安倍晋三元総理を偲んで


外務省顧問 前駐米大使 杉山晋輔

 安倍晋三元総理は、第26回参議院議員選挙の投開票が7月10日に行われる直前の7月8日午前11時31分頃、選挙の応援に訪れた奈良県大和西大寺駅北口近くで演説中に、背後から銃弾を撃ち込まれた。筆者は友人から、直ちに流れた速報の一報を知らされすぐテレビのニュースでこれを知り、とにかく一命だけでもとりとめてほしいと祈り続けた。しかしそれもむなしく、同日午後5時3分死亡が確認された。民主主義の根幹をなす選挙の最中の、決して許すことのできない暗殺である。筆者はあまりのショックで、しばらく何も考えることができなかった。

 思い起こせば筆者が安倍総理にはじめてお目にかかったのは、ずっと若いころ。いうまでもなく総理の御尊父は安倍晋太郎外務大臣。そのまたご尊父は、戦前東条軍閥内閣に反対を通しても選挙に当選された安倍寛衆議院議員。母方の御尊父が日米安保改定の偉業をなされた岸信介総理だという事は、記述するまでもないことである。

 安倍総理は、ご尊父が外務大臣の時の1982年に大臣秘書官として外務省に来られた。当時筆者は駆け出しの条約課の事務官。年頃が近かったこともあり、大臣室でお目にかかるうちに同年配の先輩同僚に加えてもらって、総理もまだご結婚される前の若き安倍「大臣秘書官」、時折一緒に飲みに行ったりしていたことを、今となっては、夢のように思い出す。

 その後、1990年6月20日には日米安保条約改定30周年記念の大きな午餐会が、ワシントンDCの国務省の立派なバンケットホールでアメリカはベーカー国務長官とチェイニー国防長官共催で、日本の代表は安倍晋太郎元外相が政府特使で訪米され安倍晋三総理も御尊父の補佐としてご一緒された。この補佐役の一人を命じられた筆者は、ワシントンDC で若き一等書記官として在米大使館に勤務していた時だったので、改めて安倍晋三総理にご挨拶。米側の配慮もあって筆者もこの記念すべき午餐会の末席を汚す光栄に浴した。その時の、米国務長官と国防長官から「安倍晋太郎特使のために」と書かれた招待状は、以来筆者の宝として自宅に飾ってある。

 それからというもの、筆者は折に触れ安倍総理の御指導を頂く機会があったが、なんといっても外交官としては時として密接に直接にご指示を仰ぎ、時には議論さえさせていただくようになったのは、体調を回復され巷間奇跡的ともいわれて再登板した第二次安倍政権発足(2012年12月26日)前後から、再び体調を壊されて退陣する2020年9月16日までの間に、筆者が外務省アジア大洋州局長、政務担当外務審議官、外務事務次官そして駐米特命全権大使としてお仕えした7年8カ月ほどの時である。この間の外交課題をめぐる記憶の多くが鮮明に残っている。アメリカのトランプ大統領とのこれ以上ない友情関係、いや、トランプ大統領だけではない、日本にとって唯一の同盟国たる米国とのここまでの緊密な信頼関係を構築されたこと、更には、今や国際社会では重要な要素に育っている「自由で開かれたインド太平洋構想」を日米豪印の首脳会議として定着させた、いわゆる“QUAD”が安倍総理がもともと提唱された考えであることを知らない世界の指導者はいないこと、など、書き出したら紙面がいくらあっても足りない。だからこそ、世界各国で安倍総理の御逝去に対する哀悼の気持ちが広がっている、と思う。

二人の米国大統領との関係
 トランプ大統領の登場や「トランプ現象」といわれるものは、確かにきわめて「非伝統的」な大統領像を示したトランプ大統領の個人的資質、性格やスタイルによるところが大きい。しかし、その本質を見ると、当時大使としてアメリカに在勤した筆者の皮膚感覚からすれば、トランプ現象とは、これまで数10年に及んでアメリカが抱えてきた、広い意味での経済、社会全般にわたる格差の拡大が、どうしようもないところまできて生んだ現象、ではないかと感じている。つまり、トランプ大統領の誕生は、原因ではなくて長い間の結果として起こったことのような気がしている。
 それはともかく、一度も公職に就いたことのない、きわめて個性的、非伝統的なトランプ大統領の治世は、控えめに言ってもこれまでに例を見ないことのないようなことの連続であったといって良いように思われる。そのようなトランプ大統領と、ほかのどの首脳より断然固い友好的関係を築かれたのが、ほかならぬ安倍総理であったことに、反対するものは一人もおるまい。ただ、これには出発点がある。

 2016年11月8日の大統領選挙で、大方の予想を破ってトランプ候補はヒラリー候補を破り第45代米国大統領に当選する。その2-3日後、安倍総理は当選お祝いの電話をトランプ大統領就任予定者にかける。そこで、安倍総理は、外務省の多くの意見、いや広く政府部内の多数意見を押し切り、まだ大統領に正式就任する前のトランプ氏と、11月17日にリマでのAPEC首脳会議に出席する途次政府専用機の給油で立ち寄るニューヨークのトランプタワーで、会談することを申し入れ、勿論トランプ氏の快諾を得る。その結果、アメリカにはある時点では大統領は一人しかいない、という外交慣例を破り、「安倍―トランプ会談」の第1回が行われたのである。筆者はその会談の詳細をここで語る自由を持たない。退官しても、守秘義務は残るから、である。しかし、この会談は、トランプ大統領当選者にとっては、決定的なもの、であった。誰もが、選挙戦を通じて、余りに「非伝統的」な大統領の登場に戸惑っており、ただ一つの超大国の指導者とどのように向き合っていくかで頭を抱えていた時だった、その時に、G7の一員で東洋の大国日本の指導者が、真っ先に大統領に正式就任する前に飛んできて会おうとというのだからである。実際、90分ほどにわたりじっくりと両「首脳」は語り合ったのである。筆者はこの「首脳会談」についてトランプ氏がどう思ったかという事について誰から聞いたということも、会談の内容も、日米関係の機微に触れるのでここで明らかにすることはできない。しかし、この時のことを、トランプ「大統領」が、「自分でも超大国の指導者が務まるのだ、外交も自分はできるのだ」と深く感じ入ったことは、筆者が直接知っている事実である。当時外務次官として安倍総理とこの顛末を協議した筆者にとって、このことは、まず記述したかった点である。「安倍―トランプ」のほかにない極めて良好な関係は、この11月17日のトランプタワーでの、外交慣例に背馳する「日米首脳会談」抜きには、決して語れない、のである。

 これには、更に後日談がある。すべて終えてリマから帰国された直後の安倍総理は、外務次官であった筆者を官邸に呼ばれた。その時、筆者は、トランプタワーでの日米「首脳会談」の成功をお祝いして、総理も、ああ、よかった、とおっしゃるものとばかり思っていた。しかし、その顛末を少し言われてすぐに、総理は、「杉山さん、この件でまだ現職のオバマ大統領は怒っているだろうね、大統領は、まだオバマ一人しかいないのだから、ね。」と言われた。安倍総理は、「オバマ大統領は年末は大統領として最後をゆかりのあるハワイで過ごすのでしょう?オバマ大統領にも世話になったし、最後に私がハワイに行って日米首脳会談を行うのは、どうだろう。でも折角ハワイで首脳会談をするなら、オバマ大統領と私でパールハーバーのアリゾナ号に行き、そこで日米同盟の強さ、power of reconciliation をうたいあげたいが、反対ですか?」と。筆者は、心の底からたまげた。日本の指導者のパールハーバー訪問は、長い間外交当局の強い願いだったことを、よく知っていた。それなのに、事務当局の責任者からは何も言っていないにもかかわらず、総理ご自身のお考えとして言われたから、である。筆者はトランプ氏との会談の成功のあと、オバマ大統領とパールハーバーなど考えもしなかった。本当に自らの不明を恥じた。安倍総理とは、このような優れて先を見る眼力、バランスのとれた外交感覚をお持ちのリーダーであった。たしか12月28日に行われたオバマ大統領との最後の日米首脳会談が、歴史に残る成功をおさめたことは、いうまでもない。

G7首脳会議
 これ以外にも多くのエピソードがあるが、それらの中でも、筆者にはまだ公務員法上の守秘義務がある範囲内で、それもG7サミットの議論の中身は対外秘であるという原則を知りつつも、この際安倍総理の追悼文として書き残しておきたいことが特に一つある。これは、このことがあった後いろいろ検討して、実際には日本のマスコミに少しは報道されたことでもある。でも多くには共有されていない。それは、現在この瞬間も、国際社会の主要課題で、現実の殺戮が起こっているウクライナ問題に関連したことである。

 ウクライナを語りだしたら、遠くは今のロシアの原点にもなる中世のキエフ大公国にさかのぼらなければならないだろうし、現代史だけ見ても、1954年2月クリミア半島がソ連のフルシチョフによってソ連の一地方政府であったウクライナに移転されたこととか、1986年のチェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故とか、1991年8月にソ連から独立してウクライナになったこととか、触れることは多い。しかし、記述の通り、筆者にとっては安倍総理との関係で、ウクライナに関して決して忘れられないことがある。2014年2月、「マイダン革命」によってウクライナの政権がそれまでのロシアよりのものから西欧寄りに変更になったことをきっかけにして、ロシアのプーチン大統領は同年3月18日、「住民投票の結果」を根拠にして、ウクライナの不可分の領土であるクリミア半島を一方的にロシア領に編入してしまった。住民投票の結果がどうであれ、国家間の合意や何らかの国際的合意によらずに領有権が一方的に移転することを認める国際法は、存在しない。このロシアのウクライナの一方的併合は、どう見ても国際法違反と断ぜざるを得ない。時あたかも、1998年からG7からG8になって2014年はロシアが議長国としてクリミアの保養地、ソチでこれを執り行うことになっていた。しかし、他のG7諸国は、このような明白な国際法違反を犯しウクライナの領土であるクリミアを併合しているロシアなどに議長国をさせるどころか、G7の枠組みにとどめおくことも認められない、という事になった。2014年のサミットは同年6月4-5日という予定であったから、前議長の英国も、次期議長のドイツもG7サミット開催準備の時間的余裕がない。そこで、G7首脳会議への参加は認められていたが、主権国家ではないという事でEUが開催して議長を務めることは考えられてこなかった事情をふまえて、2014年のG7サミットは例外的にEU のブリュッセルで時間を短縮して行われることになった。具体的には、6月4日のワーキングデイナーでウクライナ情勢を議論して、5日は朝からまず外交政策の続き、そして世界経済、エネルギー・気候変動、ワーキングランチで開発など、という議題設定になっていた。しかしながら、事柄の性格上、G7各国首脳の関心は専らロシアのクリミア併合というウクライナ問題に集中した。一日目のワーキングデイナーでこれが討議された後、米国から夜急遽連絡があり、各国のウクライナを担当する政務総局長(PD)及び安保補佐官(NSC)と、5日早朝に協議したいとの連絡があり、みな集まることになった。その場でどういう議論があったかを説明することは、筆者の守秘義務との関係もあるので詳述しないが、要するに、当時のオバマ政権としては、ここでロシアの暴挙に対してこれまで以上の強いメッセージを送るべし、という事であった。ワーキングデイナーの議論の後に考えたとはいえ、首脳を補佐する「シェルパ」会合での議論も経ず、もちろん外相間の議論も経ず、いきなり新たな要素も含む論点を直接首脳で議論してG7としてまとまった強い姿勢を示そうというのであるから、内容的にも議論があるし、まして手続き的には、全く異例の展開である。早朝の会議では、米国を除くG7各国は、専ら手続きとして無理がある、内容も充分に検討しなければ何とも言えないとのことで、一度米国も再検討することになった。これを担当していた筆者は、しかし米国というところは、いかに手続きに難があろうと、内容が大切で、とにかく首脳で何か決めようとするに違いないと思い、朝の首脳会議が始まる直前に安倍総理に顛末を、シェルパを務めていた経済担当外務審議官とともに大至急かいつまんで報告した。すぐ首脳会議が始まる。時間はない。米国の論点の概要、ありうべき問題点など、ともかくとりあえずのペーパーを手書きで作成して総理にお渡しして、朝の首脳会議が始まった。

 蓋を開けてみれば、予想の通りである。朝の会議の議長を務めたメルケル独首相が会議を始めるや、オバマ大統領が発言を求め、早朝の事務レベルの会議で提起して一度引き取った論点をいきなり首脳の前で提起、説明を簡単にした。それからの顛末は、この場では到底紹介できるようなものではない。米国提案にある程度協力的な国もあったが、当然多くの国から手続きがあまりに乱暴として、大騒ぎ。ある首脳は、何の準備もなくいきなりこれほど重要なことを提起してここで賛成せよとは何事か、というと、米国も負けてはいない、ウクライナ問題はそれほど切迫している、我々は首脳だろう、最終責任者ではないか、なぜ決められないのか、内容についての議論をしようではないか、といって、更に大騒ぎ。予想はしていたものの、担当者としてそばにいた筆者もあまりの激論ぶりに、ああ、サミットというのはある意味で本来こういうものなのだとあっけにとられてしまった。

 そこで、肝心の我が総理、各国首脳が大激論、時として感情的とも言えるくらいの激しいやり取りをしている間、ずっと聞いておられ、なにやらご自分でメモを取っておられる。会議の記録は我々もいるし遠くで音声だけ聞く記録係は各国ともいるのだから総理がとる必要はない。この激論45-50分間くらいの間一体何をメモされているのだろう、安倍総理はどうされるのだろうと思って固唾をのんでみていた。さらに激論がヒートアップする中、突然沈黙を破ってやおら「アンゲル?」といって手を挙げて発言を求めたのが安倍総理。議長役のメルケル首相も「今、晋三が何か言いたがっている、みな静かに聞こう」といって安倍総理に発言を許した。それからである。総理は、我々が事前に渡した手書きのメモもご覧になりながら、各国首脳の議論の要点を要領よくご自分で整理され、日本の立場も踏まえつつ、「皆のいう事はよく聞いた、米国のやり方は確かに乱暴である、しかし、ここで最も大切なことは、ウクライナに対するロシアの暴挙に対して我々G7が割れないで一致団結し協力して事に当たることである、米国の提案の内容には合理的な部分もある、そこで、今までの議論も踏まえ、自分なりにここにいる皆が合意できる最大公約数的なものを、以下の4点にまとめてみた、これからそれを言うので、首脳に置かれてはよく聞いて、これでG7の合意にしようではないか」、といったうえで、ずっと書かれていたメモの4点を要領よく読みあげられた。一瞬シーンとなった直後にまた皆が大声で騒ぎだそうとするところを、そこはメルケル。全員をさえぎって、「シンゾウ、あなたの4点は極めてバランスが取れよくできている、これ以上のやりあいはやめよう、ここでシンゾウの4点をG7の総意として合意することとしたい」といい、それでも声を上げる首脳を無視してそのセッションの議長の特権でバンとギャベル(木づち)を打ち、「これにて合意達成、このセッションは散会とする」、と宣言。みな総立ちになったが段々と一人一人と安倍総理のところにきて固い握手。オバマ大統領も「シンゾウ、ありがとう」とハグ。最後はメルケルが、「シンゾウのおかげだ」とお礼の握手。目の前で見ていた筆者はただただあっけにとられるばかり。一体何のメモをかかれていたのだろうかとの疑問は、一瞬にして吹っ飛んだ。それは、我々のお渡ししてあったものも見ながら、しかし各国のポイントをよく聞いてご自身でお書きになっていたもの、だったのだ。

 ウクライナは、確かにヨーロパという一地域の問題ではない。日本の国際的発言力はつとに高い。特に安倍総理は、皆から尊敬され一目も二目も置かれている。経験も長く首脳で個人的にも知らない仲の人はいない。それでも、である。NATO の域外国でアジアからの唯一の参加国の日本。その日本の総理が、この難しいウクライナ問題の対応ぶりにつきG7 の議論に貢献するというだけでなく、激論を交わし対立しているG7諸国がそれぞれにそれなりに納得する案を具体的に提示してそれで採択されるとは。筆者が、安倍総理の指導力、いや日本の外交力はすごいものがあるのだ、という確信をもった、その瞬間であった。

 長くなった。安倍総理の追悼という事で特にお許しいただきたい。ついでに最後に一言。ことが終わり、帰国ののちには、筆者はこの顛末を外務大臣、官房長官など限られた要路に報告した。多くの方が、それは何も日本国民に知らせないのは、もったいない、君から総理の了解をとって差し支えない範囲でリークして日本国民にも知らせるべきだといわれ、私もそう思います、といって、安倍総理にそのようにご進言した。その時の安倍総理、「杉山さんの気持ちは多とするしある程度説明することは重要だという点はわかる、しかしG7サミットの原則はね、中での議論を自慢して外部に言わない、というものなのだよ、そうでなければ、今回のような本音の議論ができなくなるでしょ」というものであった。今頃安倍総理は、天国から、「君は自分がいなくなったら自分の指示に従わないのだね」と笑っておられるのかもしれない。

 このような偉大な日本のリーダーを失って、筆者はいまだにそのことを信じられずにいる。
 本当に、心からご冥福をお祈りいたします。我々は、総理の御指導をずっと忘れることは、ありません。

(令和4年8月28日記)