余談雑談(第147回)日本語の文体

元駐タイ大使 恩田 宗

 幕末の尊王攘夷の嵐は、敵対していた薩長両藩が和解・同盟したことにより、倒幕へと収斂していった。両藩の同盟は、維新二年前の1866年のことで、その成立に奔走したのは坂本龍馬である。合意の内容を木戸孝允が書簡にし龍馬が立会人として裏書をしている。皆候文である。 

 「候」は平安時代には「居る」の謙譲語「さぶろう」で口語だったが鎌倉時代に散文用の言葉として定着した。能の語りも候文で能と一緒に全国に普及し中世・近世を通じ唯一日本全土共通の実用語になった。江戸時代の公文書や実用文書の殆どは候文で書かれ昭和初期まで外交文書や私的書簡にも用いられた。丁重であからさまな言い方を避けるので機能的な文体ではない。対幕戦争を目前とした長州藩が薩摩藩から得た支援の確約の内容を木戸はこう書き記している。「万一戦負色にこれあり候とも一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事につきその間には必ず尽力の次第屹度これあり候との事」。言葉は多いが具体的にどうして貰えるのか明確ではない。同じ頃、浜田彦蔵が横浜で発行していた海外情報新聞の文章は文語であるが、米国帰りの人らしくより明晰に書いている。「アメリカ国の商人…ロンドン市中の貧しき人民に洋銀五十萬元をほとこしたり…この地にありて…富しことをかたじけなくおもひ其徳にむくはんとの心より出しことなりとかや」。 

 日本語で事を簡潔明瞭に書ける様になったのは明治になり新しい文体と単語が創られたからである。司馬遼太郎は現代文の創出に当たっての夏目漱石の役割をこう語っている。明治四十年の朝日新聞の一面を見ると記事は難しい文語体で書かれているが漱石の「虞美人草」が載っていてそこだけ日が照っているように明るい口語体である、漱石は既に自他を客観視でき多目的に使える文体を作り上げていた、と。その年漱石は手紙を二様に書いている。「拝啓其後は御無沙汰御海恕被下度候」(上田敏宛)と「私は…演芸会の特等の招待券をもらひました…もし行くなら一所に行きませう」(高浜虚子宛)と。

 同じ志士でも坂本龍馬と西郷隆盛では文章の書き方が違う。西郷は漢字主体で謹厳な姿勢を崩さない。友人の大久保利通に宛てた手紙も「八月二日著之飛脚相達候處貴兄之御書面不相見案煩居方々相尋候處一向不相見翌朝長蔵より承候處御賢母さま御養生不被叶段驚入仕合に御座候」である。龍馬の手紙は口語や誤字も混じる砕けたものが多い。姉宛に「竜馬二三家の大名とやくそくをかたくし同志をつのり…日本を今一度せんたくいた…すべくとの神願(心願の誤り)ニて候」と書いている。教養人の西郷と違い龍馬は、剣は超一流でも「本は読まぬ」ので、書き言葉の伝統形式に囚われず自己流に自由闊達に筆を走らせ、結果として現代口語文に繋がる形で書いている。創造の前に必要な破壊を行なって、若く(32歳に)して逝ってしまったが、創造も担って欲しかった人である。