時代は水素へ:気候変動問題への豪州の対応
駐オーストラリア大使 山上信吾
東大の公共政策大学院で国際法のゼミを持っていた頃、教え子から「外交官の醍醐味は何ですか?」と聞かれたことがある。「時代の変化を目の当たりにできること。」と答えた記憶がある。ベルリンの壁の崩壊など、時代が恰も音を立てて変わっていくような激動期に、常にリングサイド・シートにいる感じかもしれない。実は、豪州に赴任して水素の製造、輸出に関する日豪協力の進捗を見聞するにつれ、同じような感慨を抱きつつある。
HESCプロジェクト
豪州着任から間もない2021年3月のことだった。川崎重工、Jパワー、岩谷産業、丸紅、住友商事の日本企業連合軍で進められている水素エネルギー・サプライチェーン(HESC)事業の式典に出席するため、ビクトリア州のラトローブ・バレーを訪れた。メルボルンから約160キロ離れた広大な褐炭田だ。褐炭は、余り用途に恵まれない低品質の石炭だ。この褐炭田に隣接している石炭ガス化・水素製造施設で、褐炭から水素を製造する。そして、ガス状の水素をメルボルンの南東部75キロに位置するヘイスティングスにトラックで輸送し、そこでマイナス253度に液化。その後、コンテナ船に液化水素を積み込んで日本の神戸まで運ぶ。まさに、歴史的な大事業である。
気候変動問題への対応から二酸化炭素の排出量の抑制が強く求められる中、石炭を活用しつつも二酸化探査の排出量を抑え、水素を新たな電力源として活用しようという、時代の最先端を行く壮大なプロジェクトなのである。
そして、2022年1月。液化水素を日本に運ぶ船「すいそ・ふろんてぃあ」が神戸からヘイスティングスに到着した。匠の国たる大八洲の技術の粋を体現したような優美な船体を豪州の地に見せてくれた。豪州連邦政府からエネルギー大臣、資源大臣という2名の閣僚、ビクトリア州政府からも財務大臣が出席し、祝典は盛大に行われた。
神戸までの海路は約9000キロ。16日間かけて航行することが見込まれている。液化水素の船舶輸送は、日豪間ではもちろんとして、そもそも史上初なのである。
日本政府の方針では、2050年までに二酸化炭素排出量をネット・ゼロに抑えていくに当たって、エネルギー源としての水素の使用量を10倍に伸ばし、電力源の10パーセントを水素に頼る目標が設定されている。
この一環で不可欠なのが、豪州における水素生産と日本への輸出である。上記のラトローブ・バレーの褐炭からは、実用化段階で年間22万トンを上回る水素の生産が期待されている。かたや、水素の製造方法は、これだけに限られない。豪州全土で日本企業が関与した水素プロジェクトが20以上も同時並行的に進んでいる状況にある。それらの中には、上記のような二酸化炭素を排出しつつ、その二酸化炭素を回収・貯蔵する、いわゆる「ブルー水素」もあれば、再生可能エネルギーから二酸化炭素を排出せずに水素を生産する「グリーン水素」もある。車の両輪である。
まさに、時代が水素社会に舵を切っていく中でHESCプロジェクトはその先頭を走り、新しい様相に変えていく「ゲーム・チェンジャー」の役割を担っていると言えよう。
水素車「ミライ」
同じビクトリア州で注目を集めているのが、トヨタ自動車が開発した水素自動車「ミライ」だ。既にビクトリア州政府をはじめ、環境問題に高い関心を有する関係者を中心にリース契約が相次いでいる由である。豪州連邦政府の低排出技術担当特別顧問を務めるフィンケル博士も愛用していると聞いた。
私も今年2月、メルボルン近郊アルトナにあるトヨタの水素施設に赴き、試乗してきた。高級スポーツカーを思わせる精悍なボディー。だが、いったん車内に入れば書斎のような静寂に包まれる。実に滑らかな走り出し。ぐっとアクセルを踏み込めば、僅か9秒で時速100キロに達する。圧倒的なパワーを体感した。
驚きは、燃料補給にも及んだ。水素ステーションでの再補給(リフューリング)には僅か数分しかかからない。数時間を有する電気自動車との決定的差異だ。しかも、いったん満タンにすれば優に500キロは走るという。
むろん、現時点では、すべてバラ色の絵を描ける訳ではない。そもそも水素のコストをまだまだ下げていく必要がある。現時点で水素1キログラム当たり10ドル(米ドル)程度要しているところ、日本政府は2030年に3ドル程度、2050年にはおよそ2ドル以下に下げる目標を掲げている。また、インフラ面では、水素ステーションの数が絶対的に不足している。キャンベラには一カ所しかない。
しかしながら、こうしたハードルをクリアした先には無限の可能性が広がっているように見える。だからこそ、ドイツや韓国のメーカーも競って水素車に取り組んでいるのだろう。やがて、トヨタの水素車のライン・アップも、「ミライ」にとどまらずに、他の車種にも拡がっていくことを期待している。
技術革新が鍵
このように、水素製造・地産地消、液化水素の船舶輸送、水素車の活躍が豪州の地で見られるのは偶然ではない。日本政府と同様に豪州政府も気候変動問題への対応に当たっては技術革新(イノベーション)が鍵と位置づけており、その中で水素の重要性に着目されているからである。
この点は、日本政府と豪州政府の間で2021年6月に合意された「技術を通じた脱炭素化に関する日豪パートナーシップ」でも、確認されているところである。
それにつけても、思い出されることがある。昨年末の英国グラスゴーでのCOP26に向けた準備たけなわのころ、キャンベラの某欧州主要国の大使公邸での夕食会に招かれた。豪州連邦議員、各国大使が居並ぶ中、主催者をはじめとする欧州勢は、気候変動問題に対する豪州の立場にあからさまに不満を表明し、より積極的な対応を相次いで求めた。一部の豪州人出席者の中にも、こうした声に呼応する者もあった。他方、夕食会後、何人もの豪州人から堰を切ったように聞こえてきた反応は、非常に興味深かった:
「何故、世界の二酸化炭素排出量のうち1パーセントしか占めない豪州が標的にならなければいけないのか?」「欧州勢が強く当たるべきは中国やインドではないか。」「欧州勢の説教には我慢がならない。」「気候変動問題など、国際社会の数ある課題の一つでしかない。インド太平洋地域で現下の最も重要な戦略的課題は、中国である。」「豪州が強烈な威圧に抗して持ちこたえているときに、その問題を等閑視して気候変動でプレッシャーをかけるなど、言語道断である。」等々。
我が国としても、拳々服膺すべき豪州人の本音であろう。
内政上の難問
容易に想像されるとおり、石炭、鉄鉱石などの鉱物資源に大きく依存して経済成長を遂げてきた豪州にあって、気候変動問題への対応は、政治家にとってとりわけデリケートな対応を必要とするものだった。特に、石炭は豪州の主要貿易品目の中でも13パーセントを占め第二位の位置づけであり、同産業の政治力も強い。
与党保守連合(自由党・国民党)、野党労働党の双方において大きな党内分裂を呼ぶ案件であり、歴代首相を含む多くの大物政治家の「墓場」(交代劇の引き金)となってきた。
最近の話だけをとってみても、労働党のラッド首相が2010年にギラード首相に取って代わられた背景には、ラッド首相の提唱した排出権取引に対する党内の反発があった。また、ギラード首相は「炭素税を導入しない。」と公言していたにも拘わらず2011年に大規模事業者に排出許可証の取得を義務づけたことで、強い反発を受けた。自由党のターンブル首相が2018年に辞任した背景には、同首相が提唱した国家エネルギー保証(電力供給事業者及び大規模需要者に対して、排出量削減と信頼性確保が可能となる電力調達を義務づけるもの)に対する党内の反発があった。
今でも、国際世論を追い風として、積極的な脱炭素化、石炭依存からの脱却を目指す国際協調派・都市型の政治勢力がある一方、大規模な炭鉱を抱えるクイーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズ、ビクトリア州の地域をバックに持つ政治勢力は、雇用や経済成長への影響やコストを過小評価しているとして反発してきた経緯がある。両者の境目は、どちらかというと、党派によって決まってきたと言うより、選挙区事情、特に都市か地方か、石炭産業などの経済界との関係の濃淡によって決まってきた感がある。
ちなみに、前回2019年5月の連邦議会選挙に当たって、勝利が確実視されていた野党労働党が予期に反して苦杯をなめた背景にも、気候変動問題がある。労働党が政権についた場合に、アダニ鉱山の認可に反対していることにみられるように、炭鉱労働者の権利が守られないとの危機感が特にクイーンズランド州で高まった。さらに、労働党は気候変動対策について野心的な目標(2030年までに45パーセント削減)を掲げていたものの、コストの裏付けを欠いているとして与党連合から批判を浴び、選挙民に説明できなかったと指摘されている。
そうであるが故に、COP26に臨んだモリソン首相の対応も、慎重には慎重を期したと言える。結局、最終段階に至って2050年の「ネット・ゼロ」にはコミットしたものの、2030年の中間目標については前向きなコミットメントを一切回避した。国際的批判を避けるために最低限のコミットをしつつ、国内の岩盤の政治勢力の支持離れを防ぐために過度のコミットを避けたと言われるゆえんである。
本年5月には選挙が控えている豪州。当初は、コロナ、経済回復に次いで、気候変動問題が選挙戦の争点となると予想する向きが少なからずあった。しかるに、モリソン政権の上記対応に加え、野党労働党も前回選挙時に比べて慎重な目標(2030年までに43パーセントに設定)を掲げるに止まったことにより、与党保守連合と野党労働党のこの問題についての差異が争点化するほどの際だった違いとは言えなくなったとの指摘もある。
また、最近はウクライナ、中国問題などの展開に伴い、与党側は「経済、安全保障に強い与党」とのナラティブの売り込みに躍起となっており、ある程度奏功しているとの見立てもある。気候変動への対応にどの程度焦点が当たるかは、不確かである。
日本の心強いパートナー
このように見てくると、今後とも豪州の気候変動問題への対応からは目が離せない。というのも、一足飛びに野心的な目標を打ち出して大向こう受けを狙うのではなく、自国経済への深刻なマイナスの影響を緩和しつつ必要な貢献を行っていくという点で、日本との共通項が少なくないからである。
まさに、「(気候変動問題への対応に当たって)技術革新が鍵」と捉えるところに、エッセンスが集約されている。日豪間の「特別な戦略的パートナーシップ」は何も安全保障協力や防衛面での協力にとどまらない。気候変動問題への対応に当たっても日本の心強いパートナーなのである。
同時に、豪州政府はシンガポール、英国、独とも「脱炭素化に関するパートナーシップ」を締結し、独、韓国などとも水素関連技術の連携を打ち出している。我が国企業が再エネ発電技術では他国企業に水をあけられる一方、水素の利活用という「下流」の技術には優位を持つ現状に鑑みると、大規模再エネ発電に実績又は具体的計画を持つ豪州の電力・採掘企業等の「上流企業」と我が国企業の提携・連携は、実に理に適っているとも言える。
機会の窓を逃すことなく、豪州産水素の主要需要国としての我が国の地歩を早急に固めるべき時である。