日本・チェコ交流100周年に寄せて


駐チェコ大使 嶋﨑 郁

 私が2017年5月に赴任して以来,チェコでは毎年記念すべき周年を迎えている。

 2017年は日本・チェコ外交関係回復60周年であった。戦後,我が国が当時社会主義国であったチェコスロバキアと外交関係を回復したのは,日ソ共同宣言の翌年の1957年だったからである。2018年はチェコスロバキア建国100周年であった。2019年は1989年11月の所謂ビロード革命から30周年,NATO加盟から20周年,EU加盟から15周年に当たり様々な記念行事が挙行された。
そして,2020年は日本とチェコスロバキアの外交関係開設100周年に当たる。1918年10月のチェコスロバキア建国の後,1919年10月から両国間で調整が始まり,1920年1月に外交関係開設について相互の同意が成立し,日本政府は初代駐日特命全権公使の受入れを決定した。日本の初代公使の派遣は1921年秋であるが,相互の同意が成立した時点が外交関係開設の年と見なされ,今年がちょうど100周年になる。

チェコは欧州の中央に位置し、美しい自然や豊かな文化と共に、高度な科学技術とそれに基づく製造業の伝統を誇る国である。それ故に近世の幕開け以降,欧州列強の勢力がせめぎ合い,数多くの歴史的出来事の舞台となってきた。1618~48年の30年戦争は,1618年5月23日,プロテスタント派貴族がカトリック派の皇帝代官他をプラハ城のバルコニーから突き落とした事件が発端で始まった。1805年12月の三帝会戦,即ちナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を撃破したアウステルリッツの戦いはチェコ第二の都市ブルノ郊外で行われた。欧州政治史において「ボヘミアを制する者はヨーロッパを制する」と語られてきた所以であろう。20世紀においても,戦前はナチス・ドイツが、戦後はソ連が是が非でもチェコを自己の支配下に置こうとしたことは、この国の技術力と製造業を掌握することが彼らにとって戦略的に重要と認識していたからであろう。

日本とチェコは、歴史的、地理的、文化的に全く異なる状況で発展を遂げ、特に第二次世界大戦後の東西冷戦時代は対極の陣営に属していた。しかし、このような彼我の相違を越えて、両国は様々な交流を通じて相互の文化や技術への敬愛と信頼の念を育んできた。今日、日本とチェコは自由、民主主義、基本的人権、法の支配,自由で公平な市場経済といった基本的な価値観を共有する重要なパートナーである。

歴史を振り返ると,両国関係の礎は既に100年以上前に築かれており,「建国の父」トマーシュ・G・マサリク初代大統領は両国友好関係のパイオニアでもある。第一次世界大戦末期の1918年4月、当時海外亡命中だったマサリクは英国旅券を所持し「T・G・マルスデン」という偽名で,シベリア・朝鮮半島経由で訪日した。同氏が推進していたハプスブルク帝国からの独立について日本政府の支持を得るためであり,シベリアにおけるチェコ軍兵士の保護を要請することも重要な目的であった。詳細な記録は残っていないが、当時の日本政府がマサリクの要請に前向きに応えたことは間違いない。マサリクは日本滞在中に東京朝日新聞のインタビューを受けており、その記事が残っている。2018年11月に私はマサリク生誕の地、ホドニーン市にあるマサリク博物館を訪れ、同記事の写を贈呈してきた。
2週間の日本滞在後、マサリクは船で太平洋を渡って訪米し、ウッドロー・ウィルソン大統領と会談した。米国政府からも支持を得た上で公式に独立を宣言。そして、1918年10月28日、チェコスロバキア共和国が誕生し、同氏が初代大統領に就任したのである。

マサリク大統領訪日以前にも、日・チェコ交流史を彩る重要なエピソードがある。
広島原爆ドーム(元広島物産陳列館)はチェコ人建築家ヤン・レツルの設計により1915年に建造された。レツルはポーランド国境近くのナーホド市出身で,1907年に訪日し,広島物産陳列館等の設計に従事した。同陳列館建造100周年に当たる2015年12月にハマーチェク下院議長(現内相)が広島を訪問した際,広島大学から原爆ドームの破片が寄贈され,その破片は1年間チェコ下院内で展示された。現在はレツルの郷里ナーホド市で展示されている。
建築といえば,群馬交響楽団の本拠地であった高崎市の群馬音楽センターもチェコ出身建築家アントニン・レーモンドが設計したものである。

過去1年間の動きとしては,安倍総理大臣とバビシュ首相による首脳会談は昨年4月と10月の2回実施された。後者は昨年10月の「即位の礼」に参列するためバビシュ首相が訪日した機会に実施されたものである。また,昨年6月にクベラ上院議長(当時)が訪日,昨年9月には大島衆議院議長がチェコを訪問し,ゼマン大統領はじめチェコ側要人から手厚い歓迎を受け,ペトシーチェク外相からは,これまで外国人受賞者としてはオルブライト元米国国務長官を含めわずか3名という「外交上の功績に対する外務大臣賞」が授与された。昨年12月には茂木外務大臣とペトシーチェク外相による外相会談が実現した。

経済分野では、日本はチェコへの累積投資額で隣国ドイツに次いで第二位であり、260以上の日系企業がチェコに進出し,約5万人の雇用を創出している。また,地元の技術高等学校やサッカー・チームの運営,工場内外での植樹,有能なチェコ人マネージャーの積極的な採用を行う企業もあり,多角的に地域貢献をしており高く評価されている。
既に先進国の仲間入りをしているものの更なる経済発展のために多額の資金ニーズを有するチェコのような国との協力を維持・発展させる上で,日本の投資は極めて重要である。現在のチェコ政府が日本との関係で最も評価し期待しているのも投資であろう。バビシュ首相は私と顔を合わせる度に「日本の投資ありがとう」と言ってくれるし,一般的には親露・親中派と目され,2025年の万国博覧会開催地選挙でもエカテリンブルク(露)支持だろうと見られていたゼマン大統領も,2018年10月に個別にお目にかかった際,「今回チェコは大阪を支持することに決めた。貴国の投資は我が国にとって極めて重要だからである」と明言してくれた。
チェコは,①欧州の中央部に位置する好適な地理的条件,②比較的安価で優秀な労働力,③親日的で協力的な政府関係機関,④良好な治安等,好ましい環境が整っている。他方、最近では失業率がEU諸国の中で最低であるだけに,多くの企業が労働力不足に見舞われている他,チェコの長期滞在査証取得に時間を要する点や日・チェコ間の直行便の未開設等,いくつか改善・克服すべき課題もある。当地のJETROや日本商工会等と緊密に連携を取りつつ,チェコ政府とも対話を重ねながら一層の環境整備に努めていきたい。
 
文化・スポーツ分野における交流は,チェコが社会主義体制であった時代から脈々と活発に続けられてきたものであり,日本・チェコ両国民間の親近感・相互信頼の基盤であろう。日本・チェコ交流100周年事業の重点分野であることは言うまでもない。

スメタナ、ドヴォルジャーク、ヤナーチェク等のチェコ音楽は日本で高い人気を博しており、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,プラハ交響楽団はじめ多くのチェコの音楽家,音楽団体が頻繁に訪日している。例えば,チェコ・フィルはほぼ2年に1回の頻度で訪日公演を実施しており,昨年10月も「即位の礼」当日の東京公演をはじめ日本各地で演奏会を開催して,「令和」の祝賀に花を添えてくれた。
同時に,チェコにおける日本人音楽家やバレエダンサー,人形師の方々の活躍も目覚ましいものがあり,新たに建設予定のブルノやオストラバの劇場は日本人建築家の設計によると聞いている。

2017年の外交関係回復60周年の機会に開催されたアルフォンス・ミュシャ(チェコ名ムハ)作「スラヴ叙事詩」展(於,東京)には3ヶ月間で約65万人が訪れたが,チェコ国外でこの大作全20点がまとめて展示されたのは世界初である。この展示会については諸外国からも開催希望が寄せられているものの,展示施設,梱包・運搬・展示方法,保険等様々な点について多くのチェコ側関係者から了解を取り付ける必要があり,すべてをクリアーして実現できたのは今のところ日本のみとのことである。従って,この展示会は両国間の深い信頼関係の成果とも言えよう。

新型コロナウィルスの影響で東京オリンピック・パラリンピックは明年に延期されたが,チェコのオリンピック選手で最も有名なのは「体操の女王」ヴェラ・チャースラフスカーであろう。同女史は1964年の東京大会,1968年のメキシコ大会で金メダルを獲得した。その後民主化運動に参画したことから当時の共産主義政権から睨まれ不遇をかこっていたが、そうした時期にある日本企業が同女史を支援したと仄聞している。同女史も生涯を通して日本の友人であり続け、チェコ・日本友好協会会員として活躍された他,東日本大震災の翌年には被災地の中学生をチェコに招聘してくれた。同女史は2016年8月に亡くなられたが,今日でも「体操の女王」及び民主化運動の尽力者として著名であり,明年の東京オリンピックの際のチェコ・チームのシンボルマークは同女史の姿がデザインの基となっている。

1998年の長野冬季オリンピックも多くのチェコ人にとって特別な大会として心に刻まれている。同大会においてチェコの国技とも言うべきアイスホッケーでチェコが優勝したからである。それ以来,「ナガノ」はチェコ国民にとって一種の「勝利の象徴」となり,「ナガノ」という名のオペラやレストランができたと聞いている。

1月20日の日本映画祭オープニング行事をもって日本・チェコ交流100周年記念事業は開幕した。その後,チェコでもコロナウィルスの影響で大半の文化行事が中止・延期を余儀なくされ,私たちが企画・準備してきた多くの記念行事も中止・変更せざるを得ない状況となっているが,このような時こそ医療分野を含めて両国間の協力を促進し,先人達が築き上げてきた素晴らしい日・チェコ関係を将来の世代に引き継いでいけるよう努力していきたいと考えている。