばれたのは「愛」ではなく救助でした。
私はこれを以て「羊頭狗肉」と非難するつもりはないし、まして作品の文学的良し悪しを批評する意図もありません。売れたのは結構なことです。ただ「愛」の一言とそのオーラがいかに絶大なマジックを発揮するかを示したかっただけです。仮に内容のいかんを問わずたとえば「世界の中心で、歓喜を叫ぶ」というような本が出てもこれほどに売れたとは想像できません。
このオーラが「愛」が翻訳語であることに由来すると考えていることはすでにのべました。私はさらに翻訳語であることが明治以来の日本人の西洋崇拝に結びついたと考えています。「西洋崇拝」など今の人たちには異様で滑稽に響くかもしれません。その点は後にして、まず「愛」が翻訳語であることの説明が必要でしょう。
多くの人は「愛」が翻訳語と聞くと不審に思うかもしれません。「愛」は古代中国発生の漢字であり、伝来とともに日本に根付いていたと考えるのが常識でしょう。けれども私はあるとき学習用の「古語辞典」を見てびっくりしたことがあります。「あい」の項目に現代日本語の「愛」に相当するような字義がほとんど記されていなかったのです。第一義としては「いとおしく思い可愛がる」があります。しかし用例からするとこれは偏愛したりひいきにする良くない意味。以下「子供をあやす」、「名誉などに執着する」など。異性関係に至っては極めて即物的な意味しかありません。「愛用品」の意味は現代語と共通ですが全体としてはマイナスイメージ。辞書もそう断っています。これは仏教の影響です。
仏教は異性愛を中心とした愛はすべて悟りを妨げる「渇愛」として退けました。そしてこの点で仏教は渡来した中国よりも日本でより強い影響を及ぼしました。中国仏教は儒教や道教に押されて近世以降影響力を弱めたのに反し、日本仏教は徳川時代に檀家制度が支配体制の強化に利用されたりして民衆レベルまで深い影響力を保ちました。
ここで「愛」の漢字としての意味を見ておいても無駄ではないでしょう。愛は紀元前一千年紀にさかのぼる古い漢字ですが、白川静の漢字学によるとそれは真ん中に心臓、上部に後ろを振り向く頭、下部に脚を象形し、全体として「立ち去ろうとして心を残す」意味を表すとのことです。いわば未練の愛。他にも音韻論から「想いが溢れるさま」という解釈があって、古代の生々しい心情が感じられます。ところが時代が紀元前6世紀の孔子まで下がる間にこの生気は昇華されたとみえ、論語では愛は仁と同等の地位にまで押し上げられます(「仁は人を愛するなり」顔淵第十二)。仁は儒教倫理の最大徳目ですから、大した出世です。さらに次の紀元前5世紀に愛は墨子の兼愛の説の中心に据えられました。以後の中国では愛は教理としてもはや発展しなかったし、むしろ儒教が官学化し、王権や「理」に重きを置くようになると次第に隅に押しやられ、それとともに恋愛が軽視されるようになりました。中国には恋愛小説がほとんどない(近世の「紅楼夢」くらい。「金瓶梅」はもっぱら性愛の小説)と指摘されています。なお儒教の愛は日本では十七世紀に伊藤仁斎によって「古学」の中心に据えられましたが、幕府の官学朱子学に押されて発展しませんでした。
翻訳語「愛」に戻りましょう。日本古語の愛のイメージを反映してか、幕末のオランダ語辞書では英語love に相当するliefde に対し「寵愛、愛嬌」「仁」などの訳語が当てられ、単独に「愛」とする訳はなかったようです。このことは当時日本人が参照していた英・中国語および仏・中国語の辞書には「愛」の訳語があった(以上後出柳父による)ことと対照的。つまり仏教の影響が日本より弱い中国では、「愛」は支障なく使われていたということです。同じ事情は中国語訳の聖書にもあり、そのことが次に見る聖書の日本語訳の過程で大きな影響を与えました。
鈴木範久「聖書の日本語」(岩波書店)によれば聖書の日本語訳はまず宣教師ヘボンによって手がけられました。ヘボン式ローマ字のヘボンです。(余談ながら私はこの名が「ローマの休日」のヘップバーンHepburn と同じと知って驚きました)。日本語訳は他にも手がけた宣教師がいたようですが、翻訳事業は明治に入ると複数の宣教師たちと日本人協力者からなる委員会の手に委ねられ、ヘボンも参加しました。明治十二年に新約、同二〇年には旧約聖書の翻訳が完成しました。これが明治元訳とよばれるものです。問題の「愛」はヘボンが部分的に仕上げていた個人訳では「いつくしみ」となっていました。ヘボンは熱心に日本語を学び、最初の和英辞典を作ったほどの人ですから、当時の日本語「愛」が聖書にふさわしくないことを知っていたのでしょう。ところが委員会では大した議論もなくあっさりと「愛」に変更されてしまいました。原因は中国語聖書の訳が「愛」だったからです。
ついでながら聖書翻訳の原典はなんとギリシャ語でした。したがって愛は「アガペー」という語。旧約を別にして新約聖書が成立したのは紀元後一世紀から二世紀のローマ時代。書かれたのがギリシャ語でした。生まれたばかりのキリスト教が広まった小アジヤとその周辺で流通する言語だったからです。このような古い時代の原典がキリスト教世界にとって辺境だった日本で翻訳の底本に使われたのは驚くべきことです。ヘボンら宣教師たちの真摯さと知的水準を物語るものでしょう。
こうして聖書にとりいれられた「愛」の語ですが最初のうちは一般の受け入れが良くありませんでした。古語の好ましくない印象が災いしたのでしょう。伝道者たちは「仁愛」という表現におきかえて説明するなど苦労しました。しかし明治二十年代になると事情が変わってきます。具体的にはlove の訳語として「恋愛」が”発明”されたからです。
love は「ラーブ」とカタカナ語にされるなど明治に入ってから訳語に迷いがありました。ところが明治二十三年に岩本善治という人(ヴァイオリニスト巌本真理の祖父)がある翻訳小説の批評の中で「恋のように不潔な連想に富む日本通俗のことばと違い、恋愛といえば清く正しい」という趣旨をのべ、主宰する女性雑誌で「恋愛」の語を広めたところ支持が広まり、またたく間に流行語となりました。とくに同じ雑誌にのった北村透谷の「恋愛は人世の秘鑰(ひやく・秘密を解く鍵)なり」ということばは同世代に「大砲を撃ち込まれたような衝撃」を与えたそうです。(以上柳父章「翻訳語成立事情」岩波新書による)。「恋が不潔」というのは徳川後期に吉原など遊郭を舞台とする心中文学が流行したために、明治時代に「恋」といえば遊郭が連想されたからです。これに対して「愛」は新約聖書の日本語訳完成後ほぼ十年を経て清く正しいことばとして市民権を得始めていたと思われます。聖書の愛は恋愛を含まないので、伝統語の恋と一緒にして「恋愛」の新語を造成したものでしょう。
明治二十年代は文明開化、つまり西洋化が怒濤のような勢いで進行した時代です。鹿鳴館(明治十八年開館)が始まりです。以後西欧化は一時的な国粋主義の反動もあったが時代を超えてつづきました。模範となった西洋に対しては,当然強い憧れや崇拝心が引き起こされる。西洋ならなんでも良いという気持ちさえあったそうです。まさに「オーラ」の誕生です。今の若い人たちは西洋崇拝など滑稽に思うかも知れません。しかし私が若い頃でさえヨーロッパ旅行はまだ「聖地巡礼」のような気がしたものです。西洋に対する崇拝的な感情が消えたのは、日本が高度成長を遂げてGDPが世界のトップクラスになり、バブルを経た頃ではないでしょうか。欧米の文物がなんでも(一時的にせよエンパイヤステートビルディングまで)日本人の手に入り、欧米旅行が「巡礼」ではなく、ただの観光になった頃です。
しかし急激な文明の変化と、先進的文物への過度に情熱的な欲求はひずみを起こさずには済みません。恋愛がまさにそうでした。現実の社会が家族制度でがんじがらめだった当時の日本では、西洋熱に煽られて燎原の火のように広まる恋愛・恋愛結婚の願望は挫折するしかなく、女性を含む多くの若者が苦しみました。北村透谷自身恋愛結婚を決行したものの行き詰まって自殺したのは象徴的です。
当時の日本人が西洋の愛や恋愛の内容や実態をよく理解していたかどうかも問題です。西洋でも恋愛や結婚は身分や家柄、財産関係(資産や持参金)などを全く抜きにして進んだわけではないし、上流や市民階級では男性ばかりか女性も結婚後はかなり自由に振る舞っていたことは西洋文学を読めばわかることです。しかし文学は文学としてしか理解されませんでした。また洋の東西を問わず、そもそも真の恋愛が成立するのは難しく、成立しても長続きしない。神の愛は永遠かも知れないが永遠の恋愛はないという事実を若者に教える人はいなかったし、若者たちもそういう理解はしたくなかったのでしょう。堅い話をすれば、愛の観念やその宗教的背景などについてはさらに理解不足だったのではないでしょうか。それは今日にも及んでいます。
西洋文化の根幹にキリスト教があるのはいうまでもありません。日本人はつい先頃まで、日本は西洋に遅れている、この遅れを取り戻さないかぎり日本の真の近代化はないという強い焦りを感じていました。遅れを取り戻す努力の中で、西洋の根幹にあるキリスト教の理解が不可欠であると多くの人が感じていました。しかし昔も今も日本人がキリスト教を良く理解したかどうかは疑問です。教義の概略ならともかく懺悔とか祈りなどの宗教的実践になると身についた理解は困難なのではないでしょうか。まして唯一絶対の神を信じるかどうかは大問題。日本の全人口に対するキリスト教徒の数の比率はずっと一ないし二パーセントでした。これは熱心な宣教とミッション系の大学以下教育機関の数を考えるとやや意外です。独断のつもりはありませんが、八百万の神々の伝統を持つ日本人にはキリスト教はなじみにくいところがあるのではないでしょうか。そういう状況の中、日本人はキリスト教の理解が不十分なままで、いわばそれを迂回して、愛などキリスト教に深いかかわりのある事柄を丸呑みしてきたのではないか。そこから何が起こったか。話は「オーラ」のレベルにとどまりません。次回はまずその問題を取り上げましょう。(了)