余談雑談(第165回)人間と感情

元駐タイ大使 恩田 宗

 人の寿命は長くなったが長くなるだけでは人生はより充実したものにならない。人生50年の時代でも内容濃く生きればこの世のことは充分味わったと納得しあの世に逝くことができた。心理学者は人の心は時間的に大部分が感情によって占められているという。安心・冷静・幸福・不満・淋しさ・あきらめも感情らしい。生きていると実感するのも喜び、悲しみ、欲望、苦悩などの感情に満たされたときである。人生を内容豊かなものだったと思えるか否かはそうした感情を如何に色濃く体験したかによるところが大きい。

 ただ、喜びは冷めやすく悲しみは続く。人類は大戦後も各地で殺し合いを行っておりウクライナやガザでのロシアやイスラエルの都市攻撃がもたらす悲泣慟哭は日々聞こえてくる。それは全世界の家庭や競技場や演芸場での喜び楽しみを合せたものより大きいのではないかと思う。宇宙に地球を観察している存在がいればあの小惑星から聞こえてくるのは圧倒的に泣き声だと言うであろう。

 「感情心理学」(今田純雄他)によると、感情は人間が進化の過程で獲得した生存に不可欠な能力で、人の評価や記憶の処理などにも関与しており人をして行動させ「新たな発想を生み出」させる原動力になるなど「我々の生活は感情なしに成立しない」という。しかし感情は好き嫌いのように境界が曖昧で愛も度を超すと憎しみになるなど仕分けるのが難しい心的現象である。学者の間でもその分類については意見が分れ、愛、勇気、落胆、軽蔑、服従などをどう扱うかも違う。統一的な感情理論はまだ無いらしい。感情は重要な心の状態であるが科学的に理解する手がかりは多くない。米国ではIQ(知能指数)に習いEQ(感情指数、自己の感情を制御し他者の感情に配慮できる能力)の開発が進んでおり社会的成功はIQよりEQと相関関係があるなどという研究結果があるという。

 ものの感じ方は文化により異なる。バイオリン奏者Y・メニューインは来日した際カッポレを聞き「なんと陰気な曲だろう」と言ったという。「恥」についても東西の差は大きい。何をもって恥と感じ如何なる気持ちになり如何なる行動に導くかも違う。「恥ずかしい」と「気恥ずかしい」のニュアンスの差を分って貰えるよう説明するのは難しい。

 「似たもの夫婦」とよくいうが長年仲良く一緒に暮らしていると同じ感情を共有する機会が多くなり結果として雰囲気や表情や皺のつき方までが似てくるものらしい。現代の夫婦は年とると女性の方が主導権を持つようになり亭主の振る舞いへの愚痴をよく聞かされるが傍から見ているとよく似ていることが多い。

(本稿は一般社団法人霞関会会報令和6年6月号に掲載されたものです。)