余談雑談(第146回)Happy New Year
元駐タイ大使 恩田 宗
Happy New Yearを日本語でどう言うかと聞かれると困る。言う人、言う相手、言う場所、言う手段により言い方が違うからである。言語はそれが育った社会の枠組や規範に縛られている。英語と日本語では言う前の頭の中での発想や思考の仕方も違う。
「日本語の外へ」の著者片岡義男は米国のテレビで日本の貿易摩擦の担当者が先方を条理で論破するのではなく自国の事情をあれこれ説明し相手の理解を求める感情論に終始し酷い時はセンテンスの半ばで主語が何であるか覚えていない気配であったと嘆いている。米国人と英語で議論するときは日本語の外に出る必要があると書いている。日本語の枠内で発想し考えて英語で話すのではなく英語の枠の中に入り発想し考える必要があると説く。言語の枠はその言語での会話を沢山聞きその言語書かれた本を沢山読んで感得するしかない。
日本語には伝統的にセンテンスや主語の概念はなく叙述に切れ目がなかった。歌舞伎「與話情浮名横櫛」(お富・与三郎)の源氏店での与三郎の台詞は、恐ろしく息が長く英語で云う主語もくるくる変わるが、口滑らかで格好もよく、つい役者の声色を真似したくなる。「しがねぇ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、(俺は) どう取留めてか木更津から、めぐる月日も越し、(俺は) 江戸の親には勘当受け、なく鎌倉の、は食ひ詰めても、面へ受けたる看板の、疵が勿怪の幸に、切られ与三と異名をとり、押し借りも習ふより、慣れる時代の源氏店、(お主は) そのしらばける黒塀に、格子造りの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気はつくめぇ」(横線が主語、括弧内は筆者が補填)。
新憲法の前文は英文直訳で練れていないと不評である。しかし「日本国民は……この憲法を確定する」と一つの主語が長い文を統括しており論理はしっかり通っている。他方明治憲法第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は立派な法文であるが英語の目で読むと帝国と天皇の何れが主語か曖昧な文ということになる。日本文法の学者は「象は鼻が長い」文について主語は鼻で象は主題だと解説する。象の鼻についての叙述文ということになる。しかし長い鼻を持つ象全体を大きく捉えているこの文の感触に合わない。国語学者大野晋は「は」と「が」を対置させる構文は日本語による物事の認知の仕方の基本だと言う。日本語文を理解するためには文には一つの主語という英語の枠に囚われていては駄目である。片岡のいう日本の貿易担当者は日本語で考えたことをそのまま英語にして喋ったのだと思う。
Happy New Yearは新年が幸ある年であるようにとの希望・期待の表明である。あえて日本語に訳せば「新年お目出度うございます」であるが、新年が何故目出度いのかと理詰めで聞かれると返事に困る。