現代日本語「愛」のオーラについて(二)
―愛の本質―

元駐ギリシャ大使 齋木俊男

 現代日本語「愛」についての最も痛烈な論評は伊藤整の「近代日本における『愛』の虚偽」というエッセーです。伊藤整と聞くと、有罪判決のあった「チャタレー裁判」から良くないイメージを持つ人もいるでしょう。しかし彼はれっきとした純文学作家であり、同時に学識のある鋭利な評論家でした。岩波文庫「近代日本人の発想の諸形式」収録のこの評論はよく書かれていますが、便宜上私の理解を平易にまとめれば次の通りです。

 人間は自我的であるから放っておけば他者と衝突し、心の平安も社会の平和も保たれない。そこで西欧キリスト教世界では神の命令(掟)によって人間が他者を愛するようにさせ、さらに「己れの欲する所を人に施せ」と教えて他者との関係を良くさせる。ところが東洋社会では「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という孔子の教えが基本となる結果、人間は自己自身のようには他者を愛することが出来ない。せいぜいのところ自我を抑制し、憐れみや同情といったものによって摩擦が緩和され、世の中の秩序が構築される。元来人間と他者の関係には「冷酷な区別感」があるが、これは西洋のように絶対神の命令という強いものがなければ消すことが出来ない。他方、東洋では冷酷さは他人に対する節度や遠慮といういわばソフトな原理で解消される。その結果どうなるか。伊藤自身の言葉によれば「以上のような心的習慣を持つ東洋人中の東洋人たる日本人が、明治初年以来、「愛」という翻訳語を輸入し、それによって男女の間の恋を描き、説明し、証明しようとしたことが、どのような無理、空転、虚偽をもたらしたかは、私が最大限に譲歩しても疑うことができない。即ち、人類愛、ヒューマニズム、という言葉も同様である」。

 さらに伊藤は人間が神の命令に従えないこともあるが、キリスト教社会では懺悔や祈りというような信仰上の実践によって再び神に向き合う「志向性」が保たれると指摘。東洋世界のいい加減さをあぶり出すような口ぶりをしています。このような姿勢を見て、人は伊藤もかつての「進歩的知識人」のように、西洋の立場に立って日本を論難していると思うかも知れません。しかしそうではありません。伊藤は東洋にも「無=ゼロという絶対」があって心の平安や社会的平穏を保っていると指摘し、西洋流で行くか東洋流で行くか、自分は決めかねていると言っています。知的に誠実な人なのです。この伊藤整の意見は如何でしょうか。私は「虚偽」と言う表現はいささか強すぎるとしても、この観察は現代日本語「愛」のオーラの中にある「嘘っぽさ」の正体を明らかにした鋭い指摘であると思います。

 この辺で話題を変えましょう。「愛」と言う言葉にはオーラのほかにもまだ問題があります。その一つは「愛」の一語にいろいろな種類の愛が詰め込まれている事実です。英語のlove を思い浮かべれば分かります。神の愛、恋愛、友情、家族愛、隣人愛、博愛、性愛など、まるで愛のオンパレードか「詰め合わせ」のようです。中にはどう考えても相互になじまない神の愛と性愛のようなものが入っている。この事情はドイツ語のLiebe でも同じですし、amour などヨーロッパの近代語でもそうでしょう。不思議なことです。おそらく明治の日本人にとってはもっと不思議で、一種のカルチャーショックだったのではないでしょうか。日本の伝統にはないことだからです。「愛」をlove の翻訳語として受け入れた(最初は翻訳聖書の言葉だったが「恋愛」の発明以後はlove =恋愛=愛となった)日本人の間に観念上の混乱が生じたことは想像に難くありません。そして混乱は今日でも解消されていないように思われます。当然に出てくるのは、いろいろな愛が一語でくくられるということは、それらの愛に共通するなにかがあるのではないかという疑問です。いわば共通の本質というようなもの。しかし、愛に関する書物や議論は山ほどあるのに、私はこの点で納得の行く説明に出会ったことがありません。ということは自分で考えなければならない。無謀にもそれをやってみたのが以下の議論です。

 そこにゆく前に、私にとってはもう一つ不思議なことがあるのでつけ加えておきます。実は西洋文化の源流とされるギリシャでは、上に揚げたいろいろな愛が、神の愛(アガペー)、恋愛・性愛(エロース)、家族愛(ストルゲー)、友愛・隣人愛(フィーリア)と別々に表現されていた事実(ウイキペディア)があるのです。どうしてそれが現代語では一語にくくられてしまったのか。どういう言語史的経緯があったのか。または観念の変化があったのか。そういう研究がないかどうか探してみましたが見つかりません。自分で調べるには残念ながら年を取り過ぎてしまいました。

 さて、愛の本質というとむつかしそうに聞こえます。事実簡単ではないのですが、ここで哲学的な議論はしません。私には出来ないし、かえってむつかしくなるからです。そこで単純にまんじゅうを思い浮かべて下さい。まんじゅうには餡と皮がある。どちらを欠いてもまんじゅうにならないが、餡の方がより決定的。この餡が本質というわけです。そして私は愛についてその餡に相当するものは感情だと考えるようになりました。そこからさらに考えた結果私が到達したのは「愛は相手を大切に感じるあたたかい感情である」という結論です。つまらない結論だと思うでしょう。しかしそうでもないのです。愛につては後で述べるようにじつにさまざまの観念や思想、つまりまんじゅうの皮に相当するものがあります。しかしどれ一つをとっても、その観念や思想のもとで人間が実際どう感じるかが分からないと真の理解はできないのです。理解というより納得が得られない。例をキリスト教にとると信者の方々には失礼ですが、私には「神の愛」がこの意味でどうしても分かりません。「神はそれ自体が愛。その愛は万人に注がれる」と聞いてもその愛を感じることが出来ない。推測は出来ます。神の愛は上にのべた私の結論に似たものを含むかも知れないと。しかしそれは観念的理解にすぎません。

 何だ、単なる感情の話かと思われるかも知れません。しかし感情は軽視できるものではありません。私が感情ということの重要性を身にしみて理解したのはうつ病から回復する過程ででした。じっさいは「愛」よりまず「幸福」が問題でした。すでにのべたとおり、うつ病では良い感情がなくなり悪い感情ばかり残るのですが、かといって四六時中不幸感にさいなまれていたわけでもありません。ただ暗く重い気分がつづく。私事にわたりますが,私は十数年来すこぶる快適でケアの行き届いた老人ホームに居住しています。幸福に感じて良いし、じじつ同居者と話せばたいていの人はそう感じている。しかしうつ病のときはそう感じない。外部の人から「良いところにお住まいですね」といわれても実感できず、お世辞としか受け止められない。それがうつ病の回復期になると、たまには幸福感が出てきた。幸福といってもおとぎ話のような幸福ではなく、安心感に近いものでしたが。それを主治医に伝えると薬量が減り,ついには服薬が終了しました。こうして私は人間にとっての幸福とは、じつは幸福に感じることだと覚りました。そして愛についても、愛は湧いてきた愛を感じるときにあるのだと。もちろんこの歳で新しい愛があったわけはありません。過去を顧みてそう思っただけです。そしてひょっとすると私は愛の薄い人間だったかもしれないという苦い反省もしました・・・。

 感情は揺れ動くものですから哲学のような学問の対象にはなりにくい。とくに西洋哲学は愛知学の名の通り理知を重んじる学問ですから、感情を正面からとりあげてこなかった。むしろ世界の中でなにが本当にあるか、存在するかというような問題に関心を傾けてきました。その西洋哲学がギリシャ以来の「存在論」の呪縛を脱し、現実存在としての人間の学である実存哲学に向かったときでも、すぐれて人間的な事柄であるはずの感情に対してはあまり注意を向けなかったように思います。もちろん「感情論に走るな」という戒めどおり感情に振り回されてはならないが、「人間」をとらえようとするとき感情面に正直に向き合わないとうまくゆかない。人間とはそのような「存在」だと思います。

 感情は感覚と密接に関連しています。私はさらにこの二つが意外に思考や観念と深いところでつながっているのではないかと考えています。たとえば「腑に落ちる」という言葉があります。ただの理解ではなく、心底身にしみて了解した、納得したという意味です。ただの理解は、本当は納得できない自分の感情を、都合に合わせて偽っているのかも知れない。そうではない。気持ちも受け入れている。それがなぜ「腑に」落ちるなのかといえば、身体感覚に由来する安心感あるいは充足感があるからではないでしょうか。感情が伴ってはじめて本当に理解した気持ちになるということです。私が感情を重視するのはこのようなことが頭にあるからです。

 さて、だいぶ横道にそれましたが、愛の本質についての私の結論「愛は相手を大切に感じるあたたかい感情」に戻りましょう。これに対しては相当な反対論が予想されます。感情重視の問題についてはあらかじめ説明しておきました。その他の点について予想される反対論に対する答えと言う形で補足説明をしておきますと、まず「大切」とはいかにもつまらない。愛はもっと重く、深みのあるものだという指摘があるでしょう。私もそう思って他の表現をいろいろ探したが見つかりませんでした。「いとしい」という表現も可能です。しかし恋愛や親子愛には向くかも知れないが、隣人愛や友情には向きません。人道愛や博愛に使えば「上から目線」になってしまうかも知れない。思うに「大切」と言う日本語の重さは時代の推移と共にすり減ってきたのではないか。例証になるかどうかわかりませんが、キリシタン時代には神の愛が「御大切」と訳されていたのです。当時の日本語では「大切」は今日よりもっと大切な意味合いがあったということです。

 恋人たちからは猛烈な抗議が寄せられそうです。「愛はもっと強く,激しいものだ」と。燃え上がる恋の炎。うずくような胸のときめき。なるほど、なるほど。覚えのある人が多いかもしれませんが、ここで恋愛について一言しておく必要がありそうです。老人の僻事かも知れません。御勘弁のほど。まず愛と言えば誰でもがすぐ恋愛を思い浮かべるように、恋愛は愛の代表格です。しかし宗教性のあるキリスト教の神の愛を別にしても、恋愛は親子愛、家族愛、友情、隣人愛など他の愛とは別に考えなければならない面があるように思います。相手を大切なものとして感じることではに他の愛と共通の部分もある一方、恋愛には他の愛にはない大きな部分がある。それは恋愛が性愛、つまり人間の動物的本能を土台に持つところから来ています。これについては特に説明の必要はないでしょうが、とりあえず恋愛では心身共に動員されるエネルギーが他の愛と比べものにならないくらい大きいことを指摘しておきます。「燃える」とか「ときめき」とかいう部分です。しかしこの部分は恋愛の情感を深め、豊かにし、美しくする要因であり、愛の品位を貶しめるなどの理由からネガティヴに評価すべきではありません。他方恋愛の厄介な面として、恋愛はふっと好きになってしまうものです。一目惚れとは限らない。ずっとつき合っていても、あるとき突然好きになってしまう。恋愛小説によく出てくるシーンですが、恋愛の発生は本能的なものです。理性では制御できない。

 さらに恋愛の達人といわれるある女流作家によれば「恋愛は美しい誤解の上に成り立つ」ものだそうです。つまり自分が好きな相手を自分の中で造りあげてそれを愛するのが恋愛。この指摘にはおそらく真実があるでしょう。そしてこの点にこそ恋愛の大きな問題点として指摘される「自己愛」があるのです。「自己愛」は誤解を呼びやすい表現。本来は「自己中心愛」と呼ぶべきものです。相手を愛すると思いながら実際には相手が欲しいだけ。自分中心だということです。これに対してキリスト教は神の愛が「無私」「無動機」であることを強調します。自分の都合や利益、まして相手欲しさが動機となるような愛はキリストの愛ではない。教会の立場からはそうなるでしょう。けれども他方には、人間が個としての存在であり、自我である以上自我中心の愛があるのは当然。いやそういう愛こそ人間的な愛だ、という立場があります。西洋にはこのようにいろいろな姿の愛があり、それらが文明開化の明治の世に一挙になだれ込んできました。対する日本では、自我という観念が曖昧なまま無常の世で心を寄せ合う恋のほか隣人愛に相当する他の愛もありましたが、愛の形が複雑多岐にわたる西洋とは全く事情が違い、西洋文化の受け入れに際し混乱が起こるのは不可避でした。

 次回はこれら西洋と日本の愛の姿を眺めて終わりにしたいと思います。(了)