余談雑談(第154回)日本語の変化
元駐タイ大使 恩田 宗
吉川幸次郎は「袖ひじてむすびし水のこほれるを春たつけふの風やとくらん」という古今集の和歌を例にとり上げ、紀貫之が「歌っていることをこの通りの構造でほかの言葉にいい替え」られないと言い、それが日本語の長所だと論じている。英語では関係代名詞を使った「煩瑣な文章」になり、中国語では「事態をはなればなれに指摘し」その間の関係は「暗示に止め」ることとなると説く。北京の文芸雑誌は芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」を一息で訳さず「秋風撲面吹 欲語覚唇寒」と二つに折って訳しているという。
途切れなく書き連ねることができるのは長所と言えるが伝達すべき内容の重点がはっきりしなくなる恐れがある。女性が使ってきた雅文体の文章がそれで明治の女学校の手紙文の参考例「亡き友をおもふ」はこんなである。「たださへさびしき山住(やまずみ)のましてふりつづく秋雨の日を病ひの床にうちふせる身にはそぞろものかなしくながき夜をねざめがちにすごせばいとほしとやおぼされてか母君の枕ベにそなへたまひし寫し繪たれかれと小暗き灯火かゝげてながめゆくにここになみだそふるこそあれおもへば幼かりし・・・(以下略。文はこの倍続く)」。その100年後に美智子皇后陛下(当時)が書かれた「橋をかける」の文章はこうである。「生まれて以来、人は自分と周囲の間に、一つ一つ橋をかけ、人とも、物ともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果たさなかったり、時として橋をかける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います。」 文はより短くなり柔らかでありながら論旨が明確である。
日本語の改造は維新政府の主導で行われた。衝に当たったのは文部省局長(兼帝国大学教授)の上田万年である。「日本語を作った男」(山口謡司著)によると、明治23年23歳の時日本帝国の国語を創設するため博言学研究にドイツ留学を命じられた。彼は帰国後「国家が言語につき責任を持つ」べきとの信念の下①標準語の選定②言文の一致③発音主義の仮名遣い④字体の確定⑤学校教育を通じる新国語の普及、のため奮闘した。仮名遣い改革は森鴎外の意固地な反対で成功しなかったが言文一致は歳が同じで友人の漱石が「我が輩は猫」を書いて世間に模範を示してくれた。最初の国定国語教科書ができたのは上田万年のドイツ留学から13年後だった。その小学読本一を見ると「ヒトガヰマス。イヌガヰマス。」とある。
野坂昭如は若い頃は自分でも言っている通り「(七五調の)リズムを内に秘めた・・こころよい・・あだしがはらにおくしものひとあしずつにきえていく風文章」を好んで書いていた。しかし晩年になると「今年も新米を戴いた。さっそく口にする。おかずも並ぶが米だけで十分だ。」である。その著作集を開くと日本語の書き言葉が大きく変わってきた様子がよく分かる。