余談雑談(第144回)土(ツチ)

元駐タイ大使 恩田 宗

 丸谷才一は随筆「甲子園の土」にこう書いている。試合に出場した選手達はあの土を自分の思い出のためだけでなく土産としても持ち帰る、土などを土産にするのは野球の聖地の土には野球の精霊が宿るとの「呪術的な気持のせい」で外国にはない奇習だと思う、と。

 新井白石の「東雅」によるとツチは太古からの和語で漢字が日本に入ってきた時から「地」と「土」の両方をツチと読んできたという。日本人はそれ迄はその二つを分けて考えていなかったらしい。英語のアースと同じである。日本ではその時代から建築や工事の安全を願って地鎮祭をしてツチの神に祈ってきており野球の選手がグランドの土にその地の精霊が宿ると考えても可笑しくはない。

 日本人は土を耕して生きてきたので土との交わりが深い。遊牧民が家畜との交わりが深いのと同じである。長塚節の小説「土」が描く明治の貧農は(と云うことは「古代からそれ迄の大半の日本人は」ということになるが)、土の上に産まれ土にまみれて働き最期は粗末な木桶に詰められて土に帰る。主人公の小作人勘次は自分の家が火事で焼かれるとすぐ「灰を掻き集め……小山を作(り蓆を掛けて)雨に打たせぬ工夫」をする。自分の耕す田畑に入れるためである。彼の頭は常にそこの土への思いで占められていて生涯その地にかじり付く。

 漱石は「土」への序文で「(この小説を)読むものは、きっと……泥の中を引き摺られるような気がするだろう。……斯様な生活をしている人間が……(今も)いるという悲惨な事実(は公(きみ)等(たち)の行動や人生観に参考になる筈で)……余の娘が年頃になって音楽会がどうだの帝国座がどうだとのと云い募る時分になったら」是非読ませたいと思う、と言っている。現代の若者達にも同じことを言いたいがスマホで忙しい彼等がこの暗く気詰まりな長編小説を読む気になるか心もとない。

 平安中期の殿上の貴族は土に侍る地下の者を卑しんだ。枕の草子にも下(げ)衆(す)への侮蔑の心が読み取れる。光源氏の夜深けの女性訪問は牛車か馬でお供が随行するがお供は朝まで訪問先の下(しも)屋(や)に着の身着のままの雑魚寝である。源氏は須磨明石に謹慎した時も風光明媚の地に居ながら散策など凡そ大地を歩くということをしない。第一、着ているものが土の上を歩くのに向いていない。日本の支配層がツチから最も浮いていた時代だった。

 サウジ北部の古都ハーイルの北西からその東を回り南のリアドの先に続く砂漠の砂は赤く細かく美しい。同国在勤の思い出に瓶に入れて持ち帰った。守り袋に少し入れ「ハイル」砂だと言って受験生への土産にしたいと思ったが外国の砂などに「呪術的気持ち」を抱いて貰えるかと気が引けて帰国以来そのままにしてある。