余談雑談(第153回) 詩経と万葉集
元駐タイ大使 恩田 宗
中国古代の歌謡詩集「詩経」は儒教々典(四書五経)の一つで士大夫必読の古典だった。文化的に当初から中国の影響下にあった日本でも長い間同様で明治になっても組織の命名に詩経が典拠としてよく使われた。鹿鳴館、有斐閣、鳩居堂などがそれである。「詩経」(中公新書)の著者白川静は、詩経は万葉集やホメロスの叙事詩や旧約聖書の詩編に相当する、どの民族も歴史の始めに当っては自分達がその後たどるべき運命への序曲であるかの様に盛んに歌を謡うものだ、と書いている。
詩経も万葉集も男女が集団で謡い掛けて踊る歌垣が源だという。謡う内容は恋や生活の喜び悲しみ、夫役・兵役の辛さなどほぼ共通している。詩経の冒頭は川洲であさ菜(ざ)を摘む乙女を妻にと見そめる歌であるが、万葉集の冒頭も「この岳(おか)に菜摘ます児、家聞かな告らさね・・」と誘う雄略天皇の歌である。詩経の「山上望郷歌」は徴集された兵士が「国を出るとき父君が・・わしの願いは只一つ・・無事に帰ってくれること・・」(海音寺潮五郎訳)と父親の別れの言葉を追憶して謡っている。万葉集の防人の両親の言葉も「父母が頭かき撫で幸(さ)くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」と生き写しのように似ている。
同じ人間であり似ていて不思議はないが、詩経は万葉集の1300年も昔のものである。現在と万葉集の時代との同じ長さの時間で隔てられている。飛鳥・奈良の時代は日本史では古代であるがその頃の中国は唐の時代で中世である。文明は生まれた時代の早い遅いに関わりなく同じような過程を経て発展するものらしい。「万葉集の起源」(遠藤耕太郎著)によると中国南部のイ族、ペー族など約10の少数民族(計1200万人)の間では、今、歌垣が盛んで男女が謡い掛け合って遊んでいるという。ペー族の歌は5音7音が基調で和歌を思わせるところがあるらしい。イ族などの少数民族が彼等にとっての詩経や万葉集に当たるものを今謡っているのだとすると、彼等は彼等の歴史の出発点に立っていることになる。しかし中国共産党の強力な全領土中華化の政策がその歴史の芽を摘んで仕舞う事になるのではないだろうか。
ロシアはウクライナにシベリヤからも兵士を動員しているという。明治・大正・昭和と謡われた軍歌「戦友」は「お国を何百里離れて遠き満州」の「野末の石の下」に眠る戦友との友情と親御(おやご)の嘆きへの思いやりを哀愁深く謡う。周王の征戦に従軍する農民も「故郷離れて幾千里・・連れてゆかれる死戦場」(詩経「何艸不黄」村山吉廣訳)と嘆く。ウクライナで戦うシベリヤ兵や遙か九州に赴むく東国の防人とその家族の悲しみも同じである。繰り返されてきた感懐だが、歴史を幾ら重ねても戦争のもたらす悲しみが絶えることはない。