外交関係樹立150周年:日本とペルーの戦略パートナーシップ


駐ペルー大使 片山和之

1.人生初めての南米、そしてペルー

 コロナ禍の中、奮闘を重ねている内にペルー生活も、あっという間に約2年半が経過した。赴任前に、「ペルー」と聞いて頭に浮かんだことは、地球のほぼ反対側に位置する遙か彼方の南米の国、天空都市マチュピチュやナスカの地上絵、ピサロに滅ぼされたインカ帝国、日系人大統領アルベルト・フジモリ、日本大使公邸占拠事件、フォルクローレ「コンドルは飛んでいく」、そしてアルパカ。正直なところ、ペルーについてこの程度の断片的かつ浅薄な知識しか持ち合わせていなかった。

 2020年7月28日に皇居で認証式が行われ、特命全権大使を正式に拝命した。奇しくもペルーの独立記念日であった。コロナ禍の中、太平洋路線が運休中のため西回り欧州経由、アムステルダムに一泊して9月16日にペルーに着任した。37年余りの外務省生活の中で、ペルーはおろか、南米の地を踏むのはこの時が人生初めてであった。スペイン語圏在勤もしかりである。

2.ペルーの特徴

 ペルーは、豊かなアンデスの歴史、文化、自然を擁する魅力溢れる国である。1873年、日本がラテンアメリカで最初に外交関係を樹立した国であり、ペルーにとってもアジアで最初に国交を樹立した国である。海外で3番目に多い日系人約10万人が住む国である(RENIEC(全国身分登録事務所)による新たな調査結果が近く発表される予定であるが、かなり増加することが想定される)。共に太平洋国家としてAPECのメンバーであり、2国間EPAやCPTPP/TPP11を締結する等経済的に深く重要な関係を持つ。日本の商社・鉱山会社がペルーの鉱山(銅、亜鉛等)開発にも参画している。ODA供与額累計ではラテンアメリカでも最大級であり、その他、文化・考古学分野の協力も緊密であり、防災(地震・津波)という共通課題に取り組んでいる国でもある。

3.意義深い時期の赴任

 2021年は5年に1度の総選挙(大統領選挙・議会選挙)が実施され、同時にペルー独立200周年という大きな節目でもあった。2022年は大使公邸占拠事件解決(チャビンデワンタル作戦)25周年、本年2023年は日・ペルー外交関係樹立150周年、2024年はペルーAPEC(ペルーが議長国となるのは3回目)が開催予定であり、同時に日本人移住125周年を迎える。そして、2025年は大阪・関西万博の年である。両国間の戦略パートナーシップ関係を発展させる上で、非常に意義深い出来事が重なるこの時期にペルーに赴任できたことを幸運に感じている。

(写真)ビスカラ大統領(当時)への信任状捧呈

4. ペルー内政

 2021年に実施された大統領選挙は、第1回投票で過半数を獲得した候補がおらず、カスティージョ候補とケイコ・フジモリ候補(フジモリ元大統領の長女で日系3世)の間での決選投票となった。結果は僅か0.26ポイントの差でカスティージョが当選した。ケイコは連続3度目の決選投票進出を果たしたが、今回も勝利の女神は微笑まなかった。

 議会はカスティージョを推薦した左派のペルー・リブレ党が最大議席を獲得したが、全体では野党が過半数を占め、不安定な政治情勢の中での船出となったカスティージョ政権が5年の任期を全うすると予想した者はほとんどいなかったが、結局、ほとんどの政策が実現されないまま、2022年12月7日、大統領が突如議会解散を宣言。それに反発した議会が大統領を罷免し、同政権は1年4か月余りで終焉し、副大統領職にあったボルアルテが任期を引き継ぐ形となった。ここ数ヶ月は反政府デモが南部を中心にリマにおいても散発しており、また、次期総選挙の前倒し等を巡って政府と議会、そして議員間で鞘当てが行われており、政情不安が続いている。ちなみに、信任状を捧呈したビスカラ大統領(当時)に始まり、メリノ、サガスティー、カスティージョ、ボルアルテと赴任後これまで5人の大統領(内、選挙で直接選ばれたのはカスティージョのみ)を経験し、ペルー政局の不安定さに翻弄された面も否定できない。

(写真)救急車95台供与式(ボルアルテ大統領、ヘルバシ外相、グティエレス保健相と)

5.外交関係樹立150周年関連記念行事

 2月初旬、ペルー外務省において関係者100数十名の出席の下、ロゴマークのお披露目を兼ねた立ち上げ行事が盛大に行われ順調なスタートを切ることができた。その際に併せて行われた回顧展では150年前の通商航海仮条約原本等の展示が行われ歴史的価値のある展示会となった。今後、記念切手・硬貨の発行、海軍・海上自衛隊練習艦隊の相互訪問、日ペルー友好の日(4月3日)記念行事、条約締結日(8月21日)記念行事、要人往来、叙勲・表彰、その他各種文化、スポーツ、経済、地方交流事業を年間を通じて展開できればと願っている。

(写真)ペルー外務省での150周年立ち上げ行事

6.赴任後の主要な進展と成果

(1)CPTPPについては、主管省庁であるペルー外務省や通商観光省と緊密に連携しながら大統領、国会議長、外務委員長他議会幹部への働きかけを精力的に行った。その結果、2021年7月に議会可決、9月19日、遂にペルーに対して発効、同国がCPTPPの南米初、世界で8番目の締約国となった。

(写真)ペルーCPTPP締約記念式典

(2)日系企業から早期締結の要望が寄せられていた日秘租税条約については、2020年12月に議会が承認し、2021年1月29日無事発効の運びとなった。

(3)ケジャベコ鉱山の稼働

 ケジャベコは、三菱商事(40%)がアングロ・アメリカン(本社ロンドン)(60%)とともに投資しているペルー南部モケグア州の銅鉱山開発案件である(総開発費55億ドル。埋蔵量8.9百万トン、山命36年)。コロナ禍や政情不安の中、計画の進捗への影響も懸念されたが、ほぼ予定通り2022年7月に生産開始に漕ぎ着けた。同月に関係者による完工セレモニーがリマ市内で行われ、私も英国大使、アングロ・アメリカン本社社長、ケジャベコ社長等とともに出席した。

(4)ペルーのOECD加盟問題

 2022年6月、OECD閣僚理事会はペルーとの加盟協議を開始することを決定した。ペルーが自由、民主主義、法の支配、人権、開かれた貿易、持続可能で透明性が確保された市場経済、気候変動への取組といった加盟国に求められるOECDの目標を確認する過程で、我が国としても引き続き重要な役割を果たしていくことが求められる。

(5)大使館新事務所竣工

 旧大使館事務所跡地に建設中であった新事務所は2021年初頭に竣工した。新型コロナウィルス蔓延等に伴う工期の遅れによって、結果的に新事務所を使用する初代大使という幸運に恵まれた。2021年は、奇しくも日本政府がペルーに公使館(1957年に大使館に昇格)を設置して100周年という節目であり、また、ペルー独立200周年という記念すべき年でもあった。洗練された格子縞の外観デザインを持つ新大使館事務所は、日本外交の新たなランドマークとして、関係者の評判も上々である。

(6)国際交流基金リマ文化センター開設

 国際交流基金リマ文化センターが南米スペイン語圏初(ラテンアメリカではサンパウロ及びメキシコ・シティーに次ぐ3カ所目)の事務所として本年開設の運びとなったことは150周年に花を添える上でも誠に喜ばしいニュースである。

(7)ペルーに関する一般啓蒙書の出版

 拙著「遙かなる隣国ペルー 修交150周年 太平洋が繋ぐ戦略パートナーシップ」(東京図書出版 2022)の出版が実現した。多くの日本人にとり海外への関心が米国、西欧、そして東アジアに留まりがちな中、南米ペルーの重要性を少しでも喚起すべく大胆不敵にも執筆に挑戦した。

7.ペルーの戦略的重要性

 今回、ペルー駐箚大使を拝命しなければ、おそらく生涯訪れることもなく、この地域の人々、歴史、文化、そして自然に触れ、日本との関係を真剣に考えることもなかったであろう。スペイン語学習もしかりである。そう考えると、私の外交官人生を彩る本当に貴重な機会を得ることができた。

 当地在勤を通じてペルーは、以下の観点から日本にとり将来に亘って益々重要となる戦略的パートナーであるとの認識を強くした。

(1)経済パートナー(日本はペルーにとって中国、米国、ブラジルに次ぐ貿易パートナー。鉱物・農水産物の重要な供給源、日本の科学技術への期待、ラテンアメリカでの主要開発協力相手国、2国間EPA、CPTPP、APEC等経済フレームワークを共有)。

(2)普遍的価値(自由、人権、民主主義、法の支配)の共有。

(3)親日国(日系人の長年の努力と日本官民による貢献によって築かれた親日と信頼の土壌。海外で3番目に大きい日系社会、本邦には約5万人のペルー人在住)。

(4)共に太平洋国家(APEC、CPTPP、 FOIP等。南米諸国の中で首都が太平洋に面しているのはペルーのみ)。

(5)歴史、文化、自然に富み魅力尽きぬ国(考古学・文化・観光・料理・インフラ・環境・防災分野の交流・協力)。

(6)公用語スペイン語(世界20カ国・5億人以上の公用語)。

(7)若い将来性のある国(今後50年間人口増加。中間年齢は29歳(日本は48歳))。

(8)ペルーを含むラテンアメリカの重要性(国の数33カ国(国連加盟国の17%)、人口6.5億人、世界陸地面積の15%、GDP5.5兆ドル)。

8.日本外交の地平を拓いたラテンアメリカ

 上記7.(8)に付言すれば、私にとり、処女地である南米、そしてペルーでの日々は、地球儀を俯瞰しながら国際関係を考える上で、新たな視点を付加してくれた。振り返れば、ラテンアメリカは近代以降の日本外交の地平を拓く切っ掛けを与えてくれた地域である。メキシコとの修好通商条約(1888年)は日本がアジア諸国以外と締結した最初の平等条約であった。ハワイ(1868年)、カリフォルニア(1890年)への日本人集団移住に次いで、グアテマラ(1893年)、メキシコ(1897年)、ペルー(1899年)、ブラジル(1908年)と中南米移住が開始され拡大して行った。日清・日露の戦役ではチリやアルゼンチンから最新鋭軍艦を譲り受けた。米西戦争中、秋山真之が観戦武官として視察したキューバ・サンチャゴ港閉塞作戦の経験は日露戦争時、帝国海軍の旅順港閉塞作戦に繋がったと言われる。そして、私自身、約20年前に交渉に参加した日墨EPAは日本にとり本格的なEPAの嚆矢(シンガポールに次ぐ実質的には最初の本格的EPA)となった。

9.日本に求められる心構え

 ペルーにおける日本の立ち位置は決して安泰とは言えない。中国や韓国のプレゼンス拡大の中で、日本の存在感は残念ながら地盤沈下している。日本の国力の現状に鑑みると、それを反転させることは容易なことではない。

 他方で、ペルーの日本に対する評価や信用、期待感には引き続き高いものがある。日本としては、かかる正の遺産の「賞味期限」が残っている内に、次なる一手を打っていく必要がある。そのためには、(1)日系人と日本人の先達が築いた実績と信頼を最大限活用し、(2)日本人一般のラテンアメリカへの関心を喚起し、(3)約5万人の在日ペルー人との共生を図り、(4)スペイン語人材を育成し、(5)普遍的価値を共有する他の民主主義諸国と連携すること、そして何より、(6)日本自身がペルーにとって魅力的で憧れの対象として輝き続けることが不可欠であると考える次第である。

 ペルーを含めたラテンアメリカの潜在的重要性は戦前から語られて来たが、それが未だに潜在レベルを抜け出していないことは残念である。それを十分に開花させるに至っていない背景には、現下の政治情勢に現れているごとく、彼等自身の内なる問題が存在することは否定できないと考えるが、同時に、多くの日本人がペルーを含めたラテンアメリカにもっと目を向ける必要があることを痛感する次第である。

(注)本稿の内容は筆者個人の見解であり、外務省の公式な立場を代表するものではない。