大草原の小さな巨人~カザフスタンの未来と日本


駐カザフスタン大使 山田淳

 2022年秋、とある動画がカザフスタンのネット上で評判となった。
 「幾重にも連なる雄大な山脈の夕映え。一人の青年がリュックを背負い、キャリーケースを引きながら重い足取りで急斜面を登って来る。黒メガネに巻き毛の如何にもインテリ風で、一見してこの時期一斉に国外に逃れて来たロシア人(おそらくユダヤ系)を想起させる。既に疲労困憊の彼はついに力尽き足がもつれて転倒しそうになるが、その瞬間馬のいななきと蹄の音と共にカザフ人の男が駆け寄り、『これを食べて元気を出せ』と青い小片(カザフスタンに住む人間にはお馴染みの青地に金色の太陽と鷲の国旗をあしらったチョコレート)を差し出す。驚いて顔を上げたロシア人青年は『何これ?』と尋ねる。馬上の男は淡然と笑みを浮かべつつ『これが自由の味だ』と告げ、そのまま馬を駆って走り去った。太陽が没し満天の星が降る山上に坐した青年は、深い安堵の表情を浮かべつつ自由な大地の味を堪能する。」
 時事問題~露による「部分動員」~をネタにしたチョコ会社のCMのようにも見えるが、実は同社と全く関係のない個人がCM風に装って作成したパロディ動画と判明、そのアイロニーの度は一層高まる。政府間のやりとりが表向きに如何なるものであれ、カザフスタン国民の大半が現下のウクライナ侵略に関して抱く感情の実相はかくの如くであろう。
 本来最も親密たるべき隣国の主権を全否定し、核による威嚇をもって外部からの介入を排除しつつ侵略行為を続ける露の企図するものが「ソ連邦の復活」というのであれば、それはあたかも自身の非で車ごと断崖から転落した輩が、既にスクラップと化した自車のギアをバックに入れ逆向きに絶壁をよじ登ろうとするが如き不毛な行為に思える。仮にカザフスタンに対しそのような愚行への同調を強いる場合、彼らの反応はウクライナと同様乃至それ以上に苛烈なものとなろう。その根拠として、筆者には以下の点が直ちに想起される。

セミパラチンスクにおける核実験

 1949年8月から40年間、公式数字だけでも456回にわたり繰り返されたソ連による核実験は、独立後30余年を経た今日もなお消えやらぬ傷跡をこの国に残している。実験に先立つ周辺住民への警告・避難勧告の欠如はもとより、意図的に住民の一部を人体実験目的で爆心地付近に拘束するようなソ連システムの非人間性は、膨大な数の周辺住民の疾病や悶死に加え、およそ正視するに忍びない幾多の肉体的奇形をもたらした。核実験場の位置・風向等の関係から漏出した放射能は常にセメイ(旧セミパラチンスク)やオスケメン(旧ウスチ・カメノゴルスク)をはじめとするカザフスタン北東部の諸地域に最も大量に降り注ぐこととなったが、同地の住民構成は独立以前からロシア系の比率が顕著に高く、当然ながら放射線は人種の如何を選ばない以上、現に相当数に上るロシア系がそうした辛酸をなめる結果となった。ソ連崩壊に先立ちカザフスタン独立に向け最重要の契機となった「ネヴァダ・セミパラチンスク」運動においても、これらロシア系住民が率先して参画している姿が記録されている。今日なお手足や指、更には眼球の数すら尋常でない肉体のまま生きることを余儀なくされているこれらの人々に対し、如何にして「古き良きソ連」を吹聴しようと言うのか?仮にドンバス類似の傀儡権力を樹立せんと試みても、少なくともこの地においては現実性を欠くように思われる。

〈写真〉セミパラチンスク慰霊碑(筆者撮影)

 90年代の独立直後より広島・長崎の医師を中心とする数多くの日本の専門家が手弁当で当地に駆け付け、正に粉骨砕身・親身の医療支援を現地住民に行って来た。このことは、国全体が親日的なカザフスタン内においてもとりわけ深く特別な対日感情を当地に醸成し今日に至っており、核兵器の使用は人類史全体を通じて広島が最初、長崎が最後となるべきとする日本人の心情は、当地の人々にとり何らの説明も要せず瞬時に共有され得るものである。露が核の使用を仄めかして全人類を恫喝している今日、「その核が誰の犠牲によってもたらされたか忘れたのか?」とのカザフスタンの問いかけは他の何物にも増して道徳的に厳しい牽制~ほとんど「拒否権」~となるものであろう。正にかかる観点から、望むらくはいつの日か我が国の要人がセメイの地に降り立ち、我々両国しかなし得ない呼びかけを露のみならず全世界に向かって発することが実現すれば、それは最早二国間関係の文脈を越え、グローバルに計り知れない価値を有する人類全体への貢献となろう。
 (生前の天野IAEA事務局長も正にかかる思いを胸に1949年の初実験「グラウンド・ゼロ」を訪れるとともに、不拡散を担保する上で重要となる低濃縮ウラン備蓄バンクの立ち上げをはじめ、カザフスタンへの特別な支援を格別の情熱をもって推進しておられた。)

アラル海消失

 かつて地球上で4番目に大きい陸水であったアラル海は、やはりソ連式システム固有の無謀かつ杜撰極まりない恣意的な「自然改造」の犠牲となり、今日見る影もなく砂漠化してしまった。一夜にして湖岸線が数百メートルも後退する消失のペースは正に戦慄すべきものであり、およそ人間が自然環境に対してなし得る愚行の極致をなしている。最終的にその進行を食い止めるには至らなかったものの、この間30年以上にわたり石田紀郎京大名誉教授を筆頭に幾人もの日本人研究者が継続的に現地を訪れ、住民と一体化しつつ最大限の努力を払って来た。この事実は上記のセミパラチンスクと並んで、我が国のカザフスタンとの国民レベルの関係における貴重な財産となっている。

〈写真〉アラル海北端(筆者撮影)

 本件に象徴される水問題は正に中央アジア5か国を一致団結せしめる最大のイシューの一つに他ならず、今日隆盛を極める「5+1」フォーマットの嚆矢となった「中央アジア+日本」対話を世界に先駆けて2004年に開始した我が国として、右の20周年にあたりアラル海問題にあらためて真剣な光を当てることが期待されるところである。

強制収容所と日本人抑留

 20世紀に生じた一連の強制収容所は人類史における最暗黒の頁ではなかろうか。就中スターリン期のグラーグは、その規模・存続期間・冷血なシニシズムにおいて突出している。それだけに一層、正にその真っ只中でカザフ民族が日本人抑留者に対し示した人間的な支えは、あたかも漆黒の闇夜に差す一条の光芒の如くであった。
 カザフスタンには収容所群島全体でも最大級のラーゲリが設置され、その中には政治犯本人のみならず専らその妻子を拘束する特別収容所も存在していた。1950年代前半のスターリン体制崩壊にあたっては囚人による最大級の反乱が勃発し、酸鼻を極める凄惨な弾圧の舞台となった。ゼロコストの労働力として政治犯(実はその多くが当時のロシア社会における知的に最優秀の部分をなしていた)を奴隷化し、極北や砂漠等極限状況にある地点の開発に湯水の如く投入するのがグラーグ・システムの本質である以上、あらゆる天然資源を豊富に産出するカザフスタンは必然的にその「銀座通り」とならざるを得ず、大戦終結後の「シベリア」抑留においても全体の1割強の日本人は当地に送り込まれることとなった。
 しかし、後述の人為的な飢餓を含め既にあらゆる辛酸を味わっていたカザフ人はこれら日本人に対し並々ならぬ同情心と共感を示し、ロシア人看守の目を盗んでは陰に陽に我らの同胞を支えてくれたのであった。その結果、当地における日本人抑留者の死亡率は、本来ロシアに劣らず酷薄な気候と労働条件にもかかわらず2%台に留まることとなり、全体で1割を超える人々が命を落とした抑留史中で顕著な例外をなしている。こうした記憶を将来に繋ぐべき慰霊碑がこれまで新首都アスタナには欠如していたところ、ついに昨年3月右が建立された点は誠に欣快であった。また、その実現に向けてカザフスタン政府・市当局が示した全幅の共感と支援も、正に前世紀におけるそれを彷彿とさせるものがあった。

〈写真〉日本人抑留者慰霊碑(筆者撮影)

 (ちなみにカザフ側の複数の証言によれば、1939年のノモンハン事件後数千人規模の日本軍捕虜がカザフスタンに連行され強制労働に付された由で、右が事実とすれば当時の日本側で公式には「戦死」とされていた将兵の少なからぬ部分がシベリア抑留以前から当国の各地に散在していたこととなり、今後の更なる検証が望まれるテーマであろう。)

ホロドモール

 ソ連当局が意図的に発生させた飢餓により数百万人が死亡した途方もない記憶はウクライナが一貫して問題提起する対露関係上の最大の遺恨の一つであるが、実はカザフスタンにおいても1930年代初頭2度にわたり全く同様の惨劇が繰り広げられ、総計4百万人に及ぶカザフ人が犠牲になったとされる。前者におけるそれは富農撲滅なるイデオロギーにより強行されたが、カザフスタンの場合生来遊牧民として維持してきた生活様式が破壊され、その意に反して定住と集団農場その他における奴隷労働を強制されるとの文化的なショックも重なり、殊更に悲劇の度合いを増すこととなった。

〈写真〉ホロモドール慰霊碑 (筆者撮影)

 独立後30余年を経てカザフスタン人の生活水準は各段に向上しているが、今日なおその出生率は日本等から見て垂涎の高レベルにあり、草の根無償支援等で国内各地を回る度に、校舎に収まりきらない児童数に対応すべく一日三交代で授業を行う学校を多数目にする。更には周辺諸国からの同胞(「カンダス」)帰還運動の着実な進展も相俟って昨年末には総人口が悲願の2千万人に達したが、カザフ人の口癖は「ソ連体制によるホロドモールさえなければ、今頃我が民族の人口はトルコを凌駕する9千万人を数えていたはずだ」というものである。

カザフ版「坂の上の雲」

 近代カザフスタンの独立は実は1991年に先立つ百年前の「アラシュ自治国」が原点であり、その精神的なリーダーの一人がアリハン・ボケイハンであった。同人のヴィジョンにおいては正に日本の明治維新が究極のモデルとされ、特に日露戦争をもって露の拡張主義を撃退した点は多大なインスピレーションを彼らにもたらした。このことを深く根に持ったスターリンはアラシュのリーダー連を「日本のスパイ」として断罪し根こそぎ抹殺したが、右は勿論一切の根拠を欠く濡れ衣である。(もし当時の日本がそれだけの諜報・謀略能力を備えていたなら、その後の自身の転落と破局も回避し得たことであろう。)
 同人の肖像は今日カザフスタン国内のあらゆる場所に掲げられ広く顕彰されているが、一見してその相貌・眼差しは明治期日本の元勲を思わせるものがあり、今日仮に存命であったなら「坂の上の雲」の主要キャストとして真っ先に起用されてもおかしくない。この例に限らず、単に外見的なものにとどまらない日本との相似性を多くのカザフ人が自然な形で胸中深く秘めている点には、実に感動させられる。

〈写真〉ボケイハン肖像 (筆者撮影)

 これら諸点のいずれについても今日の露がオープンな議論に応ずるはずはなく、両国間の公式のやりとりで表面化することも考えられないが、カザフスタンにとってはその一つ一つが自己アイデンティティの鮮烈な核となるものであり、独立・主権の最重要の原点を構成している。そうした存在に向かって「次はお前だ!」とばかりに襲いかかる愚を犯すなら、次回もまた「花束をもって迎えられるはずが…」式の醜態を繰り返すこと必至であろうが、ここは日本も世界もそれを未然に抑止すべくカザフスタンを支え続けることが極めて重要な責務となる。特に我が国に関しては、上記のとおりホロドモールを除く他の全てについてユニークかつ密接に関わっているだけに、その役回りの決定的な重要性は論を俟たない。
 ここで真の意味における「グローバル化の完結」とは何かを考える場合、ユーラシア大陸の最奥部に位置する存在が眼前の露・中に翻弄される一方であることを止め、法の支配・個人の自由・民主制といった普遍的なスタンダードに直接リンクしつつ自らもその旗手となることこそ、その最良の帰結と言えるのではないか。かつ、そこにおいてはカザフ人のみならず我々皆がNomadとなり自らの居所を自在に選びつつ硬直的な領域概念を超越して恒常的に旅を続けているはずであり、その時はじめて人類共通の家としての「一つの惑星」が現出しているのではなかろうか。彼らの過去は、実は我々の未来であるかも知れないのだ。

(本稿は筆者個人の見解であり、所属する組織の政策を示すものではない。)