帰って来た「ソ連」のゾンビと日ロ関係


元駐ウズベキスタン・タジキスタン大使 河東哲夫

 外務省の現役中は、1973年のブレジネフ時代、モスクワ大学での研修から始まって合計12年ほど、様々な時代のロシアに在勤した。中でも1990年代初期、大混乱・困窮時代のロシアでの広報担当、同年代末期、次席公使として北方領土問題交渉の顛末に関わったことが印象に残る。

戻って来た「ソ連」

 今回のウクライナ戦争ではつくづく、「ああ、ソ連が戻って来たな」と感じている。この数年の国内締め付け、そして夜郎自大の攻撃的な帝国主義が、そう感じさせるのだ。

 一昨日、吉祥寺の映画館で「インフル病みのペトロフ家」という奇妙な題名のロシア映画を見てきた。これはキリル・セレーブレンニコフ監督(52歳)の作品で、現代ロシアの現実とソ連時代の妄想が暴力とセックスの中で説明もなしに入り混じる奇怪なものなのだが――音楽は現代ロシアのラップ、ロック、ポップと高い水準を示す――、最後に棺桶に入っていたはずの遺体(映画の冒頭で一斉射撃を受けて殺された、ソ連時代のエリートと思われる連中)が消えている場面が出てくる。ソ連が戻って来たことを暗示したいのかもしれない。

 ただ、「ソ連が戻って来た」と言っても、自衛隊が主な潜在敵国としていた40年前頃の怖いソ連ではない。ウクライナで現有戦車の4分の1以上を破壊され、歩兵の補充にも事欠く、よれよれの国。マインドだけは、唯我独尊の。

 1973年、筆者は米国での2年間の研修の後、モスクワ大学に移転したので、「ソ連的なるもの」はいやでも目についた。すべてのシステムが西側と違って面倒くさい。商店では商品は手の届くところにない。不機嫌なおばさん店員に頼んで見せてもらうと、離れた「カッサ」でカネを払い、レシートをおばさん店員に渡すと、古びたプラウダ新聞紙に包んでぽんと放ってくれる、という感じ。どこでも、「西側じゃ違うよ」的なことを少しでも言うと、猛然と反発してきたものだ。自分たちのシステムは世界最高、悪口を言う者は私たちの敵か野蛮人、と言わんばかり。ウクライナ戦争でも、西側が非難するから余計、自分の殻にこもってプーチンを支持するのだ。

ロシア人が折れる時

 体制を支持し、お偉方に依存していた大衆が、「お偉方たちは何もくれない、全部独り占めしている」と思い込むと、逆なだれが起きる。1991年、大衆はポピュリストのエリツィンに期待して、共産党を排撃し始めた。そしてまず共産党、次に年末にソ連そのものが崩壊する。

 それとともに、社会の秩序、序列が崩壊した。公正な配分が行われると期待した大衆の意に反し、彼らの生活は困窮を極める。2年で6000%に達したインフレは人々の貯金を無に帰し、賃金、年金はインフレに到底追いつかない。それより人々が困ったのは、「コネ」が崩壊したことだ。

 モノやサービスが足りないソ連の社会は、カネならぬ「コネ」で回っていた。誰に何を頼めば手に入るか、というノウハウは皆それぞれ抱えていて、常日頃付け届けや電話でのケアを欠かさなかったもの。これが壊れたことは、インターネットが壊れた時の楽天のようなものだった。以前は東京で、反日的な仕事をしていた連中も、広報担当の筆者のところに来てへりくだり、何か仕事はないか聞いてきたものだ。貧すれば鈍する。ロシア人も、折れる時があるのだ。

プーチンの「反米」の由来するところ

 米国は、1991年ソ連が崩壊すると、ロシアの民主化、市場経済化を助け、日本にも領土問題で固いことを言わずにロシアを支援するよう、働きかけてきた(日本はそう言われる前から、支援の姿勢に転じていたが)。

 しかし「改革」が6000%のインフレをもたらすと、ロシアの大衆は「米国流の」民主化・市場経済化を敵視し、1996年の大統領選挙で共産党を政権につける瀬戸際にまでいく。クリントン大統領を頭に米国はエリツィン大統領を「救出」し、国債の大量発行で偽りの繁栄を築かせるが、そのバブルは1998年8月に崩壊。ロシアはデフォルトを宣言し、ルーブルは3分の1に下落。国内企業は物々交換で操業を維持する惨状となった。

 プーチンはその惨状の中で2000年、大統領に就任するのだが、その直後彼に会ったクリントン大統領は、プーチンに何か硬いもの、米国に対するしこりを感じ取っている。NATO拡大に抵抗しながら、泣き寝入りしたエリツィンとは違う、というわけだ。彼はエリツィンに、「お前が後継に指名したプーチンは何か一物心に持っている。自分は将来を心配している」というメッセージを送ったと言っている。

 筆者は、プーチンが就任早々から一貫してソ連の復活をめざしていたとは思わない。東独でのKGB支局在勤時代にソ連崩壊に直面した彼にとっては、ソ連崩壊はまさに世界史上の大悲劇だったことだろう。彼は当時、KGBでの職も失い(その理由がわかっていない)、一時はタクシー運転手もしたと述懐している。しかし、2000年に大統領に就任してからは、外資導入を進め、必要な法整備も行った。

 2000年頃トヨタがサンクト・ペテルブルクに工場を建設する決定をしたが、これもプーチンが森喜朗総理も引き込んで実現したものだ。そして彼は、エリツィン大統領が手をつけた北方領土問題交渉を引き継ぎ、話し合いには応ずる姿勢を維持した。彼は柔道を通じて、日本には悪意を持っておらず、メドベジェフと違って北方領土も訪れていない。

 プーチンは、次の経緯をたどって反米姿勢を明確にしていく。まず、2000年代の世界原油価格高騰で、ロシアのGDPが7倍~8倍に急上昇、G7と肩を並べたことが彼に自信を与えた。そして米国が東欧のみならず、ソ連の一部だったバルト三国にまでNATOを拡大して、ロシアを潜在敵国扱いにし続けたことは、KGB仕込みの彼の反米「本能」に火をつけた。

 2000年代中頃から、旧ソ連圏では「色付き革命」が頻発する。2003年にはグルジア(ジョージア)で、2004年にはウクライナで、それぞれ選挙の開票結果にリベラル勢力が文句をつけ、集会を続けて、その力で政権を超法規的に代えてしまう事件が続いた。この手法は、現地で活動していた米国の「民主化支援」NGOに伝授を受けていたし、反政府組織は僅かながら資金も受けていた。これがすべてを説明するわけでもなく、社会に現政権への不満がたまっているから政権交代は成功したのだが、ロシアはそうは思わなかった。「米国、特にCIAは同じ手法を使ってロシアを転覆することを狙っている」と思い込んだのである。

 冷戦時代のCIAとKGBの死闘は、冷戦後もDNAとして両者に残る。筆者はウズベキスタンに在勤時代、現地の諜報関係者から、ロシアの旧KGB(旧ソ連諸国を担当するFSB第5局のことだろう)要員が、「お前たち中央アジア諸国は国家を運営できない。そのうち必ずロシアの手に落ちてくるからな」と言っている、という話を聞かされた。だから米国はKGB出身のプーチンを最初から警戒し、ロシアの諜報機関は旧ソ連圏諸国での政権交代をすべてCIAに結び付けるのだ。

 2007年2月プーチンはミュンヘンの安全保障問題国際セミナーに出席。西側要人たちが居並ぶ前で、これまでのNATO拡大を非難。ロシアはもう我慢できない、冷戦時代のように国境周辺での偵察飛行を再開すると述べ、2008年にはNATO加盟の動きを示したグルジア(ジョージア)に攻め込んで領土の一部を占領して今に至る。

 直後のリーマン危機で西側がこれをろくに制裁しないうちに、米国でオバマ政権が登場、プーチンのDH(指名打者)役を務めたメドベジェフ大統領と「リセット」を唱えて束の間のentente(協調関係)を築く。プーチンが大統領への返り咲きの意向を示した2011年、12月の総選挙の開票結果に抗議する大衆が全土で集会。モスクワでは十万を超える者がクレムリンの至近距離で「自然発生的な(SNSで動員)」集会を開いて、政権の肝を寒からしめた。プーチンは、この背後にもCIAの介在を見ている。

ウクライナ侵攻へ

 色付き革命の頂点が2014年2月のウクライナ騒動だ。詳しい経緯は省くが、リベラル系が反政府集会を続ける中、極右勢力が大統領官邸に突入。ヤヌコーヴィチ大統領は国外(ロシアへ)に退避する。プーチンはこの背後にCIAの介入を疑う。彼は、極右勢力がヤヌコーヴィチを追ってクリミアに攻め込み、ロシアが租借していたセヴァストーポリ軍港の安全を脅かすことを恐れた。この軍港はロシア海軍にとっては、米海軍の真珠湾のような唯一無二の存在なのだ。

 それでプーチンはクリミア制圧を命ずる。当時ウクライナ軍は存在しないに等しく、ロシアはここをほぼ無血で瞬時に制圧すると、勢いに乗って(軍内の跳ね上がり勢力に引っ張られた感がある)東ウクライナの一部を制圧するのである。

 ロシアは2010年代初期、軍事費を増額してロシア軍装備を近代化。NATO正面の兵力も強化する。これに対してNATO、米軍もロシア威嚇の行動を強化し、米英の爆撃機、軍艦はロシア領空・領海の至近距離に迫ることを繰り返す。ロシアも同じことを繰り返す。そして米国、NATO諸国は2014年以来、ウクライナ軍を訓練、装備も与えて格段に強化する。このウクライナ軍が2021年、東ウクライナに集結。親露勢力が実効支配する地域の奪還をめざす構えを示したのである。

 「ロシアの同盟国はロシアの陸軍、ロシアの海軍」というのは、ロシア帝国以来の格言。要するにロシアは世界で孤立していて、自分で自分を守るしかない、ということだ。それはそれで、立派なこと。

 しかし、東ウクライナが「自分」の一部であるかのようにこれを守る、しかもウクライナ本体に本格的に侵攻して、あわよくば全土を占領する、というのでは、世界に説明ができない。しかも、「自分で自分のことを決められる国だけが主権を持っている。他の国家は実質的に植民地だ」と悪態をつくに至っては、日本のようなウクライナから遠くにある国でも制裁をしたくなる。

 プーチンは6月12日、17世紀のピョートル大帝生誕350年祭に出席し、「大帝はスウェーデンと戦って彼らを大陸から追い出した。それはスウェーデンから領土を奪ったのではなく、本来の自分の領土を取り返したのだ」と演説した。語るに落ちる帝国主義。ソ連が復活したのだ。経済力はなく、これから再生可能エネルギーの時代で、なけなしの原油・ガスの意味も落ちる。軍事力も今回のウクライナ戦争でその限界をさらけ出した。だからソ連というより、ソ連のゾンビが棺桶から起き上がった、と言うのがふさわしい。

冬の時代の日ロ関係

 これで、エリツィン以来、続いてきた北方領土交渉は「正式に」終わる。この30年間、いくつかの教訓を日本は得たと思う。まず、安倍総理は、首脳間の個人的な関係を良くしなければ領土問題を話し合うことは難しいということを、身をもって見せてくれた。

 ただ、それは必要な条件だが十分ではない。というのが次の教訓。日ロをめぐる国際政治の枠組みがどうなっているかが重要なのだ。ロシアは北方領土問題を対日関係だけではなく、対米、対中、その他極東の政治・安全保障上の枠組みの中で考えている。米ロ関係が最悪になっている中で、この問題を進めようとした安倍政権の考えは無理筋のものだったのである。

 次に日本人は、北方領土をめぐる歴史的な事実をロシア側にきちんと知ってもらえば、彼らも返還する気になるだろう、あるいは日本が懇願すれば応じてくれるだろうと考えがちだが、両方とも現実ではない。1990年代、ソ連崩壊直後のロシアは非常に自由で、しかもエリツィン政権は対日関係を進めたがっていたから、北方領土問題についての広報は完全に自由だった。日本大使館は、テレビでもラジオでも新聞でもパンフレットでも、今では不可能な広報をいくらでもやれた。

 しかし、これも必要条件だが、十分ではない。人間は理屈だけでは動かない。特に何かを他者に渡すことには本能的に抵抗するものだ。「あの日本になぜ?」という反日・侮日感情を持つ世代もまだ残っている。

 かと言って、領土を諦める必要はない。諦めて何が得られるというのか。領土問題は未解決であることを明確にしながら、関係を進めていくしかあるまい。これまで、そうしてきたように。

 ロシアの力はこれから長期にわたって、縮小していくだろう。特に極東では、中国の東北地方だけと比べても圧倒的な力の差がつく。しかしそれでも、ロシアというカードは捨てていいものではない。

 ウクライナ戦争での制裁で、日ロ関係はこれから少なくとも数年停滞するだろうが、関係は維持しないといけない。特に日ロの経済関係や文化交流でこれまで人生を築いてきた民・官の日本人、ロシア人を大事にしないといけない。彼らはコロナ、制裁のダブル・パンチで人生の意味を奪われようとしているのである。

 外務省は、相手国との関係全体をマネージするべき存在だ。国会、総理官邸、マスコミへの対応だけで息が切れてしまいがちだが、双方の社会全体にも目を配らないといけないと思う。これが、この30年で得た最後の教訓である。